悲嘆の夏 4
茜音さんの制止が自身の虚勢に拍車をかけてしまう。
「相手が嫌がってても、それを無視して強制する。
悩み……今の悩みは、こうやって心配するふりをされてることだよ」
『朝陽くん……! やめなよ……!』
茜音さんの手は葉月の肩へ添えた形になっているが、触れているわけではない。
「心配するふり……じゃないもん……」
「だから、いいかげ――」
『朝陽くん! それ以上言ったら本当に怒るよ……!』
――はあ……。
「葉月……本当になんでもないから。気にしなくていい」
「…………。わかった……ごめんね」
葉月は踵を返す。
後ろで組んでいた手を前方へ変える際に何やら茶色い物体が目に入った。
「ごめん……」
と、細い声を出し、葉月は振り返ることなく扉閉めた。
この一件のせいで、どうにも家から離れたくなり、外出する準備をしていると、
茜音さんは僕に対する批判を次々に口にした。
一人で出て行こうとしたが、自分も付いていくという茜音さんと問答が続き、
結局、僕が折れることになる。
ギターケースを床に置き、三和土で靴を履いていると玄関が開いて、
目の前には買い物から帰宅した母が姿を現す。
「出かけるの?」
「うん。ちょっと適当にぶらぶらしてくる」
『わっ、朝陽くんのお母さんって、すごく綺麗! そ、それに若い……!』
と、両の手を合わせ口元に置いている。
そういえば茜音さんは葉月しか見たことがないのか。
『初めまして、お母様。和泉茜音といいます。
朝陽くんにはお世話になっております』
深々とお辞儀しているが母は見向きもしない。
やはり見えていない。
『あっ、でも、私は師匠なので、朝陽くんの面倒を見ているのは私でした。
立派な息子さんに成長させますので、ご安心を』
――なんなんだ、それは。
ギターケースを片手に立ち上がると母は微笑んでいた。
「ねえ、お兄さん、お兄さん。ギター持って、どこに行くの?」
「ちょっとそこまで」
「そう、親に言えないことなんだ……ふうん」
なぜか母の微笑みは笑顔に変わり余計な勘繰りをしている。
「そういうわけじゃないよ」
と、母の横を通り過ぎ玄関の取手を掴んだ時だった。
「朝陽、クッキーどうだった?」
「クッキー?」
「食べてないの?」
「なんの話?」
お互いの疑問がぶつかる。
「私が出かける前に、葉月がクッキー作る!って。
お兄ちゃんと一緒に食べるんだー、って言ってたから、もう食べたのかと思った。
甘さ控えめのチョコチップクッキーにするって言ってたよ。
よかったね、朝陽」
僕は甘い物が得意ではない。
市販の物は甘すぎる、と常々口にしていた。
特にケーキ類などがそれに該当する。
『朝陽くん、本当にサイテー。サイテー、サイテー、朝陽くん』
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「…………。行ってきます」
*
七月の初旬にして気温は三十度半ばとなっている。
梅雨明けした、と、気象予報士は言っていたかと逡巡していた。
『サイテー、クズ。サイテー、変態。サイテー、バカ』
「もういいですよ」
『言わないとわからないでしょ』
「もうわかりましたから」
『わかってない……!』
こうやって二人で会話をしていると田舎町の道路であることが幸いだ。
これが繁華街であれば行き交う人々に怪訝な顔をされるだろうし、
警察官からは不審者として職務質問されてしまう。
肩に掛けたカバンから水色のタオルを取り出して顔を拭う。
『最低だよ、本当に。冗談じゃなくて』
「いいですよ、最低で」
『一緒に食べたくて、クッキー作ってくれたんじゃないの? 話したいって言ってたよ』
「もう……その話はいいですよ」
『よくない……!』
「いいですよ。悪いのは僕です」
『あー、開き直った。かわいい妹ちゃんが、せっかくクッキー焼いてくれたのに』
「妹じゃないですよ」
『もう! すぐに、そういうこと言う!
前にも言ってたよね。たまーに……朝陽くんのことわからなくなるよ』
と、僕の左側に立つ茜音さんは右肘で数発小突いてくる。
『妹じゃない、って葉月ちゃんが聞いたら傷つくよ。
どうしてそんなこと言うの?
本心じゃないのに、強がって言っちゃうこともあるのはわかるけど……ね』
「強がっていないですよ」
『じゃあ、なんなの?
言った後で後悔しても取り戻せないことってあるからね。
後悔先に立たず、だよ』
僕は返事をしなかった。
『どこに行くの?』
「特に決めていないです」
『私が決めていい?』
「どこですか」
『ドーナツ食べたい』
「専門店なら隣の市まで行くしかないですよ。
この町……市内だと逆に遠くなるので」
編入合併しても隣の市の方が近い。
『よし、じゃあ、行こう』
こうなったら茜音さんは僕の反論を聞いてくれない。
仕方ないな……と思いながら停留所へ行きバスに揺られ隣の市へ向かう。
ショッピングモール内にあるドーナツチェーン店へ行こうとしたが『個人店がいい』
と、茜音さんが我儘を言い、スマートフォンで検索する。
店舗へ向かうと最近できたという感じの店構え、
白を基調とした店内で購買意欲をそそる商品の配置がされている。
お洒落な看板や女子が好きそうなカラフルなドーナツやドリンクがあり、
店内にいる客は女性ばかりでギターケースを片手に持つ僕は居心地が悪かった。
店内で食べるわけにもいかず、あまり人目のつかない場所を探していると、
公園へと辿り着きベンチに腰を下ろした。
「人が来たら食べるのやめてくださいね」
『わかってる、わかってる』
ブラウンの箱を開けると甘い香りが鼻腔に入り、
ピンク色や黄色のチョコレートでコーティングされたドーナツが目を惹く。
茜音さんは小さい口で一口頬張り『おいしー! ドーナツ久しぶりー』
と、柔らかい声を上げた。
広い公園は風が吹く度に、緑が深い樹木が摩擦を起こし歓喜している。
遠くのほうで子どもたちが親と共に遊んでいるが、
この距離であればドーナツほどのサイズなら問題ないだろう。
『あれ、朝陽くん食べないの?』
口元にチョコレートを付ける茜音さんは歳上なのに幼く感じた。
一緒に過ごしていると、そう思うことがある。
「甘い物、あまり好きじゃないので」
『そうなんだ。こんなにおいしいのに』
と、咀嚼を繰り返す。
『でもさ、食べられないのに、どうしてこんなに買ったの?』
合計で十個ほど購入した。
単価が高いから購入金額もバカにならない。
「いえ……別に」
と、答えると茜音さんは目を細め、こちらをじっと見てくる。
僕は視線の先を青々とした芝生に変えたが、
再び彼女に目を向けると何かを理解し、納得したように何度か頷いていた。
『素直じゃないねー。でも、そういうところ好きだよ』
茜音さんはドーナツを三個食し満足したのか、
動ける範囲の芝生まで行き、遠くで遊んでいる子どもたちに優しい瞳を向けている。
「あーくん」
と、隣から声をかけられ首を動かすと、知らない女の子が立っていた。
僕は小中学校時代の同級生から「あーくん」と呼ばれている。
短く白いひらひらとしたスカート、黒いブラウス。
足元も上半身と同様の色をした厚底の靴だ。
前髪を眉の位置で切り揃え、触覚のようなツインテール。
濃い目のメイクは艷やかな雰囲気もあるが幼さも見え隠れしている。
「久しぶりー」
と、両の手を胸の前で小さく振っている。
――誰だ。
皆目検討もつかないから、無言で相手を見つめ反応を待つことにした。
しばらくすると、案の定「え、ちょっと……忘れちゃったの?」と、歩み寄ってくる。
――誰なんだ。
「私だよ、私。ほら……私、私」
――オレオレ詐欺の私バージョンか。
「えー、もう……ショック。私だよー」
「あの……誰ですか?」
「えー、もう……ひどいなー。胡桃でーす」
「胡桃……? 胡桃って、葛城胡桃?」
「そうでーす」
と、右手でピースサインを作り左右に振る。
葛城胡桃は小学校、中学時代の同級生だ。
中学二年、三年は僕と隣の席であったから親しくしていた。
高校は別々の進路を歩んだが、たかだか三ヶ月ほどで、ずいぶんと変貌している。
「か、変わったな……」
「えー、そうかな。そんなに変わったかな」
――変わってるよ。誰だよ。
いつの間にか茜音さんがベンチへ戻り、僕らの会話を聞いていた。
『なに、朝陽くん、かわいい子……。元カノ?』
違うと言いたいが、今は反論できない。
中学時代の胡桃は特別目立った子ではなかったし、
性格は明るかったが、外見は割と地味な感じだった。
それが今や、真っ白なファンデーションを塗り、
太めのアイライン、大きく模様の入ったカラーコンタクトを装着している。
ぷっくりとした涙袋をメイクで強調させ、唇は太陽を跳ね返すほど光っていた。
「隣いい?」
「うん」
「久しぶりだね。元気だった?」
「まあ……元気かな」
「相変わらずカッコいい。高校でも人気あるの?」
『朝陽くん……やっぱり人気あるんだ……』
と、茜音さんは僕の右隣に座った胡桃を避けるように、
左隣に無理やり座ろうとしたから、ギターケースを自身に寄せた。
「それ、なに? ギター?」
「そう。最近、始めたんだ」
「えー、すごーい。聴かせてよ」
「いいよ。人に聴かせるほどうまくない」
『弾き語りというかコードストロークなら、もう弾けるでしょ。師匠も弟子も優秀だし』
「ああー、残念。じゃあ今度、聴かせてよ」
「機会があれば……ね」
僕は傍らに置いていたドーナツの箱を再び開け胡桃へ食べるように促した。
少しずつ口に運び、飲み込んだ後の合間に中学時代の思い出を語ってくる。
「あー、それもあったよねー。懐かしいね。
みんな元気にしてるかなー」
「そうだな……会う機会がないし。
別の高校に行った子で会ったの胡桃を合わせても数人だよ。
なんか……時間は経っていないのに、すごく懐かしい感じがする」
『ちょ……ちょっと、朝陽くん、言い方優しくない?
口調が柔らかくない!? 私の時と違って優しいよ……!?』
「えー、そうなんだ。あーでも、私もそうかも。
――ね、ね、あーくん。私、かわいくなったかな?」
「え? ああ……印象は、けっこう変わったかな」
「かわいい?」
「知らないよ」
「ね、かわいい?」
「まあ……」
「えへへー、ありがとー」
その笑顔は当時と変わらぬ気もするし、全く別の彼女がいる気もした。




