悲嘆の夏 7
「あの人とは……定期的に?」
「あの人は……初めて。SNSで連絡が来て。
でも……普段から他の人と……会ってる」
俯いた胡桃はグラスとアイスクリームの隙間から覗く氷をストローで押し込んだ。
「それで……金額と行為の交渉が折り合わなくて、
最初は揉めている感じになったわけだ」
「やっぱり……すごいね、あーくんは。
そこまでわかっちゃうなんて……」
「別にすごくないよ、すぐにわかる。
パパ活している理由とか言いたくないだろうけど……一応聞いておく」
「うーん……お金が欲しいから……かな」
「それは目的で理由じゃないよ」
胡桃は安易に身体を売るような思慮の浅い人間ではない。
少なくとも僕が知っている中学時代の彼女はそうだった。
クラスに寂しそうにしている人がいれば気にかけて話しかけるし、
いじめられている子がいたとしたら両者の間に入り身を挺しても庇う。
そのような子が私欲のために……金欲しさで身体を売るだろうか。
「私みたいなのが、ある程度の……お金を稼ごうとしたら、それしかないから……」
と、俯き加減で翡翠色の液体をストローで吸い上げる。
空中に浮かぶ可能性があるジンジャーエールを死守する必要がなくなった。
茜音さんは真剣に話を聞いている。
「お金が必要な理由……があるわけじゃん。
買いたい物があるとか。服が欲しいとか、誰かに貢ぐとか。
小学生でも身体を売ってホストに貢いでるとかあったから。
――胡桃が……お金を必要としている理由は、なんなのかな、って……」
汗が滴るメロンソーダをテーブルに置いた胡桃は僕に視線を合わせなかった。
「うん……。あのさ……ほら、うちって、シングルマザーじゃん。
弟三人いるし……生活が……苦しくて」
――そういうこと……か。
子どもの頃のことで詳細は覚えていないけれど、
胡桃の父親は仕事中の事故で小学生の頃に他界している。
生活が苦しいということは労災保険による保険給付、
死亡慰謝料などは貰えていないのだろうか。
「弟たち、まだ小学生だしさ……。
お母さん……最近、身体の調子良くなくて入院してたり……するから。
今ね、働けない……の。
だから、お母さんには……アルバイトで稼いだお金ってことにしてる」
彼女の弟三人というのは三つ子だ。
高校に通いながらのアルバイト代だけでは家族五人の生活を賄うには難しい。
いや……節約しても無理だろうし、未成年には勤務時間の縛りもある。
「あと……お母さんが変な人たちに騙されて……。
借金もあって……それの返済もある……」
胡桃は翡翠の水面に浮かぶアイスクリームを震えるスプーンで掬って口に入れた。
白い塊はただ……静かに抉られる。
どこぞの正義の味方のように中身があるわけでもなく、削られた後も真っ白なままだ。
「遺族年金は? 金額は……家庭によるけど。
子どもが四人いるなら配偶者と合わせて百五十万以上は年間で貰えると思うけど」
「遺族……年金? ごめん……ね、そういうのわからない」
「家計を支える人が亡くなった時に配偶者と子どもに支払われる制度のこと。
子どもは成人するまで貰える。
遺族年金には二つ種類があって、遺族基礎年金と遺族厚生年金がある」
「そうなんだ……。私たちは……貰えないの?」
と、寂しそうに言葉を出す。
「今、貰えていないなら……うん」
給付されていない……その現状から一つの懸念を口にする。
「もしかして、お母さんは新しい人と籍を入れた?」
「う、うん。前に……。すぐに離婚して……。騙されたのも、その人たちに……」
――籍を入れたから制度が適応されなくなったのか。
「そう……。確か……お父さんが亡くなったのは仕事中の事故だったと記憶しているけど。
労災保険とか死亡慰謝料とかは?」
「ろ、労災……? ごめんね……私、そういうの……よくわからなくて」
「いや……こっちこそ……ごめん。普通の学生は知らないよ。
業務中に起きた事故や死亡事故には保険が……簡単に言えば、お金が貰えるんだよ」
「お父さんが死んだ時、会社の人が家に来てたよ。
封筒に入ったお金をお母さんに渡してた……と思う。それのこと?」
「違うよ」
――会社側が労働災害を隠蔽したか……なにかを画策したのか。
無知である者に対し、有知な者は強く出れる。
当然のことだ。
多くの制度などがそうであるように、
自身で調べて申請しなければならないことも多い。
制度の存在自体を知らなければ使うことがない。
無知というのは、国からも他人からも喰われる。
救いの手が伸ばされるというのは非現実的だ。
自らが手を掴みにいかなければいけない。
「特に支給されている、お金はないってこと?」
「うん……多分。口座は私も見れるけど、お母さんの働いたお金以外は……ないよ」
「そうか……」
「あはは……ごめんね。こんな……話、ごめん……ね。
変なこと言っちゃって……あはは……」
作られた笑顔から大粒の涙が溢れ、頬、首筋へ伝っている。
ぼろぼろと彼女の痛みと共に雫が流れていく。
「あーくんには、知られたくなかった……なー。
あはは……ごめんね……」
『胡桃ちゃん……』
と、茜音さんまで泣き出してしまった。
何が正解なのだろう。
僕がアルバイトしたお金を渡したところで、彼女は頑として受け取らないだろう。
そういう子だ。
茜音さんは打開策を思案しているのか、桃色の唇を隠したり、首を小さく捻っている。
茜音さんも僕と同じことを最初に考えたはずだ。
国に頼ること。
生活保護だ。
しかし、それが救済措置とならなかったから、
胡桃が……十五歳の少女が一人で涙を流しているのではないか。
「胡桃……一応、聞いておくけど、生活保護は?」
「えっと……よくわからないんだけど貰えないみたい。
お母さん……何度も……お願いしに市役所に行ったんだけど……」
「そう……」
行政というものに正義があるわけではない。
例えば、生活保護というものは本来必要としている人に与えられて然るべきだけれど、
不正受給をしている者もいるし、外国人で受給している者もいた。
憲法に記述されている。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
国民とは日本国籍を有しているものだ。
日本国籍を有していない者に生活保護を受給させることは憲法違反である。
しかし、昭和二十九年当時の厚生省から出された通知が曖昧なまま現在まで存在した。
「生活に困窮する外国人に対して、
一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じて保護を行うこと」
この文言の前には「当分の間」と記述されているけれど、
七十年も前に通知されたものを根拠として、外国人に生活保護を受給させるというのは、
一般的な常識からしておかしいだろう。
日本国民として生活を保証されるべき人たちがいる。
最低限度の生活を受けられず、死を選ぶしかなくなる日本人がいた。
そして……不正受給者も日本国籍を有さない外国人も生活保護費で悠々自適に暮らす。
目の前で泣いている女の子は救われるべき対象であるはずなのに。
僕には少しでも彼女の現状が良くなる助言しかできない。
それは彼女にとって……。
一人で涙を流す彼女にとって、僕が悪魔のように映るかもしれない。
「――いくらでやってる?」
「え……」
「世の中のこと……色々調べているから多少の力にはなれるかも」
「え……えっと……」
「言いたくないだろうけど、少しだけ……少しだけ現状を変えるために話してほしい。
行為内容に対する対価を」
そう……今の状況が好転するわけではない。
これからする発言は茜音さんに怒られるかもしれない。
「く、口で……く……口だけなら……三千円から……四千円」
「安すぎるよ。普通の性行為をするとしたら?」
「う、うん……ゴム……ありで……一万五千円。
な……生でするなら……少し上がって、二万くらい」
「どれも安すぎる。
そういう話は詳しくないけど通常の風俗店なら、もっと取るんじゃないか。
今の年齢に価値があるのなら、もっと金額を上げられる。
――避妊具を付けない理由は?」
「そっちのほうが……いいって……言われるから……」
大きく溜め息を吐き一度目を閉じた。
「病気になったり、妊娠したらどうするんだよ。
避妊具で完璧に防げるわけじゃないけど。
そうなった場合……例えば病気にしても中絶するにしても、お金が必要になる」
「うん……」
「それに……中絶にはリスクが伴う。中絶したから、はい、終了じゃない。
大人になって……仮に子どもが欲しくなっても、
中絶したせいで妊娠できない身体になることもあるし、精神的な負担も大きい」
「うん……そうだよね。ごめん……」
「今後のこと……将来のことを少しは考えろよ。
――胡桃は危機管理能力が低すぎる」
『ちょっと! 朝陽くん……! 酷い言い方しないで!』
綺麗事だけでは生きていけない。
世の中には必死になって生きている人がいる。
実際に目の前の女の子は一人で苦しんでいる。
一人で涙を流している。
「で、でもね……金額は……みんな、そんな感じだよ」
「みんなって?」
胡桃の話によると地元付近で動けば露見する可能性があるから、
余裕のある時は都内で動いているらしい。
「その人たちとは話したりする?」
「うん……仲の良い人たちはいる」
「そうか……それなら一種のコミュニティというか、共同戦線を作ればいい」
「共同戦線ってなに?」
「本来の意味は、二つ以上の団体が共通の目的で手を組むこと。つまり仲間。
みんなで話し合って、新しい価格帯を設定すればいい」
「でも、安い子がいたら……みんなそっちに行っちゃうと思うけど……」
「それもあると思う。少しずつ広げていけばいい。
最初は厳しいかもしれないけど。
売る側は高いほうがいいに決まってるんだから。
買う人たちは最初こそ渋るだろうけど、順応していくはず」
『朝陽くん……! やめなよ!』
――やめない。




