降雨の夏 11
しっとりと濡れた髪の毛がこちらに向けられている。
クローゼット内のチェストから水色のタオルを取り出し彼女へ渡した。
『やだ』
「え?」
『やだ。拭いて欲しい』
「どうしてですか……自分で拭いてくださいよ」
『仲直り……の証』
と、視線を窓の方に逸らし小さく言った。
後頭部で髪の毛を結っていない姿を初めて見る。
普段よりも艷やかで雰囲気がずいぶんと変わった。
やむなくタオルを受け取り彼女の髪の毛に繊維を当てていく。
『ちょっ……! 違うよ……!』
急に大きな声を出すものだから身体がびくりと挙動し、
「なんですか、いきなり……」と、タオルの中の彼女に問いかけた。
『もっと優しくやらないとダメ……!
濡れた髪の毛はキューティクルが開いて傷みやすいから!
叩くように水分を取るの……!
朝陽くんのお母さんも、さっきそういう風にしてたでしょ』
――見ていたのか。
『弟子よ、いいですか。女の子の髪の毛は丁寧に優しく拭いてあげること。
これは覚えましょう』
言われた通りに優しく、髪の毛にタオルを当てていく。
軽く叩いていると鼻を啜る音が聞こえてきた。
「もっと……弱くしたほうがいいんですか?」
『ううん……大丈夫……そのままで』
「なんで泣いているんですか……」
『わからない』
「わからないって……」
『わからないの……でも……出てきちゃうの……』
どうすれば止まるのだろう。
僕は彼女の涙を止める術を知らない。
*
次の日、アルバイトを終えた僕は、ある場所に寄り道してから帰宅した。
『どうして今日は帰りが遅いんですか。
なにか良くないことをしていたのではないんですか?』
と、茜音さんが訝しむ。
「まあ……ちょっと……」
『師匠に話せないことなのですか?
正直に話しなさい。女の子のところに行っていたのではないですか?
――不純異性交遊はダメですよ。うちの流派では認めていません。
何度も同じことを言わせないでください』
手にしていた紙袋をテーブルに置く。
『それ、なに? 甘い物?』
「違いますよ」
別の袋から帰りに購入したモモダーを渡す。
茜音さんが頬に冷えた瓶を当て喜んでいると、いきなり部屋の扉が開いた。
「お兄ちゃん……! 話したいことがあるの……!」
「ノック」
「あわわ……ごめん……」
身を小さくした葉月へテーブルに置いた紙袋から長方形の箱を取り出し手渡す。
「なに、これ……。えっ……! も、もしかしてプレゼント……!?」
「違う」
「えー、なんなのー」
「昨日……ギターを持って帰ってきてくれたから、それのお礼」
「やっぱりプレゼントだー!」
「違う」
「ねえ、開けていい!?」
右手を前に出し肯定する。
「わっ! えっ、かわいいー!」
白と黒を基調とした靴で、大きめのリボンが踝付近に施されている。
「お兄ちゃん、ありがとー! 葉月会に履いていくね……!」
――葉月会って、なんだよ……。
「いや……普段から履けばいい」
「ううん。せっかくプレゼントしてもらったから、葉月会で初めて卸したい……!」
「――そもそも葉月会って、なに?」
「葉月会は私が作った光と闇の組織です!
八月二十九日から夏休み最終日までに行われる葉月会のイベントがあるのです……!
夏の終わりに最後の戦いをするのです!」
どうやら葉月会というのは彼女が主催する遊び兼勉強会のようなものらしい。
一日目は夏休みの宿題が終わっていない者を激励したり受験勉強を共にする。
二日目に有名テーマパークへ遊びに行き、三日目は朝からバーベキュー。
昼前ぐらいに解散するようだ。
主な会場は友人宅が経営している民宿で、葉月会には総勢十数名が参加するらしい。
「それが話したいこと?」
先程、部屋に入ってきた際の言葉を繰り返すと、葉月は笑顔で首を振った。
「ううん! 違うよ! やっぱり言うのやめる……!」
「なんでだよ……」
と、僕は呆れる。
「サプライズ嬉しかったから、私もサプライズする……!」
そう言った後の不敵な笑みを見逃さなかった。
「なんだよ……嫌な……嫌な予感がする」
「お楽しみに……!」
葉月は僕が制止するのも聞かず母へ靴を見せにいくと言って部屋から出て行った。
大きく溜め息を吐くと茜音さんが『よかったね。喜んでもらえて』と、微笑んだ。
彼女を一瞥し紙袋から新たな箱を取り出す。
「これは……茜音さんにです」
彼女は胸の前で手を合わせ大きく目を見開いた。
『えっ……。えー! 私にもプレゼントくれるの!?』
「だから、プレゼントではないんですって。どうしてプレゼントに変換するんですか。
葉月にはお礼で、茜音さんにはお詫びです」
『お詫びなんて……いいのに。私も悪かったんだから。
でも、嬉しい……! 開けていい!?』
先程と同様に右手を差し出し肯定する。
『わー、私のも靴なんだー! かわいいー!』
茜音さんの靴は彼女のファッションに合うよう白いサンダルを選んだ。
『あ……でもさ、なんで私の足のサイズ知ってるの?
も、もしかして……寝ている時に、な、舐めたの!?』
「意味がわからないです。舐めて測定するなんて変態過ぎますよ、それ。
――葉月と身長が同じくらいなので……違っていたら交換してきます」
彼女はニコニコとしながら足をサンダルに通し『ぴったり!』と喜んでくれた。
『ありがと! すごく嬉しい! 朝陽くんって、こういうセンスもあるんだねー。
葉月ちゃんの靴もかわいかったし』
「女の子からの助言があったほうがいいかなと思って、胡桃に手伝ってもらいました」
『え、胡桃ちゃんに……? そう……そうなんだ』
昨夜、胡桃に連絡し今日の買い物に付き合ってもらった。
ただ付き合わせるのも悪いと思い、
彼女にも靴を購入したから三足分の代金は中々のものだった。
急に静かになった茜音さんに「どうしたんですか?」と、問いかけると、
『ううん、なんでもないよ。本当に……嬉しい! ありがと!』
と、取り繕った笑顔を向けられてしまう。
翌日、アルバイトから帰ると茜音さんは室内でサンダルを履いていた。
ベッドに寝転びタブレット端末を眺めている。
「部屋で履くのはどうなんですか。ここは日本ですよ」
『だって嬉しいんだもん。海外スタイルでベッドに寝転ぶのも悪くないでしょ』
「彼らは最近になって、ようやく気付いたみたいですよ。
土足で家に上がると室内が汚れる、ということに」
『嘘でしょ!?』
椅子に腰を下ろすと『弟子よ、今日は、なにかありましたか?』と、問いかけてきた。
今は夏休みであるから学校のことは聞かれないが、
アルバイトから帰ってくると必ず同様の質問をする。
特にない、と、返すのが常だったけれど、今日に限ってはそうならなかった。
「店長が逮捕されました」
『どうして!?』
と、久方ぶりのエピソードに勢いよく身体を起こした。
一日部屋で過ごしているから外界の話に飢えているのだろう。
「アルバイト先の女の先輩。
大学生なんですけど、その人の部屋に店長が侵入したそうです」
『ええ……気持ち悪い……女の子は無事なの?』
「無事か、どうかはわかりませんけど……。
直接的になにかをされたわけではないようです」
『どういうこと?』
「先輩が勤務している時を狙って、一人暮らしの家に侵入していたそうです。
たまたま先輩の体調が悪くなって、家に帰ったら自宅に店長がいた、という話です」
『怖い……サイテー。あー、でも、そっか……』
と、茜音さんは察しがついたようで僕に答え合わせを求めてきた。
『まず店長が勤務中の女の子のロッカーを開けて家の鍵の複製を作ったんでしょ。
店長ならロッカーのマスターキーを持っているから。
鍵を開けるのは簡単だし、住所や連絡先はバレてるし』
「詳しくはわかりませんけど、そうだと思います」
『もう……ダメなんだよ。
ダイヤル錠ならまだいいけど鍵のロッカーはマスターキーがあるんだから。
どこの会社だって同じだよ。あ、でも、ダイヤルにも鍵穴ある……か』
「そうですね」
『最低限、勤務中に邪魔にならないスマホと鍵くらいは肌見放さず持っていないと。
お財布も持てるなら持っていたほうがいいよ。
――持ち込み禁止の職場は仕方ないけど』
「まあ……犯罪者側が百悪いんですけどね」
『うん、それはもちろん。でも、みんなもっと危機管理を身に着けないとダメだと思う。
犯罪者から身を守る方法を。
鍵の話で言ったら不動産屋や大家さんも持っていることを考えていなさすぎるよ』
「実際に不動産屋とか大家が侵入している事件も多くありますからね」
『うん。不動産屋とかが勝手に入ってくるのなんて、
入居者が亡くなっている場合くらいなんだから。
別の鍵を付けちゃうか、鍵を増設しちゃえばいいんだよ。
なにかの理由でドアを破壊することになってもそこまで大きな金額じゃないよ』
「鍵を付ける業者にも警戒するべきですね」
『うん。自分の知らない間に誰かが侵入して、なにしてたか、って考えるとゾッとする。
ベッドも下着も食べ物も歯ブラシとかもあるんだよ?
余罪もあるだろうし何十回も侵入していると思うよ』
彼女の言わんとしていることは、よくわかる。
「カメラを仕掛けられている可能性も普通に考えられますよね」
『そう、本当にそう。
それを加害者だけじゃなくて警察官、検察官、裁判官にも見られるんだよ?
前に朝陽くんが葉月ちゃんに言ったけど人を信じすぎるのはよくないよね』
そうだ。
人を信じることが正しいわけではない。
人を疑うことも同様に大切だ。
「犯罪者は見た目では判断つかないですからね」
『その店長さんって、どんな感じだったの?』
「まあ……見た目は別として、嫌われてはなかったですよ。明るい人だったので」
『そうだよね。犯罪者が善人を装う、ってことはよくあるから』
「人を信じることが正しい、という刷り込みと思い込みの弊害です。
人の善意を利用する悪人は多くいますからね」
『あー、もう……気持ち悪くなってきちゃった。
――その女の子、大丈夫かな……』
「そうですね……」




