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幽霊と僕 4

 隣で絶えず微笑みを浮かべる茜音さんを飛び越え、

クローゼットの二段目から冬用の毛布を取り出し床に敷いた。

その上に寝転ぶと『え、そこで寝るの?』と、彼女は起き上がってベッドに腰掛けた。


「はい」


『私がそこで寝るから、朝陽くんはベッドで寝てよ』


「いいです」


『えー、悪いよー』


「気にしないでください」


『でも……』


「毛布を畳んで敷いたから床でも痛くないです」


『うん……わかった。ありがとう、朝陽くん。

モテ要素の一つは達成したね』


 夜が明ければ彼女……茜音さんはいなくなっている。

幽霊という存在に位置づけたけれど、僕以外に見えていないということは、

僕がおかしいのかもしれない。


 寝たら治るはずだ。


『朝陽くんは優しいね』


 僕の頭上。ベッドの方から一つの言葉だけが降ってくる。


 彼女は幽霊。


 僕の目の映る存在であると同時に、

他者の目に映らぬ存在という矛盾と曖昧さを持っている。


 朝になればいない。


 元の日常へ戻る。


 暗がりの部屋の中から微かに聞こえる彼女の寝息。


 これで最初で最後だ。二度と聞くことはない。


 彼女の声も寝息も聞くことはない。


            *


 淡い希望は飴細工を壊すように簡単に割れた。

それほど長くない夜から陽が注ぐ世界へ戻ると、

茜音さんがタオルケットに包まり夢心地といった表情をしていた。


――いるのか……。


 カーテンを少しだけ開き、日曜日の世界を確認する。

希望を持ち合わせない曇天の中に、わずかに青空が顔を見せている部分があった。

ぽっかりと開いたそこには、何かが生まれてくるのだろうか。


 茜音さんを起こさないように、昨夜に彼女が読み漁っていた漫画を本棚に収める。

静かに、速やかに着替えを済ませ、階下へ下りてから、

母の作ってくれた朝食を食べてアルバイトへ向かう。


 今日は一日……といっても朝から夕方までの勤務だ。

店舗に着いてから、他の従業員に挨拶をして、店長から連絡事項などを受ける。

そこから品出しやレジなどを繰り返していく。

自身で労働の対価として金銭を受ける取ることは苦でない。

アルバイト先で見かける客の様々な人間模様も好きだった。


 一日の業務を終えて帰り道を自転車で走っていると背後から

「お兄ちゃん……!」と、声がした。

ブレーキをかけて振り返ると、自転車に乗った葉月がペダルを踏み込まず、

惰性のまま緩やかに突っ込んでくる。


 狙われた僕の自転車の後輪と葉月の自転車の前輪が軽度に衝突した。


「突っ込んでくるなよ。車輪が歪んだらどうするんだ」


「大丈夫、平気、平気」


――まったく……。


「お兄ちゃん、バイトの帰り?」


「そう」


「私は部活の帰りー。もう疲れちゃったー」


 再び自転車を走らせると、葉月は自身の置かれている状況を事細かに説明してくる。


 一箇月もすれば所属しているテニス部の中学最後の大会があること。

テニス部の男性顧問が顔に塗る日焼け止めを注意してくる上に、

日焼け対策として長袖に下をロングのジャージ着用にすると強く非難してくること。

さらに女子の部室に引きこもり、なかなか部活に来ないくせに急に現れ怒鳴ること。


 友人たちが同じ人を好きになり、その二人から相談され困っているという恋愛のこと。

どちらかを応援し祝福することになったとしても、

結局は自身の立ち位置のせいで一方を傷つけてしまう。

それでも相談を無下にすることはできない。


 学校内の合唱コンクールへ向けてクラスで練習しているが、男子が協力的でなく、

伴奏の女の子もピアノコンクールの練習をしたいから伴奏者を辞める、と言い始めたこと。

級長である葉月は男子へ練習するように厳しく促し、

伴奏者の女の子には頭を下げ引き止めているようだ。

その女の子が担当している委員の仕事を肩代わりし、

給食のデザートを賄賂として送っているらしい。


 息継ぎしているのか不思議に感じるくらいに、次々と背後から言葉を当ててくる。


「じゃ、ここで」


 前輪と後輪のブレーキパッドは摩擦を生み進むことを止める。


「え? なんで?」


「コンビニ寄るから先に帰って」


「私も一緒に行きたい……!」


 まだ六月初旬だというのに外気温は三十度ほどで、

店内へ入ると肌寒く感じるほどにエアコンは効いていた。

風量も異常に強い。


「なに買うの?」


「まあ……適当に」


 その言葉通りにカゴにパンと飲料を入れていく。

商品棚を眺めるだけで、ただ後をついてくる葉月。


「買わないのか?」


「うん。お金持ってきてないから」


「いいよ、買うから。好きなの入れて」


「えっ!? いいの?」


 パッと顔が輝く葉月は単純だ。

昨日、彼女の顔から笑顔を奪ってしまったことへの罪滅ぼしといったら言い過ぎだけれど、

ギターを購入するために蓄えていた金は、結局使うことがなかった。

懐事情にずいぶんと余裕がある。

葉月は甘味のコーナーでプリンやらケーキの吟味を始めた。


「どれにしよう……どれがいいかなー」


 僕は葉月のように悩むことがない。

いつでも適当に選んで、自身が何を欲しているのか、何を望んでいるのか、

深く考えることはしなかった。 


 人生だってそうだ。


 歩む道を深く考えても仕方ない。


 考えなくなったといった方が正確だ。


「ねえ、お兄ちゃん……」


 無表情な僕が葉月を一瞥すると、彼女は懇願するように眉を下げている。

幼い頃から上目遣いで僕を見つめる瞳は変わらない。


「お母さんとお父さんの分も買っていい?」


 葉月はいつもそうだ。

何かを買う時……何かをする時も誰かのことを考えている。

例えば一つしかないケーキがあったとしても、いつも半分にして僕に分けてくれた。

拒否したところで彼女は言うことを聞かずに、半ば強制的に与える。

その思考が理解できない、とまではいかないが、押し付けがましいと思うことがある。


 葉月はケーキやらプリンなど合わせて四個をカゴに滑り込ませた。

会計が終わり店外へ出た後も、帰りの道中でも繰り返しお礼を述べてくる。


 海に隣接した道路を走っていると、横から強い潮風が吹き、

僕の返答を奪いつつペダルを踏み込む動きも阻害した。


 葉月は自宅へ着くなり、キッチンで料理をしていた母へデザートがあると報告する。


「お兄ちゃんが買ってくれたんだよー」と、口角を上げ目を細くした。


「そうなの。よかったね、葉月。ありがとう、朝陽」


 お礼の言葉に気恥ずかしさは生まれない。

なぜなら母が浮かない顔をしているからだ。

普段から優しく明るい母は穏やかな人物であるけれど、

今は雨が降る前のどんよりとした空のようだ。

葉月も揚げたてのイカリングをつまみ食いしながら、その様子に気付いた。


「どうしたの、お母さん」


「んー、ちょっとね……」


「なに、なに、悩みごと? 相談にならのるよ」


 中学生の娘に悩みを相談する母親など多くないだろう。


「うーん……」


 首を傾げながら言い淀む母は、僕たちに伝えることを憚っているようであったが、

その後の内容によって妙に納得した。


「二人は朝から出かけてたよね? 一度も帰ってきてないよね?」


「私は帰ってきてないよ。お昼もみんなとお弁当食べたし」


 葉月が僕に目を向ける。


「僕も」


「そうよね……透くんも朝から釣りに行ってるから」


 父が未だ帰ってきていないということは、

釣果が芳しくなく防波堤で糸を垂らし粘っているのだろう。

早朝から夕方まで。

幼い頃は休日に四人で釣りへ行くことも多かったが、

僕が中学生になり、高校へ入学、と時を経るごとに減っていく。

葉月は父を邪険にすることもなく、部活や友人との約束がない限り、

釣り場へ向かい冷やかしているらしい。


 僕がアルバイトへ向かう四時間ほど前に、

父は釣り道具やクーラーボックスを持ち出て行った、と母は語った。


「え、なに、どういうこと?

お父さんが無言で帰ってきた可能性があって、こっそりと出てったってこと?

――それは不倫だ……不倫だよ……!」


 ずいぶんと話が飛躍している。

父が帰ってきたとは母は一度も言っていない。

葉月も話の筋は理解しているが、浮かない顔の母を少しでも元気にしようと、

わざと大きな反応を示している。


「やめてよ。透くんは不倫なんてしないから」


「わかってるよ、お母さんのこと大好きだもんねー。

冗談、冗談。ちょっとした冗談だよ。それで、なにがあったの?」


「んー……今日ね、二階から人の歩くような音がしたのよ」


「ええっ……!?」


 葉月の声はキッチン内に響いてシンクへ潜り込んでいく。


「気のせいかな、って思ったんだけど……。

ほら、テレビやパソコンの音を出さないと家って静かでしょ?

まだ蝉も鳴いてないから……。耳を澄ましたの」


「そ、それで……?」


「やっぱり誰かが二階を歩いているの。トントンって感じで」


「昨日の……昨日の幽霊!?」


――確定なのか。合っているけど。


「ううん、もっと軽い感じ。

それで二階に行ってみたの。朝陽か葉月が帰ってきたかもしれないな、って」


「危ないよ……! 二階に行く前に玄関で靴を確認したらいいのに……!」


 やはり葉月は物事の順序を考えられる子だ。

確かに家の者を確認するには靴を確認すれば早い。

 

 次の展開を待ち切れない彼女は、母に続きを話すように促す。


「それでね、二階に上がって葉月の部屋を確認したの」


「や、やめてよ……! なんで私の部屋を先に……そこになにかいるみたいじゃん!」


「葉月の部屋に入ると、しーんと空気が張り詰めているような気がしたの。

いつもと違う……違うかもしれないって」


「ええっ!? な、なに!? なにかいたの!?」


「ううん、気がしただけ。不安からくる緊張状態だったのかも。

葉月の部屋はいつも通り。全部、確認したけど特に変わりなかったよ」

 

「よかった……。それで、その後にお兄ちゃんの部屋に入ったの?」


 頷いた母は僕に目を向けた。



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