序章
緩やかに減衰していく。
濡れた砂の上を滑る白波の音。
打ち寄せては泡沫となり、新たな波が迫るというのは人生、生命に酷似している。
――生きていくこと。
現世に存在する生命。
それ以外の存在……特に人間に模したものを幽霊、幽体といったりする。
あの日、幽霊に出会った。
『幽霊なのかな?』
「僕に聞かれても……わからないですよ」
幽霊には一定の存在理由が必要らしい。
例えば、現世に未練があるとか強い怨みがあるなどだ。
生者から生者への嫉妬、遺恨、歪んだ好意などは生霊という存在として現れる。
それらも大きな枠組みでは幽霊として認識される。
「未練があったんじゃないですか」
『未練……。うん、もちろんあるよ』
未練を残して死ぬ人は多いはすだ。
死を望まなかった者には未練があるだろう。
いや、死を望んだ者すらも深部において未練があったかもしれない。
亡者は多くいるはずだが、なぜ多くの生者に見えないのだろう。
お前には視認する能力が無いから、と言われるかもしれない。
一部の者に限定的に見えるのであれば、僕にとっては存在しないことと同義だった。
そう考えていた。
しかし……。
幽霊は存在する。
精神疾患に罹り幻覚を見ていたのか。
虚言による他者からの注目を待ち望んだのか。
自らの憂いを解消するために生み出したのか。
エンターテイメントの企画に踊らされたのか。
どれも違う。
『じゃあ、きみは私のことを成仏させるってことで!』
「嫌です」
幽霊は存在した。
幽霊と過ごした日々は騒がしいものだった。
周囲からしてみれば異常な言動、行動に思われたかもしれない。
隣を歩く一学年下である中学三年生の妹から心配されるほどに。
「ねー、もう大丈夫なの?」
「なにが」
「なにがって……」
口を尖らせた妹は、普段の明るい声を一つほど落とし言葉を続けた。
「だから……独り言のこと」
「言ってないよ」
「言ってたもん。絶対に言ってたよ。
あとさ……この間のなんだったの?」
「この間?」
「だから……さあ。砂浜で泣いてた時のこと。
誰もいないのに、その時も……なんか言ってた」
鼻腔から潮の香りを吸い上げたが、酸素を振動に変換することは難しい。
「言いにくいんだけど……もしかして、イマジナリーフレンドっていうやつかなって」
「イマジナリーフレンド? あれは、子どもの頃に多く発現する傾向があるものだ。
僕には適応しな……まあ、可能性としてはあるか」
「――じゃあさ、結局なんだったの?」
僕の顔を覗き込んだ妹は眉毛を八の字にした。
「さあ……幽霊がいたんじゃないかな」
「ゆ、幽霊……!?」
アスファルトを少しばかり隠す砂の上で妹は足を止めた。
草木によって日陰になるところまで歩き、立ち止まる彼女の大きく見開いた目を見つめる。
「そう、幽霊」
「や、やっぱりいたんだ……! あれだけ否定してたくせに!
お母さんたちに相談しようよ……!」
「――冗談だよ」
「除霊……。 除霊……! やっぱり除霊しないと……!」
「冗談だって」
「むう……。教えてよ、なんだったの?」
「言っても信じないよ。それに……話して泣かれでもしたら困る」
「なに、それー。泣かないもん」
「あまり気にするなよ」
しばらく沈黙した後で妹は静かに口を開いた。
「――私も……変なことっていうか……不思議なことあったよ」
「どんなこと」
「教えない。今は……教えない」
「今は……ってなんだよ、それ」
彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「教えないよー!
お兄ちゃんだって教えてくれないじゃん……!
それに……勝手に話すのは人としてよくないもん。
多分だけど……さ、秘密にしとかないといけないことだから」
「はあ……。別にいいよ。知りたくない、興味ない」
「本当は知りたいくせにー。素直じゃないねー。
――いつかわかるから、それまでずっと気にしてればいいよ……!」
「いつか……って、いつだよ」
「ふふん、気になってるー」
初夏に出会った女性は幽霊だった。
人々の心に寄り添い癒し、涙を誘ったシンガーソングライターの女性。
出会うはずも触れ合うことも絶対にない。
そのはずだった。
二度と体験することはないだろうし、忘れることもないだろう。
彼女を成仏させるために過ごした日々。
彼女から教えられたこと。
人助けをしたこと。楽曲を共に作ったこと。意見をぶつけたこと。怒られたこと。
僕を弟子と呼び、師匠である彼女に無理難題を押し付けられたこと。
彼女を一人にしてしまって雨の中を探し回ったこと。
二人で飲んだ夏の味は、甘かったけれど少しだけ痛かったこと。
共に過ごした初夏から夏休みが終わりを告げるまでの日々。
『いつも一緒にいてくれて嬉しかったよ』
彼女は僕の胸に一つの花を置いていった。