終章 5
口元は柔らかく緩む。一枚の紙を下に挟み次の文を読み進める。
『二人の出会いを朝陽くんは覚えていますか?
私の手を握ってギターから出してくれましたね。
その後で人のために何かをしたくない、朝陽くんは言いました。
二人で過ごし始めて私はすぐに気付きました。
本当は誰よりも人のことを考えているんだ、って。
でも……それを口にはしない。どうしてなんだろう、って。その理由を知りました。
私は朝陽くんを傷つけていたことを後悔しました。
それと同時に朝陽くんは、やっぱり優しい人だと改めて思いました』
当時の僕は実の両親のことで認めるわけにはいかなかった。
すべての人を助けることが正しいわけではない、と。その考えは今も変わっていない。
『朝陽くんは世の中に対して色々な意見を持っていましたね。
あまりに理不尽なことが起きている世の中。様々な事件、事故があります。
傷つけられた人、涙を流す人が助けてもらえない。
加害者への刑罰やお金で傷ついた心は癒えません。
それらは被害者にとって意味を持ちません。
朝陽くんは……真剣に考えていたのですよね。
現状を変えなきゃいけない、変えたい、と。本心では思っていましたね。
だから、法律のことや様々なことを勉強していた。
口には出さなかったけど師匠にはわかっていましたよ。
あなたの師匠は、なんでもわかってしまうのです。改めて尊敬するように』
――尊敬していますよ。あなたは今も多くの人の心に寄り添い救っているのだから。
穏やかな波の音は彼女の言葉を支えてくれる。
頭の中の透き通る声は鮮明さを増していく。
『世の中には善意を利用する悪意があります。人の優しさに付け込む悪魔もいます。
でも、本当に苦しんでいる人、困っている人に優しくすると良いことが起こります。
一人が生んだ優しさは次の人へ渡されます。
優しくされた人は次の人へ優しくします。
それが繰り返されると、どうなると思いますか?
朝陽くんはわかっていますよね。そうです。
あなたの住む世界は、少しだけ……ほんの少しだけ優しくなるのです。
誰かの笑顔は次の人の笑顔になります。それはとても素敵なことです』
僕は涙を流す人を少しでも減らせているだろうか。
茜音さんからもらった優しさを次の人へ渡せているのだろうか。
所属する組織は巨大だ。全体が同じ色で染まっているものを塗り替えること。
最近は途方もない夢物語のように感じる。
以前、他部署の上司から言われた。
「偉くなれ。偉くなれば、あまーい汁が吸えるぞ。
なーんでもやりたい放題だ。ガキからなにまで好きにヤレる。
そういうルートも確立されてるしな。外国に行っても最高の接待が待ってるぞ。
金もだ。うまくやれ、たっぷり手に入る。うまくやれよ」
この発言を共に聞いた僕の仲間である実直な男は上司の胸ぐらを掴み諌めた。
その行為と上司の捏造によって彼は懲戒免職処分となり組織を去った。
僕の擁護する発言に耳を傾ける者はいなかった。
その言葉は漆黒の渦に飲み込まれ表に二度と現れず消滅する。
彼は去る前に言葉をくれた。
「先輩。俺、間違ったことはしてないですけど……後悔はしています。
俺も先輩と肩を並べて一緒に変えてみたかったです。
俺たちの国を俺たちの手で変えてみたかったです。
あとのことは……先輩に託します」
彼は貧困家庭で育ち随分と荒れていた時期もあったようだが、
ある人に出会い助けてもらったことで、自分もそういう人物になりたいと語っていた。
彼も人から渡されたものがあって自身の道を選んだのだ。
そこに辿り着く道程は決して楽ではなかったはずだが鶉の卵を足で踏み潰すように、
信念と願いを壊されてしまった。
常に笑顔を絶やさず人から好かれる。そのような人柄だった。
疑う余地のない彼の笑みを思い出しつつ茜音さんからの言葉を重ねていく。
『朝陽くんは今も人助けをしてくれていると思います。
朝陽くんのすることを非難してくる人もいるでしょう。
いえ、むしろ非難してくる人のほうが多いかもしれません。
その中には犯罪思考を持つ人、相手を傷つけたいだけの人もいます。
そして、あなたの行いを妬み攻撃してくる人もいます。
数の多さと身近なところでは、この人たちが一番の障壁になることが多いです。
彼らは自信が持てず自分にできないことをする人を攻撃します。
「自分にはできない」
という事実から生まれた嫉妬を認められず、羨望を隠すために攻撃するのです。
先に攻撃することで自分の考えに正当性を持たせる。
悪い言い方をすれば……とても臆病なのです。
そして、彼らにも心の傷があるのです。彼らだけが悪いわけでもありません。
世の中には善意を嘲笑う者もいますし、そういう風潮もあります。
人から目を背けてしまう世の中が悪いのです。
攻撃されることを恐れ善行を諦めてしまう人もいます』
辺りは微かに薄暗くなってきていた。同時に静けさも増えた気がする。
蜩の切ない声が辺りを包み、あの夏と同じ様相を見せていた。
『多くの人が考えず、義を持たず、日々を過ごす。
それでは、いつまでも世の中は良くなりません。
悪意ある人が得意げに歩き、平穏を望む人が涙を流す。
私は常々思っていました。
日本に本当に必要なもの。日本を良くするもの。
政治を変える、政党を変える、法律を変える。
経済を変える、外交を変える、賃金を上げる、福利厚生を上げる。
そのようなことで国は良くなりません。
それで良くなるなら、すでに変わっていますよね。
世の中は複雑に絡み合い結ばれ営まれています。
だからこそ……単純なことで変わると私は思います。
理想論、偽善と言われても心の中心に置いていることがあります』
風が音を立て強く吹き僕の黒髪に潮の膜を張り後方へ飛ばす。
『人が思いやりを持つことで国は変わります。
人が人のことを想えば国は変わります。
それは国を作るのが人であるからです。人が人であるからです』
茜音さんの真っ直ぐな言葉は揺らいでいない。
そうだ。国の上に立つ者が人に対する思いやりを有していれば……。
彼女の文字は十年前の声と共に僕の胸に刺さり波紋のように柔らかく広がる。
『後のことは朝陽くんに託します。ごめんなさい。
押し付けているようですが、私は朝陽くんも望んでいることだと勝手に思っています。
あなたの善行が他人から非難される時は師匠のことを思い出しましょう。
決して一人ではありません。朝陽くんは一人ではありません。
師匠の教えを守るのだから私が非難されればいいのです。
攻撃された時は和泉茜音に言われた、と錦の御旗にしてください。
大丈夫ですか? 一人で泣いていないですか?
一緒にいてあげられなくて……ごめんなさい』
彼女の言葉によって目元がぶわっと熱くなる。
最近は感情を雫に変えることはなくなっていた。
葛藤、艱難、憔悴、絶望。
それらの感情によって、いつからか涙は身体の奥に隠れ大きな貯水池となっている。
決壊してしまえば二度と戻れないように感じていた。
今まで歩んできた過去に目を向ける。
隣を歩んでくれた友人の途切れてしまった足跡を思い返す。
一人ではなかった。先の話に出た後輩のように賛同してくれる者もいた。
そして大学時代からの友人であり志を同じくした者がいる。
改善案や圧力に対する対応などを話し合った。
外側、内側、どうしていけば変わっていくか、真剣に議論し答えを求めた。
同じ時を共有した彼は後に不可解な死を遂げる。
大人たちの喰い物にされる子どもたちを救うために彼が動いた矢先の出来事だった。
彼の死は事故として扱われ僕は友の調べていたことを内密に調査する。
調べを進めていく中で直属の上司に呼ばれ、
「手を引け。それ以上、入るな。みなまで言わせるなよ。お前の進退だけではない。
いいか、お前のことだけではない、からな」
と、暗に周囲の人間、身内を含め脅迫された。
様々な圧力によって一人、一人、と僕の前から仲間は去っていく。
心は疲弊している。友のために流す感情は目の周辺を腫れさせた。
彼の墓前に、彼の家族に、彼の恋人に。何度頭を下げたかわからない。
そして誰もが痛みを抑え逆に労る言葉をくれた。
刀を振り上げたところで四方八方から弓矢で撃たれて死にゆくことは明白だ。
矢じりには毒も塗られているのだから。
『今、朝陽くんは……なにをしているんだろう。
今も高校生ですか? 大学生ですか? それとも社会人ですか?』
――社会人です。茜音さんより……年上になりましたよ。
『彼女はできました……か? それとも……お嫁さんがいますか?
もしいるなら、すごく祝福すると同時に、少しだけ……少しだけ嫉妬します。
ごめんなさい……。
でも、ほんの少しだけだから許してください。隣にいられないことが寂しいんです。
私が朝陽くんの隣にいられないのは……悲しくて寂しいです。
どんな風に生きているんだろうって。
どんな風に歩いているんだろうって。
どんな風に笑っているんだろうって。
誰と……一緒にいるんだろうって。
一年に一回……ううん、十年、二十年に一回でいい。
私の音楽を聴いて私のことを思い出してくれたら嬉しいです』
――いつでも……聴いていましたよ。いつでも隣にいくれましたよ。
彼女の歌声は今も変わらずに僕の耳を癒やし世の中の人々に幸福を与えている。
『面倒くさい女だ、って思いましたか? ひどいです。それはひどいですよ。
弟子は女心がわかっていないところが欠点です。ちゃんと学んでくださいね』
――思っていないです。一度も……思ったことはありません。
空の色と同様に海の色も変わってきた。翡翠色の海は暖色へ進む。
風が吹けば手に持つ紙がパタパタと音を立てる。
『今は笑って暮らせていますか? それとも時々、泣いていますか?
泣くことは悪いことではないですよ。いっぱい泣いていいんです。
でも……ずっと一人で泣く、ということはしないでください。
誰かの胸で泣けないのなら師匠のことを思い出して泣いてください。
私はいつでも抱きしめますよ。その涙を受け止めますよ。
朝陽くんは、つらくても、苦しくても、今もがんばって生きていますよね』
涙の勢いは鉛玉が落下するように加速した。止まらない。止まるわけがなかった。
茜音さんの声は僕の頭の中で溢れている。
次に綴られた言葉は彼女が当時くれた言葉の一つだった。
いつでも優しく頭を撫でる時に送ってくれた言葉。
『よくがんばりました』
痛かった。いつでも痛かった。自分の弱さも。人の悲しみも。
変えられないことへの葛藤も。一方的に非難される絶望も。
彼女の言葉は今の傷んだ心を和らげてくれる。
『この手紙を書きながら私は思っています。
どれくらい朝陽くんと一緒にいられるんだろう、って。
ずっと一緒にいたいけど……私は幽霊だから。いつ……お別れがくるんだろう、って。
実はタオルケットの中で泣いていたこともあります。
朝陽くんの優しさが私に触れるたびに泣いていました。
パンやモモダーを買ってくれたこと。靴を買ってくれたこと。
一緒にお祭りに行ってくれたこと。お母様に夜食を作ってと頼んでくれたこと。
一緒に曲を作ってくれたこと。
いつも私のことを考えてくれていました。
朝陽くんは……私と離れることは寂しくありませんか?』
――離れたくなかった……ですよ。握手した手を離したくなかったですよ。




