悲嘆の夏 5
彼女はドーナツを食べ終えると、バッグからスマートフォンを取り出し、
指先を小さな範囲で俊敏に動かしている。
「――あーくん、予定あるから……もう行くね」
「うん、わかった」
「ドーナツご馳走さま。今度、ゆっくり話せる?」
「時間が合えばね」
「うん。じゃあ……ね。バイバイ」
と、立ち上がると公園の外へ向かって歩き出す。
その後ろ姿は炎天下には少しばかり似合わない……寂しい気がした。
『へー、朝陽くんってモテるんだね』
と、茜音さんは窮屈な居場所から僕の右隣へ座り直した。
「ただ話しただけでしょう」
『朝陽くん、あの子に優しくしてたし。私に対する感じと違う、なんなの?』
「同じですよ」
『違う。絶対に違う。私にはわかる』
「邪推しなくていいですよ」
『違う……。それに、あの子も好意あるって感じだった』
隣に目を向けると大きい瞳と合う。
「そんなことないですよ」
『わかってないね、朝陽くん』
「なにがですか?」
『さっきの子……あの目……あの目は完全に朝陽くんに好意を向けてたよ』
「目ですか。別に普通でしたよ。いや、普通ではないですね。
カラーコンタクトが入っていましたし、まつ毛も増量されていました。
アイラインも長かったから、そんな風に見えただけですよ」
『目って言ったのは、全体的な表現を含んで言ったの。
現実的なメイクや特徴のことは言ってない。
あの子が朝陽くんを見る目、出す雰囲気、話してる時の仕草を総合して言ってるの』
「そんな感じでしたか」
『あー、この弟子は……。一回、軍隊方式で指導しないとダメかなー』
「――覚えていますか? 僕に初めて指導する時に言ったこと」
『なに、いきなり』と、訝しむ。
「茜音さんが言ったんですよ。
『無意味な熱血指導はしない』
『指導者が酔いしれたいだけの言葉と力の暴力もしない』
『なにかをやる時は理にかなっていることが前提で、意味もなく厳しくする必要ない』
って言ったんです」
『よく覚えてるね、そんなこと』
記憶力は良い方なので、と続けたが、
『きみは肝心なことを忘れてる。それはギター指導の話。精神的な指導とは関係ない』
と、言い返されてしまった。
綺麗に刈られた芝生の隙間には蟻がちらほらと歩いていて、
何気なくその様子を見ていると茜音さんが肩を叩いてきた。
「なんですか」
『あっち見て。さっきの女の子……胡桃ちゃん』
僕の隣から顔を出し公園の入口を凝視していたから、
それに倣って首を動かすと、胡桃が恰幅の良い中年男性と佇み話している。
「どうしたんですか」
『うん……様子が変ていうか……気になる』
「別に普通じゃないですか」
『ううん……普通じゃないよ。見てわかるでしょ』
確かに違和感がある。
胡桃と中年男性。
距離感、佇まい。
遠目から見て二人を取り巻く雰囲気は、とても知人や顔見知りには見えない。
中年男性は時に大きく身振り手振りし何かを言っているし、
その度に胡桃はスマートフォンを見ながら首を横に振っている。
二人は会話を続け、顎をくいっと動かした中年男性は胡桃の左手首を掴んで歩き始めた。
黒い厚底の靴は前進することを拒否しているようにも見えるし、
その一方で、引きずられているようにも見えない。
『行くよ、朝陽くん』
茜音さんはベンチから立ち上がり、中年男性のように僕の手首を掴んだ。
「なんでですか」
『どう見たって嫌がってるでしょ』
「嫌がっていない……というか、普通に話してましたよ。
それに、助けてほしいなら声を上げたりしますよ」
『女の子は声を上げられない人のほうが圧倒的に多いの! 怖いから当然でしょ……!
簡単に声を上げて、助けを求めることができるなんて思わないで!』
「ここに僕がいることを知っているんだから、一度くらいは、こっちを見ますよ」
『いいから! 助けに行くよ!』
掴まれた手首が離され茜音さんは駆け出した。
追いかけていくと胡桃と中年男性は公園の入口と歩道が合流する辺りを歩いていた。
「ちょっと……待って!」
振り返った胡桃は「あーくん……」と、小さく声を漏らし、
助けを求める声を出すでもなくアスファルトへ目を逸らした。
一方の中年男性は目を丸くしている。
頭皮から髪の毛が脱走し、ずいぶんと多くの脂が滲んで光っていた。
ワイシャツからぽっこりと出た腹には、大量の内臓脂肪が蓄えられている。
「なんだ、お前」
僕は中年男性の問いに反応せず胡桃の細い右手首を掴む。
左は中年男性、右は僕、胡桃を介した綱引きが始まろうとしている。
「おい、なんだよ、ガキ」
「離してあげてください」
「はあ? 別に無理やりじゃねえ。同意の上だ」
「嫌がってますよ」
「ああ? 嫌がってねえよな?」
と、僕から胡桃に視線を変えた。
彼女が目を合わせず口籠ると中年男性は大きく舌打ちをした。
口元を歪め僕を睨む。
「お前、こいつのなに?」
「友達ですよ」
「友達? お友達がなんの用だ? ああ?
やんのか? あ? やんのか? やんのな? やるんだな?」
胡桃の手首を離し僕に顔を近付けた。
どうやら茜音さんの言葉に従うと、今の状況やコンビニの時のように、
「やんのか」とか「やってやるよ」と威嚇される。
まったく迷惑だ。
「おい、ガキ、やんのか?
お前みたいな、もやし野郎二秒だ、二秒でやってやるよ……!」
――は、流行っているのか……? この前の老人も言っていた……。
僕は大きく鼻腔から酸素を吸う。
しかし、すぐに後悔した。
公園から緑が香るはずであるのに、中年男性の体臭は、
父が釣りで餌に使うオキアミの臭いがした。
それは生臭く独特の臭いで、さらに玉ねぎを腐らせた臭いまでする始末だ。
「おい、なにビビってんだよ。女の前だからってカッコつけたかったのか?
おい、どうなんだよ。ヒーロー気取りか? ああ!?」
呂律の回っていないような話し方、それは相手を威嚇するために、
自身が優位に立てると思い、しているのだろう。
男性は僕の胸ぐらを掴んだ。
『ちょっと……! 朝陽くんに触らないで! 変態おじさん!』
と、茜音さんが僕たちの間に入る。
「やんのな? やんだな? やるんだな?
二秒だぞ、二秒。二秒で終わらせてやるよ!」
その瞬間、僕の頭は一気に変わる。
ぼんやりとするような……脳の血管から出血でもしたかのような感覚に陥った。
至近距離にいたせいだ。
男性のまくし立てる言葉の中で起こった、それは、耐え難い屈辱だった。
彼が出す言葉のせいで唾液の飛沫が僕の顔を濡らす。
中年男性は気にすることなく「やんのか? お、やんのか? 二秒だ、こら」
と、毛穴の広がった顔を近付けてくる。
僕は声を荒らげたりはしないけれど、朝凪と時化……静かに激怒していた。
「やるなら……やってもいいですよ」
「なんだ、お前……! やれんのかよ!? ああ!? もやし野郎が……!」
「僕は手を出しません」
「はあ……? てめえ、このビビリが……! 雑魚が!」
僕は激怒している。
「胸ぐらを掴む行為は暴行罪です」
「ああ?」
「さっきから、あなたは同じ言葉を繰り返していますが語彙力ないんですね。
つまり、知能に問題があるということです」
「あんだと……! このガキ……!」
中年男性の手の動きは強くなる。
「だから……知らないのかもしれません。
あなたが彼女にしようとしていることは犯罪になります」
「なんだあ? てめえ……」
「ホテル……か、車か、トイレなどに行こうとしていたんですよね?」
胡桃がいる手前、次の言葉を吐き出すことは普段であれば止める。
今は唾液のせいで冷静ではいられない。
「性行為しようとしていたんですよね?」
「ああ? なんだよ? わりいか?
別に同意でやんだから問題ねえんだよ! ガキが……!」
彼は知能に問題があるから容易に言質が取れた。
「あなたにもわかるように説明します」
「てめえ、なめてんのか……! 二秒でやってやらあ! 二秒だ……!」
「十六歳未満に性行為等をすることは犯罪です。
同意の有無は関係ありません。
あなたのように年齢差が五歳以上離れている場合です」
未満や以上の違いはわかりますか?と、続けると中年男性は声をさらに荒らげた。
「彼女は確か……誕生日が十一月だったから、まだ十五歳です」
不安げに僕を見ていた胡桃を一瞥した。
「はっ! バカなガキが! 同意してんだよ!」
僕は意図的に大きな溜め息を吐いた。
「そうです。同意です。
性交同意年齢というものがあります。
十三歳未満は同意することができません。
未成熟で正確な判断ができないとされるからです。
十六歳未満は、相手との年齢差が五歳以上離れていた場合、
同意があったと認められません。
仮にお互いの同意があった、としてもです。
つまり、あなたと十五歳である彼女の間に同意の有無は関係ありません。
不同意性交等罪にあたります、犯罪です」
「ちっ、わけのわかんねえことベラベラと言いやがって……!」
――無能……か。
「簡単に言います。
彼女が……仮にですが、あなたとの性行為に同意していても関係ないということです。
同意は無かったと司法は判断します。
――あなたは拘禁刑となります」
『朝陽くん、詳しいねー。次々に言葉を出すから師匠は誇らしいよ』
と、茜音さんの緊張感の無い横やりが入ることで、少しばかり冷静さが戻ってくる。
「あなたがしようとしていることは、不同意性交等罪です」
「このビッチは同意してんだよ……! ガキが……! こいつはもう濡れてんだよ!」
――こいつ……。
「もっと簡単に……誰にでもわかるように言います。
あなたと彼女の性行為は、どのような理由があっても法が認めません。
――不同意性交等罪。犯罪です」
「同意してるっつってんだろうが……! バカが! ガキが……!」
――こ、こいつ……ダメだ……。
世の中には話が通じない、知能が著しく劣っている人間が我が物顔をする。
目の前の人物に、いくら説明したところで暖簾に腕押しだ。
ちらりと茜音さんに目で訴える。
――もう無理です。世の中は広いです。
目の前の中年男性は最低限の理解力もない。
このような猿に話は通じません。
茜音さんは、うん、うん、と笑顔で頷くばかりで僕の内なる声は確実に届いていない。




