降雨の夏 5
茜音さんはコンビニやスーパーで買ったパンや菓子類を普段食べている。
常温保存できるからだ。
そもそも栄養が必要なのかもわからないけれど、嗜好品としては必要かもしれない。
『唐揚げ……いいなー』
彼女の言葉が横から入り教科書をパラパラと捲る手を止めた。
聞くべきではないのだろうけれど、聞かないといけない気がした。
それは彼女にとって酷な話だ。
理解していながらも問いかけてしまう僕は、嫌な人間と烙印を押されるかもしれない。
知っているのに……知らぬふりをしているのだから。
「さっきの話なんですけど……葉月が言っていたことです」
『うん、どうしたの? なんか話したいの?』
と、明るく光るタブレットの画面を消した。
「茜音さんは……自死について、どう考えますか?」
『自死……ね。先に弟子の意見を聞きましょう』
特に悲壮な雰囲気は感じ取れなかった。
彼女は……自ら命を絶っている。
「一般的な倫理観として、自死はよくないと認識しています」
『そっか……うん、そうだよね』
「茜音さんは?」
『私は否定しないよ。
一人の人間が最後の選択をしたことだから』
はっきりとした言葉と淀みのない瞳だった。
『人ってさ……みんな想うことも感じることも、人生で起きることもバラバラだよね?
同じ人もいないし、同じ道を歩むこともないよね』
小さく頷く。
『環境、状況、状態、感情、歩んだ道、全部違うのに、
自死した人のことを他人が否定するのって、私はおかしいと思う』
「世の中には自死することは絶対にダメだ、という人がいますよ」
『うん、いるね。その気持ちもわかるよ。
でもさ、人には……その人だけの苦しみ、悲しみがある。
一方的にダメだって否定することは、すごく酷いことだと思う。
その人は自死した人の心を知らないんだから。
自分はこうやって乗り越えた、って熱弁する人がいるでしょ?
さっきも言ったけど同じ人はいないのに、自分が乗り越えたから、
お前もこうしろ、って強制するのはおかしいよ。原因と対処も、それぞれ違うんだから』
「まあ……確かに」
『同じ痛みもないし、同じ心もない。みんな違う人間なんだよ。
――相手のことをわかったつもりになっても、わからないことのほうが多いんだから』
「つまり自死には正当性がある……と」
『そうは言わないよ、死んでほしくないよ。
でもね……一人の人間が、どうしようもないくらいに心を痛めて苦しんでいたんだよ。
誰の手も掴めなかったんだよ……握ってもらえなかったんだよ。
最後の選択として自死を選ぶことになってしまった。
絶対にダメだ、って私は言えないし、言いたくない』
透き通る綺麗な声は真っ直ぐな強さがあった。
「葉月が言っていたように……周りの人がどうにかできなかったのかな、
と、僕も少しは思います。
葉月には建前で、あのように言いましたけど」
『うん。朝陽くんが言うように、深く傷ついた心は戻ることがないから……ね。
自死を一方的に非難する人がいるなら、助けてあげればよかったのに……って思う。
でも……できない、できなかった、わけだよね。
結局さ、第三者だから簡単に言えることなんだよ。
自死はダメだ、悪だ。生きなきゃダメだ。
第三者が簡単に言っていいことじゃないと思うけど。
本人にしか、わからない苦しみがあるのに』
「…………。一昨年、去年は約二万人の方が自死しています。
自死の年次推移を見ると男性のほうが女性よりも常に二倍ほど多いですし、
それ以上の年もありました。
十九歳までは同数に近いんですけど、二〇歳を過ぎると男性の多さが顕著に表れます。
これは生物として起因することなのか、社会的なものが影響しているのか……。
理由は複合的なものであると思うので明確には掴めませんけど」
『うーん。男性が多い理由……ね。
やっぱり誰にも頼れない人が多いんだと思う。
男性って、どうしても社会での地位や金銭面を要求されるし。
それに、頼れるところ……受け皿を色々な理由で使えない場合も多いんじゃないかな。
男女平等とは言うけど実態は違うからね』
「そう……ですね。年齢を分けなければ、年間の自殺者は減少傾向にあります。
人口が減っているので当然ではあると思いますけど。
ただ……増加傾向にあるのは小中高生の自死です。
去年は約五三〇人の小中高生が自死しています」
『うん、多い……よね』
「小中高生の自死の多くが学業、進路の悩みによるものです。
イジメが原因とされがちですが、約五三〇人の中で十人ほどなんです。
イジメが隠蔽されているものも多々あるとは思いますけど。
学業不振が理由として多いですが、複合的に絡む要素として、
イジメではない対人関係も多くあると考えられます」
『今はさ……つらい時代に生きてるよ』
その言葉に疑問符を付けて僕は聞き返した。
『ずっとネットを……SNSを介して人と繋がっているよね。
なんでもそうだけど、良い面も悪い面もあるよ。
特に小中高生は、そこでもイジメにあったり、酷いことを言われたら、
どこにも逃げ場なんてない……そう思っちゃうよ。
そこだけがすべてじゃない、って……言われたとしても。
今はその場にいるという現実があるから。
変われないこと、変わりたいこと。
――SNSで大人に騙されて酷いことをされることもある。
どうしようもなく……心が疲れて、壊されちゃうんだよ』
茜音さんは僕と同様に事件事故などを頻繁に調べている。
『人を助ける、救えるのは……人の思いやりだよ。
私は音楽、その他のエンターテインメントも、その一端を担えると信じているの』
――人を助ける……か。
『あっ、他にもあるんだった!』
と、茜音さんは急に声を張り上げた。
『平良さんが前に言ってた。
動物……特にイッヌやネッコは人の心の動きに敏感だって。
つらい時や寂しい時に黙って傍に居てくれるんだって』
「あの人が……。そういう感情あるんですか?
感情論は認めず理論だけで話しそうですけど」
困ったように眉毛を下げ苦笑した茜音さんは答える。
『自分のためじゃなくて娘ちゃんのために。家でイッヌ飼ってたよ。
娘ちゃんがさ、思春期になって誰にも悩みを打ち明けられない時、
苦しんでいる時、泣いている時、イッヌが話相手になってくれる、って言ってた。
――心に寄り添ってくれるって』
「そういうこと……言うんですね」
『ふふ、平良さんはそういう人なの。確かに動物も人のことを助けてくれると思う。
いいよねー、イッヌもネッコも!』
真珠のように輝く瞳に気付き教科書へ視線を変えた。
「…………。飼えないですよ、生き物は」
『どうして……! 私が世話するし、食べ物とか……飼育のお金は私が払うから!』
――払えないだろう。
「前に野良猫を家に連れてきたことがあります」
『えっ、そうなの? 今はいないの?』
「いないです。小学生の頃に葉月と家に連れ帰ってきたんですけど、
父が猫アレルギーだったんです。その時に発覚しました」
『ああー』
と、落胆する声を上げた。
「猫は飼えない、という話になって……葉月が大泣きして大変だったんです。
それで『お父さんが家から出ていけばいい!』って」
『ふふ、かわいーね、葉月ちゃん』
「それを聞いた父も泣き始めてしまって。
キャンプ用のテントを庭に張って三日ほど野宿していました」
『あらら、お父さん』
「四日目の夜に、葉月が泣きながらテントの中に猫と一緒に入って、
『ごめんなさい……お家に……一緒に帰ろう』って。
父からは涙と鼻水が溢れていましたけど、どっちの理由か、わからなかったですよ」
『どっちもだよ。それでネッコはどうしたの?』
黒猫の顔を思い出した。
抱きかかえると微かに温かく、安心したように目を瞑っている小さな猫だった。
「猫は近所の人に飼ってもらうことになりました。
今でも葉月は遊びに……ああ、でも、基本は室内で半分放し飼いにしているので、
この家の庭にも時々遊びに来ますよ」
『そ、そうなの!?』
茜音さんは素早く立ち上がった。
「来ますけど……会えるかはわかりませんよ。
最近は見かけていないので」
『ネッコ……み、見たい! あっ……でも、放し飼い大丈夫なの? 事故とかさ』
「あの猫は大丈夫だと思います。
車の姿が少しでも見えたら道路を渡らないで通り過ぎるの待っていますし、
渡る時も左右を確認してから渡っています」
『ええ! 賢い!』
「それに横断歩道の概念があるのかもしれません。
人間の行動を観察していたのか……人がいれば横断歩道を一緒に渡っています」
『会いたい……! ネッコ……! ヌコ……! ヌコ!』
茜音さんの猫に対する想いを一通り聞いた後、二時間ほどペンと視線を動かしていた。
『お腹空いた』
と、言ってパンの包装紙を開ける音がした。
横目で確認すると一口分を含み咀嚼している。
彼女の好みの食べ物を買っているけれど、
本心としては特に食べたい物ではないのだろう。
パンを齧りながら空中を見つめる目が寂しいからだ。
「夕飯の残りでいいなら……持ってきますよ」
『えっ……いいよ、いいよ。朝陽くんが買ってくれるパンおいしいよ』
大げさに両の手を前に突き出し振っている。
無言のまま階下に下りてキッチンへと向かう。
リビングで父と母が大きい画面に現れたオカルト動画を観ている。
これは幽霊騒動の影響だろうか、と心配になった。
怪しまれないように、冷蔵庫から鶏の唐揚げや副菜の残りを取り出していたが、
背後から「どうしたの?」と、母が来てしまった。
「あっ、と……夜食……食べたいな、と思って」
「え、夜食……? 言ってくれたら用意するのに。ちょっと待ってて」
母は食器を用意し鶏の唐揚げや副菜を皿に盛り付ける。
そして冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板の上に乗せた。
「いや、いいよ。ご飯とおかずがあれば」
「お味噌汁は必要でしょ」
小気味よい音を鳴らし野菜を等間隔に切る母の背中を見つめた。
「嬉しいなー」
と、母は分離していくナスをまな板で整えながら独り言のように呟く。
「なにが?」
「朝陽もいっぱい食べてくれるように……食べられるようになったんだー、と思って」
「嬉しいの、それ」
「うん、嬉しいよ。子どもの頃から朝陽は葉月より食べないでしょ?
私の料理が口に合わないのかなー、って少しだけ寂しかったの」
――そんなことはない……いつだっておいしい。




