悲嘆の夏 6
――違うアプローチを……してみるか。
「あなたと彼女の様子を察するに……金銭のやりとりがあるんでしょう」
これは胡桃の前では言いたくなかった。
言いたくなかったからこそ、年齢のみによる不同意性交等罪を先に話したのだ。
中年男性は鼻から飛び出す毛を揺らした。
「だったらなんだよ? 同意のもとで金を払ってヤルのは罪じゃねえんだよ。
バカが……! 売春は罪じゃねえんだよ! ガキが……! 無学者が……!」
――学が無いのは自分の方だろう。
売春、買春は罪だ。
法によって禁止されているが、罰則が無いという事実がある。
勧誘、斡旋などには罰則が設けられているけれど。
しかし、とある箇所も一括にして考えているのか、今までのように無知であるのか。
間違いなく後者だ。
僕は必ず勝てると確信した。
「ご存知ですか?
十八歳以上の者が十八歳未満の者に金銭を支払い性行為をした場合、
児童買春、児童ポルノ禁止法で処罰されます」
「ああ? ふかしてんじゃねえよ!」
「金銭以外にも家に泊めることや食事を与えることも買春行為ですよ」
記憶の片隅から知識を手繰り寄せる。
「五年以下の拘禁か三百万円以下の罰金です。
これは児童買春の罪に対してのみです。
相手の年齢によっては、さらに不同意性交等罪などが成立して罪は重くなります。
児童買春、不同意性交等罪。
つまり……これからのあなたが歩むであろう道です」
「てめえ……! さっきから、ごちゃごちゃとわけのわからねえこと言いやがって!」
――わ、わからないのか。ここまで……丁寧に……。
「あなたが捕まった場合、スマホやパソコンの中を調べられます。
消去したところで警察は復元できるので余罪も追求されます。
この一件では済まないということです。ニュースになれば名前も全国に報道されます」
「このガキが……!」
と、目尻がつり上がった中年男性に喉元を強く掴まれた。
皮膚に食い込む指先は力強く逃げることができない。
『ちょっと……! 朝陽くんに触らないで! この変態おじさん……!』
茜音さんは彼の腕を放そうとしてくれるが触れることはかなわない。
僕も必死に中年男性の腕を掴むが、汗と脂が滲む彼の腕によって指先に力が入らない。
「てめえ、ガキが! 俺のことをナメやがってえ……!」
『離して……! そんなに強く握って……喉が……喉が潰れちゃう……!
離して……よ!』
茜音さんが叫んだと同時に男性の野太い声が耳元に入った。
「アンタ、ナニシテル!」
苦痛によって半分閉じていた瞼を戻すと声の正体が目に入る。
コンビニ店員のソムさんだった。
新たな人物の参入によって中年男性の力が弱まり、
喉元を押さえ咳き込みながら危機を脱した。
「オオ、ダイジョブカ、アサーヒ」
「はい……だ……大丈夫です」
ソムさんは僕のことをアサーヒと呼ぶ。
「アンタ、ナニスル! アサーヒニ、ナニシタ!」
「うるせえ! この外国人!」
混沌とした状況になってきた。
無力な僕。幽霊の茜音さん。売春の胡桃。
性欲だけの無知おじさん。コンビニ店員のソムさん。
胡桃が売春していると決めつけるのは時期尚早だけれど。
「アンタナニスル、アサーヒ二……!」
「黙れ……! クソ外国人が! 二秒でやってやらあ!」
中年男性は僕の時と同様にソムさんの白いシャツの胸ぐらを掴んだ。
その刹那だった。
ソムさんの逞しい両腕が中年男性の首を捕え、
右膝が鳩尾を的確に捉えグッと食い込む。
態勢を崩された彼は、防御する間もなく顎付近に同様の攻撃が入り崩れ落ちた。
中年男性が鈍く呻き声を上げた矢先、だらしない口元から大量の吐瀉物が溢れ出す。
麺類やら米の粒が確認できるほどで、夏の爽やかな香りは、
瞬く間に地獄のような臭いへと変わっていった。
「す、すごいですね、ソムさん」
「タイシタコトナイ、ワタシ、ムエタイチャンピオン。
アッチデハ、アルイテイテモ、モット、ツヨイノ、イッパイイル」
『すごーい。チャンピオンだって!』
コンビニで見かける彼は、指定された制服に身を包んでいたので気付かなかったが、
確かに腕についた筋肉や肩周りの作りが常人とは違う。
あの時の小さい老人も、ソムさんに店員という枷がなければ一捻りされていただろう。
職業、制服という鎧によって動けなかっただけだ。
「アサーヒ、ダイジョブカ?」
「は、はい。ありがとうございます」
「キニスルナ。アサーヒト、ワタシハ……ナンダ、ナンテイウンダ」
『はい、それは友達です!』
と、茜音さんが手を上げた。
「友達……ですか?」
「オオ、ソウ。アサーヒ、トモタチ」
「た、じゃなくて、だ、です。と、も、だ、ち」
「トモ……ダ、チ。アサーヒ、ト、モ、ダ、チ!」
ゆっくりと口を動かし音を確認している。
その後でニッコリと白い歯を見せる彼には、人としての温かさがあるように感じた。
「ワタシ、コレカラ、オンナ、デートダ。
ワタシ……オンナ二、マジメダ。
ワタシハ、アレダ。イ、イチ……ナンダ、イチゴ……ハ、チガウナ」
「イチ……。一途ですか?」
「ソウダ、ソレ。イチズダ。ワタシ、イチズデ、ヤリチンナンダ」
――相反しているだろう。
「コノヒト、シバラク、タチアガレナイカラ、ソノウチニ、イケヨ。
モシ、オイカケテキタラ、ココヲ、ココニ、ツヨクアテロ」
こことは肘を指差し、狙う場所は側頭部……こめかみ付近を示している。
『ソムさん。朝陽くんを助けてくれて、ありがとね』
と、茜音さんが言ったタイミングで、ソムさんは彼女のところへ行くと言い、
その場から白い歯を見せて立ち去った。
『朝陽くん』
胡桃がいるから目だけで返事をする。
『わかった? 師匠の教えの意味』
――意味?
『人を助けること。その中で生まれるものは多くあるんだよ。
その中の一つ。
誰かを助けたら……いつか自分に戻ってくるんだよ』
今回は早かったけどね、と言ってソムさんが立ち去った方向を見つめている。
中年男性は未だ呻き声を上げ悶絶していた。
口からは吐瀉物の他に、唾液がダラダラと流れ落ち呼吸が普段通りにできていない。
ギターケースを右手、左手で胡桃の手を引いて、
ベンチに戻りドーナツの入った箱を回収する。
店員が気を遣いドライアイスを入れてくれたから、ひんやりとした冷気が肌に触れた。
右手で二つを持つことになり、ドーナツの箱は見るも無惨な形になっていく。
その場に残っていては面倒なことになるので、早々に退散することにした。
「あーくん……」
「なに」
「ごめんね……」
「別に……いいよ。助けろ、って言われただけだから」
「え……誰に?」
――しまった……。
「か……神のお告げ……」
「あはは……なにそれ。
中学の頃はクールだったのにキャラ変したの? あはは……」
胡桃の手を引きながら、一歩先を歩いていた僕が振り返ると彼女は下を向いていた。
鼻を啜り上げている。
「…………。泣くなよ」
「ごめん……。なんで……泣いてるのか、私もわかんない。
あはは……は。ごめんね……」
「なんだよ、それ」
『女の子には色々な感情があるの! なんで泣いているか、わからない時があるの!』
語尾を強調する茜音さんに背中をポーンと叩かれる。
――誰にだって色々な感情があるだろう。
胡桃を駅まで連れて行く際に一考していた。
そもそも正しかったのだろうか。
胡桃が売春をしている、と、仮定した場合、あの中年男性は客だ。
先程の行為は、僕と茜音さんから見れば善であるけれど、
胡桃にとっては違うかもしれない。
駅へ連れてくることも正解だったのだろうか。
胡桃は僕と同じ市……町の出身だからバスで来ていたのかもしれない。
「じゃあ、ここで」
「うん……」
踵を返したところで「あーくん」と、胡桃に呼び止められる。
「なに?」
「ありが……とう」
赤いバッグを正面に回し、そこに沿えられた手が震えている。
微笑んでいる胡桃であったけれど、
悲痛な想いがカラーコンタクトの下に隠れているような気がした。
『朝陽くん、いいの? それでいいの?』
――これ以上……なにをしろと言うんだ。
『話を聞いてあげてよ』
――僕と話したところで、どうにもならないだろう。
『はーい。返事の無い弟子に師匠命令を発動します。
胡桃ちゃんの話を聞いてあげなさい』
胡桃から話を聞けば優しい言葉をかけると思っているのだろう。
それは間違っている。
少なくとも彼女の行動に対し、自己責任によるものと現時点で思っているのだから。
そう、現時点では。
「胡桃、今から少し時間ある?」
「え……うん。大丈夫だけど……」
僕は胡桃と茜音さんを連れて、駅から少し離れた場所にあるカラオケ店へ入った。
「飲み物持ってくる。胡桃の分も持ってくるよ」
「うん……ありがと」
『私、ウーロン茶以外だったらなんでもいいよー』
――この場で飲めるわけがないだろう。
ドリンクバーで飲み物をグラスに注ぎ、個室へ戻ると、
茜音さんと胡桃が隣同士で座っているという奇妙な場面だった。
「はい、飲み物」
「ありがと」
と、口にした後で胡桃の口角が上がり、ふふっと声を出した。
「なに?」
「んーん。あーくんは、変わってないなー、って思って」
「は?」
「私、いつもメロンソーダ。
メロンソーダにアイス乗せて、フロートにするの覚えてくれてたんだな、って。
そういう優しいところ……変わってないなー、って」
『えっ……! 朝陽くん、できる男……!
胡桃ちゃんが公園で言ってたように、やっぱりモテてたんだ!?
…………。ねえ、私の飲み物は?』
僕は静かにソファーへ腰を下ろす。
「単刀直入に聞くけど……さっきのおじさんとは金銭のやりとりで身体の関係?」
胡桃はメロンソーダに乗るアイスをスプーンで攻撃を与え反応がない。
「否定しないなら……そういうことって受け取るけど」
チクチクと攻撃されていたアイスは安堵した。
「うん……そうだよ……パパ活」
『パパ活?』
と、首を傾げた茜音さんは僕が持ってきたジンジャーエールを飲もうとするから、
奪われないようにグラスを力強く握る。
茜音さんが生きていた頃は、パパ活は別の呼び方だったのかもしれない。
彼女にもわかるように、それとなく言葉を明示することにした。
もちろんパパ活の広義としては、それを含まないこともあるけれど。
「つまり、売春しているってことでいいの?」
「うん……」
『パパ活って売春のことなんだ。なに、パパ活って……』




