悲嘆の夏 15
「特に……なにも言っていなかったですよ」
『ほんと?』
「はい」
『でも、二回目入ってきた時、恐る恐る漫画とか持ち上げてたよ?』
「気のせいだって納得したんじゃないですか」
茜音さんは僕の頬を両の手で固定した。
逃げ場のない状態。真っ直ぐで綺麗な瞳と僕の瞳が合致する。
ありふれた日々の何もない空間。
――きれいな人だ……な。
二人は言葉を出さない。
しばらく膠着状態が続いた。
よくわからない鼓動の高鳴りが外へ飛び出そうだった。
『そっか……それならよかった。
私を守るために朝陽くんが追求されてたら、かわいそうだなー、と思って』
「なにもないですよ」
『ふふん、そういうことにしといてあげる。
――嘘にも優しい嘘があるから。私は嫌いじゃないよ、そういうの』
軽やかにベッドへ寝転び、透き通りつつも音の深い綺麗なハミングを始める。
その音を聞きながら、先程の『私が死んでから』という言葉を反芻した。
朝起きれば必ずいる。学校から帰れば必ずいる。寝る前も必ずいる。
しかし……。
彼女は亡くなっている、と改めて認識した。
いつかは……いなくなってしまうことも。
*
茜音さんに誘われ公園へ出かけた。
外で弾く楽器の音は気持ち良いらしい。
割と広い敷地だけれど人の数は平日、休日問わず多くない。
この場所は川沿いに作られていて、隣町まで続く遊歩道には、
ジョギングや犬の散歩などをしている人が見受けられた。
芝生の上には幾らかの東屋が点在し、その一角に僕と茜音さんは腰を下ろす。
『――さあ、私の願いである最後の曲を作ろう』
「僕はよくわからないですよ。
わかるのは多少の音楽理論とコードだけです」
『それだけわかっていれば十分だよ。理論を知らなくても音楽はできるから。
簡単に言うと、他の人と意思疎通……音で会話するためのものかな」
「音楽における共通の言語のようなものですか?」
『そう、そう。
アレンジ、セッション、アドリブするなら覚えておいたほうがいいけどね。
作曲するなら知っていて損はないけど、知っていなくても作れるから。
大切なのは気持ちや感性を音にすることだよ』
「そういうもの……なんですか」
『そうだよ。ちなみに作曲には主に曲先、詞先って言われるものがあってね。
その名の通り曲先はメロディと伴奏から作ること。詞先は歌詞から先に作ることだよ』
「茜音さんは、どうやって作っていたんですか?」
『ギターでコードを弾きながらメロディと歌詞が同時に出てくることが多いかな。
曲先でも詞先でもなくて同時に、ってこと。
――その後、手直しはするけどね。
詞先の時もあるけど、作ったメロディに合うように添削したり言い回しを変えたり』
茜音さんの最後に作っていた楽曲はイントロとAメロの途中までは出来ていて、
それらを彼女に口頭と鼻歌で説明してもらう。
二人で話しながらポロポロとギターを鳴らす。
「あの……ここの間に別のコードを入れたほうがいいような気がするんですけど」
何でも意見を出し合おうと作る前に念を押されていた。
創作の場に遠慮はいらない、と、強く言われる。
『どんなの?』
「このコードをこんな風に……一瞬、二回だけストロークして――」
『わっ! いいねー、それ! 元に戻るために引き込まれる!』
「じゃあ、これも候補にしますか」
と、持ってきていたノートにペンで書き込む。
『ねえ、ねえ、それ、どこで覚えたの?』
ノートに書き込む英数字から茜音さんへと視線を変える。
『そのコードの流れにしようって普通は思いつかないよ。
それに、そのコードなに?
構成音的には……フラットフィフスだけど。
重なる和音の響きが独特……珍しい押さえ方だし』
「押さえづらいですけどね。
せっかく六本もあるから、同じ音の重ね方は工夫したほうがいいと思って」
茜音さんの楽曲を聴いて、気持ちの良い音の並びやコードの流れ、
それを感覚的に理解しているから出てきたものだ。
コードなどを引用したわけではないけれど、彼女の良さを応用したにすぎない。
すべての言葉は出せなかった。
あなたの最後の楽曲になるのだから、と。
『朝陽くんは、すごいよ』
と、ポツリと声を漏らす。
『ギター始めたばかりなのに、もう弾き語りできるし作曲もできる。
コードだって自分で考えて作っちゃう。すごいよ、朝陽くん』
「すごくないです。お――」
『はい、お世辞とか言わない』
と、先手を打たれ、僕の言葉を盗まれる。
『楽器ってさ、練習すれば誰だって上手くなれるんだよ。
そこに行くまでに理由をつけて諦めちゃうだけ。
世界最高峰の人と肩を並べることは難しいけど、
それでも人から上手だね、とか、感動した、って言われる演奏はできる。
でもね、練習だけでは手に入れられないものがあるんだよ』
「なんですか?」
『歌声だよ』
「歌声……ですか」
『前にも言ったよね、声質。人の歌声って天性のものだよ。
でも、それだけじゃない。その天性の歌声には乗るものがあるの。
歩んできた道、想っていること、感じていることが歌声に乗るの』
「そう……なんですか」
『あ、疑ってるなー?』
「いえ、疑ってはいないです」
『本当だよ。よく表現力とかって言うけど、あれは歌の技術でしかないの。
本当の表現力は想いを歌声に乗せること。
聴いた人は、それを感じ取って感動するんだよ』
その最たる例が和泉茜音だろう、と僕は思った。
『朝陽くんの歌声には、それがあるよ』
「…………。ないですよ」
『あるの。和泉茜音が言うんだから間違いない。
平良さんに聴かせたら、すぐにデビューさせると思うよ』
「ありえないです」
『ありえなくない』
この流れは以前の繰り返しになる、と、考えて、
木製のベンチに置いたタオルで僅かに浮かんだ汗を拭う。
僕がギターで伴奏し茜音さんがメロディを口ずさむ。
そこには適当な英語と日本語が並んだ。
ハミングは頻繁に聴いている。
それは……とても美しい。
それよりも儚く美しいものがこの場に生まれる。
初めて和泉茜音の歌声を目の前で聴いた。
真夏の空に上っていく声。
世界が綺麗な青色に変わり、今、世界が滅んでも悔いはない声をしていて、
身体の血液が踊るような幸福を含んでいた。
何度もコードを繰り返し、その度に違うメロディが僕の耳に届く。
一つの一つのフレーズが神々しい。
コードによる伴奏と歌声のメロディをスマートフォンで録音していく。
何気なく動かした視線の先に人の姿がある。
距離はおよそ三十メートルほどで、円を作っている男性四人組だ。
偏見かもしれないが、服装の雰囲気や所作で、
日本人か外国人であるか何となく掴めてしまう。
彼らは外国出身だ。
話しながら左右にゆらゆらと揺れ、囲んでいる正体が見えた。
人と人の間から見える人物。
学生カバンを胸の前で抱きしめた女の子。
謝罪するかのように頭を何度も下げている。
『朝陽くん、い――』
その声を聞き終わる前に立ち上がる。
ギターをケースに入れ芝生の上を走り出す。
右手にかかる重みで上手に走れないが、それでも彼らとの距離は確実に近付いていく。
微かに彼らの会話が蝉しぐれと共に耳へ入る。
「イインダ、クルマノレ!」
「ムリデモイイ、ハヤク、ハヤク」
「ハッハハー! タノシミダ! ハッハー!」
「ハヤク、ノレ……! オイ!」
彼らの元に辿り着くと中央で小さくなっている女の子は、
「ごめんなさい……ごめんなさい」
と、何度も頭を下げていた。
僕の存在に気付いた外国人たちが一斉に振り返る。
「ナンダ、オマエ」
と、一人の男性から先程までの笑みが緩徐に消えていく。
四人の顔は浅黒く、うねうねと絡みつく髪、似たような風貌だ。
「なにしてるんですか?」
と、彼らを刺激しないように穏やかな口調で問いかけた。
「ナンダ、オマエ、キエロ」
四人の内の一人が円から外れ僕の眼前に立つ。
兵士のような体格をしていないことが幸いだ。
目の前に立つ男性の背丈は僕より小さいし、残りの三人はそれ以下である。
腕力による争いを始めようというわけではないが、
体格差というのは戦闘において非常に重要な要素だ。
彼らに言葉は通じても、話は通じないと考え、
中央に佇む女の子に「どうしたの?」と、問いかける。
怯えきった表情で目に涙を浮かべ「い、いきなり声を……か……かけられて……」
と、言葉を詰まらせた。
「なにもしてないんだよね?」
彼女は先程の必要がない謝罪より浅く縦に首を動かした。
「ナンダ、オマエ、キエロ……!」
一人が両の手の人差し指を自身の目尻に当て、斜め上に引っ張り嘲笑う。
アジア人を差別する際に使う動作だ。
四人は一斉に高笑いし手を叩きながら、お互いの今ある感情を確認、共有している。
僕はそのような顔をしていない。
「その子……震えています。なにしてるんですか?」
「ハッハー! ヤ、ル、ン、ダ……! コレカラ! ミンナ、トモダチ!
トモダチ、ナンダ!」
一切の躊躇なく出てきた言葉は、とても醜悪で呆れるより怒りを覚える。
ソムさんが僕にくれる「友達」とは真逆だ。
女の子は僕の通っていた中学校の制服を着ている。
まだまだ幼い表情をしているし、体格からしても小学生と変わらない。
目の前の外国人は、このような少女にも己の欲望をぶつけようというのか。
「その子を離してあげてください」
「ナンダ! オマエハ……!」
彼らは母国語で何やら話し始め、僕を一瞥すると大きく笑いながら手を叩く。
おそらく非難をしているのだろうが、あいにく彼らの言語は脳内に無い。
他の言語と違い覚える必要性も感じないのだけれど。
無言で中央に割り込み少女の腕を掴んだ。
「ナニスンダ! オマエ!」
一人が僕の動きを制止すると他の者に突き飛ばされる。
「きみは逃げて」と、少女に伝えるが、
彼女は少しばかり距離をとっただけで、その場から離れようとしない。
不意に腰へ鈍い衝撃が加わる。
身体が前傾すると前に立つ人物の拳が僕の頬を捉えた。
『やめて……!』
と、茜音さんが叫んだところで彼らには届かず、右の上腕に蹴りが飛んでくる。
腕に力を込め衝撃方向に逆らわず身体を泳がす。
運動神経も反射神経も悪くない、と、自負している。
――どうする……。
『やめて!』
彼らの動向を探ると共に、視界には散歩をしている中年夫婦、
犬と共に佇む妙齢の女性の姿がある。
誰の助勢も期待できないな……と、打開策を模索してみるが、
「オマエ、コロス! コロシテヤルヨ! コロスカラナ!」
と、四人はニヤニヤとしていた。
『朝陽くん……! 逃げて……!
女の子連れて逃げて! ギターは置いていっていいから!』
――そんなこと……できるわけない。
『朝陽くん! 言うこと聞いて!』




