幽霊と僕 3
人のために生きること。
一般的に立派だと言われる。
そこに存在するのは善だけなのであろうか。
いや……そんなことはない。
人のために、世のために、善行をしたが故に生まれるものがあると僕は知っている。
少なくとも僕にはそうだった。
そもそも世の中には「人のために」という善意を利用する者がいる。
さらに人の皮を被っただけの悪魔は確実に蔓延っていた。
世に溢れる事件を調べれば一目瞭然だ。
悪が生んだ笑顔の裏で泣いている人がいる。
善が生んだ笑顔の裏で泣いている人がいる。
誰かの犠牲は誰かの幸福になって、誰かの幸福は誰かの悲哀になる。
「人のためになにかをしたくない。
ありませんよ、理由なんて」
『ふーん。少し冷たい……』
「冷たいと思われてもいいです」
『さっき……妹ちゃんにも冷たい言い方してたもんね』
肩を軽く叩かれた。
サウンドホールから引き抜いた時、自己紹介で手を握った時も。
僕と彼女は触れ合うことができる。
『あの言い方はよくないよ。家族……かわいい妹でしょ?』
「違います。妹じゃありません」
『そういうこと言わないの。うーん……朝陽くんって何歳?』
「高校一年……十六歳です」
『そっか、十六歳か。
そういうの言いたい年頃、特に男の子として尖りたいっていう気持ちはわかるよ。
でもね、よくないよ』
「尖っていないですよ」
『尖ってるだけだと女の子にモテないからね。
まだ十六歳のきみに教えておくよ。
大きい優しさ、少しの危うさ、時に弱く。
これモテの三要素ね、覚えておくように。
ちなみに私は十九歳。享年十九歳ね。年上だから敬ってね』
僕に向かって両の手を広げた後で、右手の親指だけを畳み年齢を表している。
十九歳という若さでこの世を去っていたのか。
なぜ、亡くなったのだろう。
彼女の死因は、何なのだろう。
「――見栄とか強がりで言っているわけではないです」
『じゃあ、どうして?』
床の木目に目を向けていた僕の顔を覗き込んでくる。
やはり表面ではなく奥にあるものまで見透かされそうだ。
「僕の話はいいです。茜音さんが成仏するという話はどうなったんですか」
『そう、そう。本当に助けてくれないの?』
「はい」
『そ、即答!? わー、ひどい、サイテー。呪ってやる!』
両の手のひらを僕に向けても何が起こるということもなかった。
*
葉月の恨み言が現実になることはなく、夕食が用意されたテーブルには、
ハンバーグを主菜とした彩り豊かな品が並んでいた。
先程のことを気にする素振りもなく、彼女は「早く食べよ!」と声をかけてくる。
「――今日、お兄ちゃんがギター買ってきたんだよ」
「そうなの? それでバイト始めたんだ。今度、聞かせてね、朝陽」
青い小皿に取り分けられたポテトサラダを母から渡される。
「いいよ……弾けないし」
「これから練習するんでしょ?」
「多分ね」
「がんばってアルバイトして買ったのに、やめたら意味不明だよ」
と、ハンバーグの一部分を切り離した葉月が言う。
この家の料理は大層立派なものらしい。
父の友人が訪ねてきた時や葉月の友達が泊まりに来た時も絶賛していた。
母の友人の中には料理を教わるために足繁く通う者もいる。
ハンバーグというものは焼く過程で脂が外へ出てしまうことが多く、
母には独自の調理方法があるようで葉月に継承していた。
目の前にある綺麗に焼けた肉は口の中で脂の旨味を感じる。
これが好物の父は人付き合いで飲み会へ向かったけれど、帰ってきてから食べるはずだ。
「お兄ちゃん、おいしい?」
ハンバーグを口に入れる瞬間を狙っていたのか、
葉月は自身の口元をわずかに汚したソースを気にせず感想を強いてくる。
「いつも通りだよ」
「なに、それー。
お母さん、お兄ちゃんが将来モラハラする人になったら……どうしよう。
お嫁さんがかわいそうだよー」
「朝陽はモラハラなんてしないよ。透くんに似て優しい子だから」
――似ていないよ。
透くんとは父のことだ。
「今日のハンバーグは最初から最後まで葉月が作ったから……。
ね、朝陽、感想お願い」
「感想……って」
目の前の二人から結託した意思を感じる。
まるで、背後に共同の守護霊を持ち合わせているかのように。
「どうかな……お兄ちゃん」
――はあ……。
正直に言えば済む話だ。
いや、正直でなくてもこの場面を切り抜けるために虚言で固めてもいい。
当たり障りなく穏便に。どこにいてもそうだろう。
学校であろうと社会であろうと。
それでいいはずだが言葉にならない。
なぜ、言えないのだろう。
相手が望んでいる言葉を出すだけだ。
それは相手を気遣うと同時に、自身が相手に対して無条件でひれ伏すことに似ている。
恐れているのだろうか。
葉月に? 母に?
そんなことはない。素直に口にすればいい。
実際にハンバーグは、とてもおいしいのだから。
母の料理と遜色ない上に、焼けた肉にかかるソースは旨味と甘さがちょうどよく絶品だ。
「うん……そうだな……」
と、感想を述べようとした時だった。
ドン! ドン! ドドン! ドン! ドドン!
香ばしく良い香りの室内に響いた音。
「えっ! な、なに!? なんの音……!?」
葉月が母に身を寄せる。
母はポテトサラダを捕まえていた箸を置いてから、彼女の華奢な肩を優しく抱いた。
ドン! ドドン! ドン! ドドン! ドン!
「な、なんの音!? 上から……? に、二階?」
衝突音のようなものは確かに二階から鳴っている。
僕には音を生み出している者の正体はわかるが、
目の前の二人は身を寄せ合い戦々恐々としていた。
もちろん僕自身も幽霊という存在の茜音さんを見た時は驚愕したけれど。
「だ、誰かいるのかな……」
「誰かって……誰か家に連れてきたの?」
二人の視線がハンバーグと白米を咀嚼する僕に集まった。
冷静に首を左右に振るが二人の恐怖は和らぐどころか一層増していく。
鈍い音は今も続いている。
「お母さん……! 怖い……!」
「大丈夫よ……地震かな?」
「違うよ……! 揺れてないもん……!」
「そうね……」
「どうしよう……お父さん、まだ帰ってこないよ!」
「朝陽がいるから大丈夫よ」
――みょうが。
今日の味噌汁は、みょうが、小松菜、いんげん豆、油揚げが入っている。
みょうがは嫌いではないけれど、なぜかショックというか胸の辺りがざわざわとした。
加熱したことで独特の香りが薄まっていくように、葉月の声の勢いも緩徐になっていく。
音の正体を知る僕にとって二人の恐怖と同調することはない。
静かに箸を動かし料理を口に運ぶ。
「あれだよ……闇バイトってやつ……! きっとそうだよ……!」
「闇バイト……。そうね、警察に電話してみようか」
母はスマートフォンをエプロンのポケットから取り出した。
急に家に現れる人物という見方だけすれば、音の主は闇バイトと思われても仕方ない。
しかし、音の出処の存在は市民の安全を守る国家権力であろうと、
国を防衛する組織であろうと、彼らが対応できる範疇を超えている。
「いいよ、通報しなくて」
「朝陽……なにか知ってるの?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ひゃあいー! 怖いよー!」
「大丈夫。葉月、落ち着いて」
四十代を迎えた母だけれど、食べ物やスキンケアに気を遣い、
ストレッチなどもしているから外見はとても若々しい。
都内へ買い物に行けば、葉月と姉妹に間違われて共にナンパされたりもする。
料理や洗い物を頻繁にしているとは思えないほど手は白く綺麗だ。
その指先が掴むスマートフォンは震えている。
「僕が見に行くから」
「危ないよ……!」
席を立った僕の背中に葉月の言葉が飛んできた。
「このまま静かに玄関まで出て車に行こうよ……!
一旦、家から離れて……そこから警察に通報しようよ……!」
葉月は普段は明るく奔放な感じであるけれど、
ここぞという時には冷静に建設的な意見を出せる子だ。
「大丈夫だから」
「だって今も鳴ってるよ……!? ほらー! 鳴ってる!」
ドン! ドン! ドドン! ドン!
「二人で待ってて。なんかあったら叫ぶから、そしたら外へ逃げて通報すればいいよ」
困惑している母に葉月を任せ、足早に階段を上って自室へと向かう。
音は今もなお鳴っているが、あの人以外に音の犯人はいないという確信から、
歩みに躊躇いが生まれることもなく自室のドアを開けた。
開けると同時に音も止む。
背を向けていた茜音さんは、すぐに振り向き笑顔に変わる。
なぜか息を切らし額に汗が滲んでいた。
幽霊も汗をかくのか。
「なにしてるんですか」
『え? 運動。うーん、運動?』
生前の彼女は歌う前などに、身体を脱力させるための準備運動をしていたようだ。
特に肩周りの力を抜くために上下に飛び跳ねることが日常だったらしい。
幽霊になっても生活に染み付いた行動は消えない。
一階での経緯を話すと茜音さんは謝罪を口にした。
二人が階下で耳を澄ましていることを想定し、葉月の部屋や他の部屋、
トイレの扉などを大きな音で開閉する動作は怠らない。
階下に下りると、案の定二人は一階の廊下で持っていたが、
すべての部屋とクローゼットも異常無し、と報告した。
三人で食卓へ戻った後も二人は疑心暗鬼のまま食事が綺麗に喉を通らないようだった。
僕もそれに倣い黙々と食事を続けた。
「さっきの運動……やめてください。一階にけっこう響いてました」
『うん……ごめんね。怖がらせちゃったかな』
シャワーを済ませ自室に戻ると、寝る前に母と葉月が部屋に入ってきて、
異常は無いか、と問いかけてきた。
僕の部屋には異常がある。
やはり二人に茜音さんの姿は見えていない。
姿は見えなくとも先程のように彼女が生み出す音は聞こえている。
「僕は寝ますよ。電気は点けていてもいいので」
『はーい』
茜音さんは勉強机の前で熱心に漫画を読んでいる。
死神を題材にしたバトル漫画だ。
生前に読んでいたようだが、作品が完結する前に亡くなってしまったのだと嘆いていた。
背後から返事がしたと思った矢先、ベッドの片側が沈み柔らかな感触が腕に伝わる。
「ちょっと……なにしてるんですか」
『え……だって寝るんでしょ?』
「一緒は……まずいですよ」
「どうして?」
「どうしてって……さすがに……」
『あ、照れてる。女の子と夜を共にすることに』
「照れていないです」
『きみは私に触れるんだもんねー。幽霊相手だけど……色々考えちゃうよね。
ううん、幽霊相手だからこそ色々なこと考えちゃうんだよね、ふふふ』
――なんなんだ……この人。いや、この幽霊。
「大体、幽霊も寝るんですか?」
『うーん、わかんない。でも、眠いから……寝たいんだと思うよ』
「はあ……。わかりました」