悲嘆の夏 19
「ごめんねー」
と、スマートフォンに夢中になっていたのであろう、
二十代半ばぐらいの女性の飼い主が犬を抱きかかえ遊歩道へ戻っていく。
『イッヌ。イッヌ……行っちゃった……バイバイ……』
と、非常に寂しく手を振っている。
ベンチに腰を下ろした茜音さんは、
『ごめんね、泣いちゃって。私って泣いてばっかり……だね』
と、静かに言った。
明確に否定することや慰めの言葉が見つからず、
汗だくになってジョギングしている中年男性の動きを眺めた。
『――外国人のことって悪いことばっかりじゃないよ。
朝陽くんにとってソムさんは大切な友達でしょ』
「ソムさんは……そう言ってくれますね」
『人と人の関係に日本人とか外国人は関係ないよ。
心を通わせることに年齢も性別も国籍も関係ない。
でもね、国という、日本人という枠組みは必要だと思う』
「国……ですか」
『うん。私は日本が大好き。日本人も食べ物も景色も文化も大好き。
――音楽も大好き』
真っ直ぐに言葉を出せる彼女が少しばかり羨ましい。
今を生きるどれほどの人が、淀みなく、この言葉を出せるのだろうか。
『日本が日本である理由って、やっぱり人と文化だと思うの。
だから、血を絶やしてはいけないんだよ』
「日本人の……血ですか」
『うん。だから、朝陽くんには血を絶やさないようにしてほしい。
あっ! 別に子どもを作れって強制しているわけじゃないよ。
朝陽くんは、これから大人になるでしょ?
大人になったら、次の未来を担う子どもたちを守ってあげてほしい。
それが血を絶やさないことに繋がるから』
「…………。無理ですよ」
『どうして?』
「無力な正義に価値は無い、らしいですよ」
大学生風の男性の言葉をそのまま吐き出す。
「僕には……なにかを変える力はありませんよ」
と、遠くで揺れる木々を見て続けた。
『本当に、そう思うの?』
頬を両の手で挟まれる。
『色々なことを考えている朝陽くんだからこそ、これからを作れるんだよ』
「…………。できませんよ……」
『そっか……うん、わかった。
――でもさ、死んじゃった私には……もうできないことだから。
そういうこと考えてくれたら……繋いでくれたら、師匠としては嬉しいよ』
頬から手を離されると殴られた傷が戻ってくるようで、
じんじんとした痛みと鈍い反発のようなものが口内を叩く。
カバンにタオルなどを入れながら「そろそろ、帰りますか」と、問いかける。
先の外国人との争いで作曲できる心理状態ではなくなってしまったからだ。
『うん、そうだね。
――今日の朝陽くんは、本当に頼もしかったです。とてもカッコよかったです。
朝陽くんが助けたから、あの子の身体と心は傷つけられなかったです』
硬さのないカバンの口は好ましくない。
開けても萎れる花のようにクタッと口を閉じてしまうのだ。
楽曲作成用のノートやボールペンを入れていると背後から『ご褒美をあげましょう』
と、言われた。
背中越しに茜音さんと会話する。
「ご褒美……。なんですか?」
『私からのキスです』
手が止まる。
カバンの中でノートが暴れないようにタオルなどを使い位置調整していた手だ。
心臓は定期的な動作から、一つ跳ね上がった気もした。
『聞こえていますか? 私からのキスですよー』
「…………。性は簡単じゃないんでしょう」
『あー、今それ言うの?』
「自分で言ったんじゃないですか」
『今回は適応外です。それに、本当はしたいんでしょ?』
「なんでもそうですけど、決めつけはよくないですよ」
『したいくせに。したいって言えばいいのに。
素直になりなさい、弟子よ』
「決めつけないでください」
背中を丸め下がっていた頭部に手が優しく乗る。
『よくがんばりました』
「もう……嫌ですからね」
『よくがんばりましたー!』
頭を両の手で抑えられ、ふと、視線を移すと、
犬の散歩をしていた女性が、遊歩道からこちらを見て訝しんでいた。
茜音さんの姿は当然見えていない。
自宅に帰ると母と葉月から顔の腫れに関して心配され簡易な手当を受ける。
その後で追求の嵐に巻き込まれ、顔や身体の痛みより言い訳に苦労した。
蝉は悠々自適な声を上げ夏休みは目前に迫っている。
*
関与していない三枚目のアルバムが出ていると知った日。
ミーちゃんの遅刻は影響せず、リハーサルは順調に進み定刻で終わった。
「ミーちゃん、ご飯……どこに行く? それとも私の家で食べる?」
「んん! ごめんねえ! あかちん! ミンミ、今日はやることあるの!」
と、両の手を合わせ背中を丸めた。
背を向け緑色のオーダーメイドであるベースやシールドをケースに手早く入れている。
「そっか……うん、わかった」
次の仕事がすぐに無い限り、いつも食事を共にする。
「ごめんねえ。本当は一緒に食べたいんだけどお……。
でも、ミンミね、どうしても……やることがあるの……!」
「うん、大丈夫。今度、ゆっくり食べようよ」
「うん! バーイ! あかちん! したっけー!」
他のバックバンドのメンバーから食事に誘われたけど気乗りせず断ってしまう。
ミーちゃんと話したかった。
平良さんと話す前に。
スタジオ内にある休憩室から平良さんに電話をかけると、
彼はいたって冷静でオフィスへ来るように命じた。
二時間後、扉を三回叩く。
あの時のように彼が迎え入れてくれることはなかった。
「どうぞ」という声も聞こえない。
静かに取手を引くと中央の机で黙々とパソコンに向かう平良さんがいる。
室内の様子を見てギョッとした。
以前は整然としていた棚のガラスのほとんどが割れて床に散らばっているし、
CDは落ちていないけれど雑誌類が散乱している。
「あの……平良さん」
その声で彼は、すっと顔を上げた。
あの時のように微笑むわけでもなく、視線を画面に戻し、
しばらくの間キーボードを叩く音だけが室内の無音を埋めていた。
所在なく扉の前で佇んでいると「座っててくれ。これが終わったら話せる」
と、こちらに目を向けることはせず、画面を見る瞳は左右に動いていた。
私はテーブルの一点を見つめている。
時折、膝の上に置いた手が震え、
緊張を見透かされないかと不安になり強く握りしめた。
仕事が片付いたのか、彼はいつの間にか私の前に座っている。
普段と違う。
目元と口元が腫れている……ような気がした。
私は、すぐに下を向いてしまって、詳しく観察できない。
「それで……話とは、なにかな」
テーブルから目を離せない。
「私の……三枚目のアルバムが出ています」
「そうだね、今日が発売日だ」
「どうして……どうしてアルバムが出ているんですか?」
今度は緊張を隠すためではなく、別の理由で強く手を握りしめた。
「和泉茜音のアルバムが出ることは、すでに決定事項だった。
あの時……スタジオで中止を告げた時に、新たな策を練ったにすぎない」
「新人の子の……仮歌が……そうだったんですか?」
「なんだ、アルバムは聴いていないのか?」
「聴いてません……!」
手を一層強く握り言い返した。
「そうだ、あの時の曲だ。
――きみは曲が作れない、と言っていたね」
「言いました。だからって、なんで……なんであんなことするんですか!」
「喚かないでくれ。女性は……すぐに感情的になる。
いいかい? 話し合いがしたいなら落ち着きなさい。
感情をぶつけるだけでは話し合いにならない。整然とした話になるよう努めなさい」
返事をせず微かに首を動かす。
「中止を決めた時に、懇意にしている作家たち……優秀な五人にすぐに連絡した。
『和泉茜音風に仕上げてくれ』と、一人につき三曲ずつ依頼したが、
彼らは二つ返事で了承したよ。
さらに納期を七日間に限定したが、彼らのほとんどが三日で仕上げ私の元へ来た」
ちらりと平良さんに目を向けると眉尻を下げ、
私を憐れむような、そんな目をしていた。
「わかるかな? これがプロだ。七日間という縛りの中で、さらに納期前に納める。
クライアントが手直しを求める可能性を加味し、彼らは早めに納めたんだ」
彼は軽く瞼を閉じ、鼻腔から大きく酸素を吸い上げ空間へ戻す。
「話がズレたね。きみが欲している答えではない……か」
「どうして……こんなこと……するんですか?」
「どうして……か。理解しているのに、理解していないふりをするな」
「私が……人の作った歌をリリースしたくないって知ってるのに……どうして……」
「久保さんの曲は受け入れただろう」
「あの曲は……尊敬する久保さんが私のために作ってくれたからです……!」
自身の発言で目元が熱くなり、抑えていた涙が溢れ出す。
久保さんの名前が出たことで「リリースしなくていいから貰ってくれよ」
と、優しく微笑む彼の姿が脳内に現れ余計に涙は止まらない。
「――泣くな。きみには前に教えたね。泣いても現状は変わらない。
泣けば誰かが助けてくれる、甘い考えだ。そこに付け込む悪意を持つ人間もいる。
人前で簡単に涙を流すものではないよ」
それでも涙は加速していく。
「涙で相手のことを動かそうとするのは愚の骨頂だ。
涙が通用する相手にしか効果が期待できないからね。
特に女性から男性へ向ける涙には、相手の欲望に訴えていることになり意味をなさない。
同情を誘発したところで物事の本質からは遠ざかる。
相手からの同情は根本的な解決に繋がらないばかりか物事を霞ませ鈍らせるものだ。
よく覚えておきなさい」
涙を手で拭ったところで次々に生まれてきてしまう。
「どうして……どうして……」
「先程も言ったが……理解しているのに、理解していないふりをするな。
わかっているだろう。きみが『和泉茜音』だからだ」
彼が言うように私は理解している。
でも……認めたくなかった。
平良さんがしたことを今も認めたくない。
鼻水を啜り上げると涙で霞む視界に正方形の白い布が向けられていた。
震える手で受け取ると彼は話を続ける。
「わかるかな。『和泉茜音』だ。
きみということに間違いはないが『和泉茜音』はプロのミュージシャンだ。
そこには様々な人が携わっている。
レコーディングにしても、ライブを行うにも様々な人が関わっているんだ。
例えば、ライブは会場の設営、サポートメンバー、音響、警備、様々な人が関わる。
CDを出せばレコーディングスタッフのみならず、流通、広告と多岐に渡る。
きみのわがままで、はい、そうですか、と、アルバムを飛ばせるわけがない」
ただ黙って聞いていることしかできない。




