悲嘆の夏 2
「俺は……お前のことを許しちゃいえねからな」
と、清原さんは静かに言い放った。
「きみに許しを請う真似をした覚えはない」
冷笑を浮かべた平良さんの見た後で、
清原さんはカウンターから店内の磨き込まれた床へ移動し、
二人の距離は一触即発とも呼べる位置へ変わった。
二人の間には紫煙が漂っている。
「ふざけんなよ。あいつのこと……道具のように扱いやがって」
「道具のように……か。
多くの人に聴いてもらいたいという、茜音くんの願いを叶えたのは誰だ?
大きい会場で聴衆と合唱するという願いを聞き入れたのは誰だ?
知名度を上げるためにタイアップを取ってきたのは誰だ?
映画、ドラマ、アニメ、それの主題歌は?
CMはどうだ?
――誰が売ったと思っているんだ」
「お前……」
「感謝こそあっても、恨まれる筋合いはない」
その時だった。
平良さんは僕を静かに一瞥した。
お互いの意見をぶつけ合うために必要な箸休めのように。
今までは置物……空気のように扱われていたが、
彼の視線は僕の下方向に向けられ、嘲笑していた表情は緩やかに収まった。
「きみ……そのギター見せてくれないか?」
「おい、やめろ」
清原さんが制止するのも聞かず、平良さんは僕の右手にあるギターケースを奪い取った。
「このケースの花模様……。これは茜音くんのギターじゃないか……」
どうして、きみが?と、逃げ場のない眼差しが僕を襲った。
答えようにも答えられず、彼のネクタイを挟む金色のピンを見ることしかできない。
「俺が譲ったんだよ」
「譲った……だと?」
見る見るうちに表情が変わっていく。
「そうだ。譲ったんだ。だから、お前にギターを渡すことはない。帰れ」
「この少年に譲っただと……。
このギターに、どれほどの価値があるのか、わかっているのか?」
「誰にも弾かれない楽器に価値はねえよ。
さっき言ってた有名な奴が弾くとかで価値が決まるもんでもない」
「そうか……きみの言う価値とはなんだ?」
「すべての楽器というわけじゃねえが……。
茜音のギターに限っていえば、ギターと……その意志を継いでくれることに価値がある」
その発言を聞いた平良さんは、口元を右手で隠し呆れたように目を閉じた。
「意志か……ずいぶんと不透明で青いことを言う。
この子に、その意志とやらがあるのかな」
僕に目を向けた平良さんの顔からは笑みが消え、
瞳は冷たい海……底の見えない色をしている。
同時に……それだけではない気もした。
「きみは理解しているのかな? いや、意志の話ではない。
それは抽象的すぎて興味がない。もっと現実的な話をしよう。
――そのギターの価値だ。使っていた人物を知っているのかな?」
「茜音さん……和泉茜音です」
目を合わせられないふりをして、視界に茜音さんを入れると静かに俯いていた。
「そう。和泉茜音は一世風靡したシンガーソングライターだ。若き天才。
それは彼女が死の間際まで使っていたギターだ。
きみが持っていても宝の持ち腐れに等しい。どうかな、言い値で買い取るよ。
好きな額を言ってくれ、今日中に振り込もう。
税金対策で現金がいいなら家まで持参しよう」
「おい、やめろ。まだ高校生だぞ」
清原さんは平良さんの肩を強く掴んだが、
一瞥することもなく、それ以上の力で振り払い話を続けた。
「和泉茜音は……伝説なんだ」
「え……」
僕にとってはミュージシャンの和泉茜音という認識があまりない。
雲の上の存在というより……いつでも隣にいる人だ。
「十九歳という若さで逝去した伝説のアーティスト。歌声は唯一無二の極上品だ。
よく唯一無二の歌声と評することがあるだろう?
本来はそれほど多くないのだよ。あれは誇張と世辞だ。
二番煎じ……聴いたことのある歌声でしかない。
しかし、彼女の歌声は正に彼女でしか聴けない。
透明感のある今にも壊れそうな声……」
同感だった。
「楽曲のメロディセンスも歌詞にしても卓越していたよ。
誰もが惹きつけられる旋律。そこに言霊が乗る。
ギターの技術も一流のスタジオミュージシャンが舌を巻くほどだった。
シンガーソングライターだから、表で露骨にひけらかすことはなかったがね。
まさに悪魔へ魂を売ったような腕前……そう、クロスロードのようにね」
クロスロード……とはなんだろう。
「ただ……十九歳というのは早すぎた」
それは一滴の雨粒が目の前を過ぎるほどのことだったが、
平良さんの冷徹な目は憐憫を含んでいる気がした。
「四枚目のアルバム完成後に全国ツアーにドームツアー。
海外公演……さらに増やしていく予定だった。
十代の内に亡くなった天才というのも筋書きとしては悪くない。
伝説的な人物として語り継がれる。それも悪くはないが……。これは二択だよ。
――二十七歳で亡くなっていれば……。
27クラブとして世界的にも知名度が上がったかもしれない……きみもそうお――」
平良さんは僕の前方から姿を消した。
前方には憤怒の表情をした清原さんが立ち、
木目が浮かぶ床に倒れ込んだ平良さんの口元には血が僅かに滲んでいた。
「平良……お前、ふざけんな……よ」
「短絡的な思考による暴力……前から変わらないな」
「悪いか? 人を守るための暴力、自分の芯に背かない暴力は必要だ」
「相変わらず……青いことを。これだから……きみとは反りが合わないんだ」
「やるなら、かかってこいよ。昔みたいにバチバチにやろうぜ」
立ち上がった平良さんは、右手で相手を土俵に呼び込む清原さんを見て嘲笑う。
「もうお互いに若くないんだ。そんな不毛なことをしている暇はない」
と、言い放ち僕へと視線を変えた。
「きみ……名前は?」
「砂山朝陽です」
「申し遅れたが、私は平良隆一だ。
そのギターを私に譲ってくれないか?
これは正式な交渉だ。
先程も言ったように、朝陽くんの言い値で構わない。
ギターを譲ってくれるのであれば、金の他に……そうだな……。
例えば、きみの好きなアーティスト、芸能人、セクシー女優……と、会うことも可能だ。
その後も、きみが望むように手配する。いかがかな?」
「やめろ……!」
と、肩を掴む清原さんに反応せず身に纏う雰囲気を変え、
先程まで冷笑が主体だった顔には絶え間ない笑みがある。
偽りだけの笑顔。営業スマイルというのは明白だ。
「どうかな。朝陽くんにとって悪い話ではないと思うが」
「嫌です……」
「なにかな? もう一度、言ってくれ。よく聞こえなかった」
「嫌です。このギターは絶対に渡しません」
「なぜ? 売買契約の主導権は完全に朝陽くんにあるんだよ。
その金で新しく高級なギターでもヴィンテージギターでも買えばいいと思うが」
僅かに下を向いてから茜音さんを視界に入れた。
こちらを見ている。
――なんか……言いにくいな。
「察するに……最近、清原から譲り受けたんじゃないのかな。
それほど渡せない理由があるとは……思えないがね」
「大切な……ギターだからです」
「長年弾いてきたわけでもなく、誰かの形見というわけでもない。
こちらはもっと有意義に、そのギターを使える」
「絶対に…………」
「なにかな?」
「絶対に渡しません」
「言い値だよ」
「無理です」
「それは価値のあるギターだ」
「確かに……僕が持っていていいギターじゃないと思います」
「そう思うなら、なぜ?」
「手放したくないからです。絶対に渡しません」
時計の針は音もなく動いていく。
「そもそも……きみにギターを預けたことが、すべての間違いだった」
と、眼鏡の位置を指先で調整した平良さんは、冷ややかな目で清原さんを見つめた。
「お前が預かるよりは遥かにマシだよ」
「どこがだ。素性の知れぬ少年に和泉茜音のギターを譲る。
ありえないだろう、狂ってるのは演奏だけにしときたまえ」
「茜音が生前に言ってたことを守っただけだ。お前には関係ねえ」
「あの時……久保さんが茜音くんの遺品の仲裁に入らなければ私がギターを所有していた。
こんなことにもなりはしなかった」
と語り、深い溜め息と共に首を回した。
しばらく瞼を閉じていたが、
平良さんは僕にだけ「また会いましょう」と、言い店から出て行った。
その後、清原さんは茜音さんのギターであることを僕に話していなかったこと、
平良さんの態度や発言を謝罪してきた。
「死んだやつのギターだから、呪われたら……すまん。
あいつ変なところあったからな……化けて出てくるかもな」
――当たっています。
『ちょっと……! 呪わないです! 人を悪霊みたいに言わないでください!』
清原さんはお詫びとして、購入した弦と同様の品を二セット無料で渡してくれた。
謝罪を受ける理由はなかったけれど、金額の高い弦であるから、
これは素直に受け取り静寂が戻った店を後にした。
*
「止めなかったですね」
道中で一つの疑問を茜音さんにぶつけた。
『え、なにが?』
「二人が喧嘩しているから、止めて、って言うかと思いました」
『必要ないよ。二人は対等な立場、対等な喧嘩をしているだけだから助ける必要ない。
一方的に虐げられたり、一人で苦しんでいる人は絶対に助けるけどね。
あの二人には……必要ないの』
「絶対に……って。実際に助けるのは僕なんですから……」
『弟子は師匠の言うことを聞くものです』
「嫌です。なんでもは聞きません。それは一種の暴力ですよ」
『だめだよー。朝陽くんが約束したんだからね』
「妄信と洗脳はよくないですよ」
僕は額に滲む汗を拭う。
蝉の声は先程の争いから生まれた好奇心を刺激する。
「あの二人って、どういう関係ですか?」
『んー。同じバンドにいたんだよ』
「バンド……そうなんですか。仲悪そうでしたね」
『うん。ずっと前に解散したけどね。
清原さんがリードギターで、平良さんがベーシスト。
ボーカルさん、ドラマーさん、もう一人のリズムギターさんとは会ったことないけどね。
朝陽くんも今度聴いてみたらいいよ。あるでしょ、サブスクに』
「サブスク解禁していない可能性もあります」
『そうなの? 全部あるわけじゃないの?』
「あの人たち、我が強そうだから解禁していないんじゃないですか。
権利がどこにあるのか、わかりませんけど」
国道を往来する自動車が生む風は、火照る身体を少しばかり癒やしてくれた。
「二人とは……どういった関係なんですか?」
茜音さんはピタッと立ち止まる。




