幽霊と僕 2
*
『幽霊なのかな?』
「僕に聞かれても……わからないです」
『んー、じゃあ、幽霊ってことでいいよ』
「簡単に……言うんですね」
どうやら女性の正体は幽霊らしい。
簡単に受け入れたわけではないが、目の前に存在しているという事実があった。
足早に出て行った葉月の背中を見送った後で、幽霊といくらかの問答を繰り返した。
その言葉一つ一つを疑おうにも現実として目の前にいるし、
葉月は彼女の存在に全く気付いていなかった。
自らが迎えた最期を覚えていると言ったし、
それ以降の記憶も生命としての足跡も一切無いらしい。
彼女は亡くなっている。
『不思議だね』
「え……?」
『幽霊って、もっとこう……曖昧な感覚なのかと思ってたんだけど。
意識……はっきりしてるし、こうやってきみと話せる。
さっきの女の子、妹ちゃんには見えてなかったみたいだけど』
幽霊から直々に教えてもらう日がくるなど思わなかった。
受け入れ難い状況であるはずなのに受け入れている。
彼女の雰囲気が想像していた幽霊と大きく離れているからだろうか。
栗色に染めたセミロングの髪を後頭部で一纏めにし、
露出した丸みのある額は陶器のようだ。
小顔の影響で、さらに大きくみえる黒い瞳、
薄い唇は青白さなど微塵もなく血色が良い桃色だ。
年齢は高校一年生の僕より少し上くらいだろう。
女性の幽霊というのは黒い長髪で顔を隠し、血濡れた白いワンピース姿が、
映画、ドラマなどで一つの定型としてあるかもしれない。
彼女は容姿も身につける服も違う。
細い体躯に薄黄色のワンピース、薄手の白いカーディガンを羽織っていて、
真夏を迎えれば季節に鮮やかな彩りを加える。
幽霊という想像とは正反対なものであった。
『なんで幽霊になったのかな……』
彼女の話では死後の感覚があったようだ。
感覚といっても寝ていることに近かったようで、半覚醒状態にも似ているらしい。
ただ、時間経過は彼女の想像より進んでいたようで、
自らの死から長い月日が流れていることに驚いていた。
「未練があったんじゃないですか」
『未練……。うん、もちろんあるよ』
よくある話だ。
現世に未練があるから化けて出る。
「成仏したいなら、それを解決すればいいんじゃないですか」
『他人事みたいに言わないでよー』
「他人事ですよ」
『だって、きみにしか見えてないわけでしょ?
じゃあ、きみとは縁があるってことだよ。
他人じゃないでしょ。友達以上恋人未満。あっ、変な意味じゃないよ』
どういう理屈だ。他人は他人だろう。
それに幽霊と縁があるなんて信じたくもない。
今まで見たこともないし、声を聞いたこともない。
その存在を肯定すらしていなかった。
しかし、心のどこかで幽霊という存在に一定の希望を見出していたことも事実だ。
グラスから溢れることのない、わずかな雫を垂らしていく願いがあった。
亡くなった人に会ってみたい、と。
ワンピースの裾がひらりと揺れ、膝より下が露出した白く細い足がゆっくりと動く。
どうやら幽霊に足が無いというのは嘘のようだ。
嘘というより彼女には当てはまらないと言った方が正確だ。
隣に座った彼女は、真珠のように丸っとした瞳を僕に向けた。
『私は和泉茜音っていいます。よろしくね。きみの名前は?』
差し出された手。
無下にするわけにもいかず、自身の右手を重ねると先程と同様に温かい。
「砂山朝陽です」
幽霊に自己紹介する日がくるなど微塵も思わなかった。
『朝陽くん……ね』
僕の名前を口にし、続けて『そのギター……どうしたの?』
と、床に置かれた淡い紫色のギターを指差した。
「え……ああ、今日、楽器店に行って」
『買ったの? いくらで? いくらしたの?』
身を乗り出し矢継ぎ早に聞いてくる。
「いえ……そこの楽器店、高い物しか置いていなくて。
僕の手持ちでは買えるものがなかったんです」
夕焼けの宴という楽器店は、三十万以上の値札が貼られた品からしか置いていなかった。
七桁の品も多い。
店長の話だと少子化の昨今に楽器を始めようとする若者も多くないから、
玄人向けやコレクター向けの品を集めていると言っていた。
『じゃあ、盗んできたの?』
「譲ってもらったんです」
茜音さんは眉間に皺を寄せ、ひどく怪訝な顔をした。
その顔をするなら盗っ人扱いされた僕が先だ。
『貰ったって……そのギターを? 誰に貰ったの?』
「楽器店の店長……清原さんという人です」
茜音さんの緊張感を巡らせた皺は、張りのある白い肌の中へすぐに消えていった。
『清原さんが……そうなんだ。楽器屋さん……それで……。
――そっか。約束……約束守ってくれたんだ』
――約束?
その言葉は僕に向けられていない。
茜音さんは床と自身の足先を見つめ、その横顔は何かを悟ったように朗らかだ。
「あの……このギターって……」
『うん、私が使ってたギターだよ』
おそらく生前の彼女が大切にしていたのだろう。
これも幽霊という存在には、よくある話かもしれない。
生前、大切にしていた物に取り憑く。
それは人形であったり家具であったり様々な物だ。
ギターに取り憑いた茜音さん。
そのギターに僕が触れたことで幽霊として視認できるのだろうか。
「清原さんとは、お知り合いなんですか?」
『んー、まあね。古い友人とでも言っておこうかな。
私からすれば古くないんだけど。
そのギター買ったら高いと思うよ。よかったね、貰えて」
オーダーメイドで日本の職人が作成したギター。
木材にも拘っているから値段をつけるなら七桁は超えるし、
自身が使っていたからプレミアだと豪語している。
『ミュージシャンだったんだよ。知ってる? 私のこと』
静かに否定の言葉を出し首を振ると、彼女は『今度、聴いてみて』と微笑んだ。
茜音さんはシンガーソングライターとして活動していたようだ。
『ね、そのギターの弦とフレットに挟まっている物なかった?』
「なにも無かったですよ」
茜音さんの表情が急に暗くなる。
『ピックみたいな形した物なんだけど……』
「無かったですよ」
やはり寂しそうな目になっている。
ギターケースを開きネックとヘッドが位置する箇所に拳二個ほどの小物入れがある。
そこを開いて中を探った。
ギターをメンテナンスするためのクロスが入っているだけかと思ったが、
底面に硬貨のような物が二枚あり指先で摘み上げる。
一枚は白いピックで、もう一枚は淡い水色をしていた。
淡い水色の方はピックにして少々不格好で厚い。
「これですか?」
茜音さんの伏し目がちだった目はぱっと開き、安堵したことが如実にわかる。
『よかった……』
手のひらに乗せた二枚の内、淡い水色の一枚を拾い上げた彼女は、
しばらく見つめた後に微笑み、白いカーディガンのポケットにしまった。
大切な物だったのだろうか。
「僕の見解ですけど……このギターを触ってから茜音さんの声と姿が見れるようになった。
――このギターが原因だと思います」
『でもさ、ギターを触ったのに妹ちゃんは見えてなかったよ』
そうだ、葉月には見えていなかった。
何か条件があるのだろうか。
不測の事態、起こり得ないことが転がっている。
推論や仮説を立てたところで不毛といえば不毛だ。
『幽霊かー。私って幽霊なんだね』
「そうみたいですね」
『朝陽くんって、普通に幽霊を受け入れている。
特殊な人だね。言い方を悪くすれば変人』
「受け入れてないですよ。ただ、目の前に起こっていることは事実なので」
『わー、ずいぶん淡白だね』
「そうですか」
『もっとさ、うわー幽霊だ!とか。かわいい幽霊でラッキー!とか。
かわいい幽霊と二人きり!? これから一緒に過ごすの!?とか、そういうの欲しい』
「過ごさないですよ」
学校でも似たようなことを言われる。
高校生である現在にしてもそうだ。
バカみたいに騒ぐ同世代の方が感情豊かである、という考え方には偏りがある。
人にはそれぞれに人格や思惑があるのだから。
確かに感情表現は苦手だ。
苦手というより、隠すようになった。
感情表現には他者に対する気遣いや返礼が含まれる。
同時に自身に対する評価、対価など様々なものに変わるが、
僕は特に必要としていないし、相手から貰いたいとか思うこともない。
そのようなものはいらない。
『しばらく幽霊のまま遊ぼうかなー』
「しばらく?」
『うん。幽霊というからには、多分……最後は成仏した方がいいでしょ?』
握りこぶしから人差し指だけが飛び出している。
「そうですね」
『じゃあ、きみは私のことを成仏させるってことで』
「嫌です」
『どうして?』
「嫌だからです」
『理由になってない。嫌な理由を詳しく教えて』
頬を人差し指でへこまされる。
「そもそも、なんで成仏を手伝わないといけないんですか?」
『なんで私のことを成仏させたくないんですか?』
成仏させることが当然であるかのように言う。
自身の考えは正しく、相手が常に同調するとでも思っているのだろうか。
何かを思案した彼女の顔は急に綻ぶ。
『わかった! 成仏させたくない理由!』
「なんですか」
『私と離れたくないんでしょ……!』
「違います」
『じゃあ、どうして?』
「やりたくないからです」
『もう……小さい子どもじゃないんだから。
自分の思ってること、しっかりと相手に自分の言葉で伝えなきゃ。
大人になるって、そういうことも含まれてるよ』
黒い瞳に退路を塞がれる。
茜音さんの視線は苦手だ。
まるで自身の扉を一つ一つ開いて、奥にある部屋まで侵入してくるようだから。
苦手だ。
「人のために……なにかをするとか……やりたくないってだけです」
『ざーんねん! 私は幽霊です!』
――それは、そうだけど。
『そっかー。人のためにやりたくないって、どうして?』
「どうしてって……。理由が必要ですか?」
『必要でしょ。なにかをするにも、しないにも理由は必要でしょ』