第7話 忘却の天秤
辺りはうっすらと霧がかかっていて何も見えない。
目の前に広がる深く青い湖は底知れず、まるで手招いているかのように俺たちを引きつける。
「ここで試練を受けるのですか?」
「ああ。ここには、古代よりここで暮らす人々の怨念が蓄積していて、それが湖のように湧き出ているんだ」
「人の怨念・・・」
「お前も感じたと思うが、ヴァルムレイクの温泉はその湯に浸かることで肉体的にはもちろん、精神面でも大きな疲労回復効果がある。そんな一見万能に見える温泉には、副産物として心身を癒した人々から嫉妬や怒りなど、いわゆる負の感情が無意識のうちに抽出されるというデメリットがあるんだ。それらが長い間地下に漏れ出し溜まることで形成されたのがこの場所だ」
カルマナは呆然と深青色の湖を見渡している。
「つまり、その蓄積した怨念を解消できれば解決というわけですね」
「負の感情が溜まりきるのにおよそ数十年かかると言われているが、比較的軽度な被害は毎年のように起こるため、巡礼の度にその年の勇者が解決し、緩和させていた。どうしても一時的な対処になってしまうが」
「そんなものどうやって解消するのですか? なんだか途方もないように思えてしまうのですが」
「まあ見ていろ」
膝をつき湖の水に手を触れた瞬間、どこからともなく声が響いた。
『我は人間の生み出す醜怪より生まれし存在』
「わっ!? いきなり声が」
カルマナはキョロキョロと辺りを見渡している。
「心配するな。こいつは精神の集合体で、実在するわけじゃない」
「こ、怖がっているわけではありませんよ」
脚が震えているように見えるが。
『勇者一族にその名を連ねる者よ。その証を得たくば汝の最も大切なものを捧げよ』
「最も、大切なもの?」
不安そうに俺を見つめるカルマナの視線。
「温泉を日常的に利用する人々の心を癒す傍ら、その裏ではこのような負の遺産が膨れ上がっていた。これを解消し、この町を救うことで試練が完遂したとみなされる。そのためには、試練を受ける者が一番大切にしているものを捧げなければならない」
大切なものとは、武器。能力値。スキル。
自分が本当に大事にしているもの、そう感じているものであればなんでもいい。
「ど、どうするんですか?」
「安心しろ。もう答えは決まっている」
ここに来るまでに、何を捧げたらいいのかずっと考えていた。
俺にとって最も大切なもの。
それは記憶。
手にする武器に執着などないし、膨れ上がった能力値もただの副産物であって、元より戦闘能力に不安はない。
スキルやジョブに関しても、持ち前の学習力があれば習得し直すことは容易だ。
もちろんロザリアが一番大切であることも間違いない。それは疑いの余地がなく、これからも変わらない。
だが、ロザリアは魔王に殺される運命にある。
俺にとって一番大切なものは、未来で奪われることになっている。
であれば、今の俺に差し出せるもので一番大切なものは記憶だ。
これまでの記憶が今の俺を形作っている。
記憶は俺という人間そのものであり、それが俺を支えている。
その中でも一際強い輝きを放つ、ロザリアとの記憶が。
ロザリアの記憶を無くした俺など、もはや俺ではない別人だ。
だが、食べ物を探し町を彷徨い歩いていた幼少期。
コロシアムでの生死を賭けた奴隷生活。
唯一心を許したセドリックの死。
いくら記憶が一番大切でも、今となってはロザリアに関するもの以外はあまり思い出したくないものばかり。
無くして困る記憶は少ない。
長い間ここに溜まった人の負の念の集合体。こいつが無数にある俺の記憶の中で何を選択するかは分からないという不確定要素は残る。
だが、ロザリアが大切とはいえ、失われることが分かっている存在を含む記憶が選択される確率はそう高くないはずだ。
ループによって知る事となった最悪の結末を利用して試練の穴を突く。
その僅かな希望に賭ける。
「捧げるものは、俺の記憶だ」
すると、湖の水面にある記憶が映し出された。
「これ・・・」
カルマナの震える声をよそに、水面に注視する。
王都ドルガリスの、あの始まりの教会。
その崖の先端に立ち、広がる海岸線を見下ろし佇んでいる俺の姿。
まだ左脚は義足ではなく、右手には剣が握られている。
悔しさを滲ませる表情を浮かべ、しばらく剣を眺めていた俺は、ついにそれを眼下に広がる大海原に向かい投げ捨てた。
三回目の世界線の始まりの記憶。
『この記憶を捧げよ』
集合体の選んだものはこれか。
確かに、これは自分の弱さに目を背けたくなる記憶だ。
結末を知りながら二度も失敗し、ロザリアを救うことができなかった自分の不甲斐なさに自暴自棄になった。
この時を境に、剣の道を閉ざし魔銃士に乗り換えた。
戦闘スタイルが変わる大きなきっかけになった。
しかし、最も大切なものかといえばそうでもない。
元々背いてきた記憶なんだ。むしろ消してくれるなら喜んで差し出す。
ロザリアの記憶でなかったのが何より幸運だ。
だが、本当にいいのだろうか・・・。
何か大切なことを忘れているような気がする。
いや、手放すこの瞬間になって不安になっているだけだ。
とにかく、俺は賭けに勝った。
「ああ。構わな・・・」
「ダメです!!!!!」
カルマナの、悲痛とも言える叫び声が響き渡った。
腕を掴むその手の強さから、切迫した様子が伝わってくる。
まさか、こいつにも映し出された記憶を見えたのか。
「それを手放したらダメです!!」
「もっと大きなものを失う覚悟があった。この程度のもので済むなら安いものだ」
「ダメです! それを差し出してしまったら、あなたはっ・・・!」
「俺が俺でなくなると言いたいんだろ? それなら心配するな。それを考慮して記憶を選んだんだ」
何も死ぬわけじゃない。
正直、俺自身忘れてしまいたいと思っていたくらいだ。
これはむしろチャンス。
四度目にしてようやく良い方向に風が吹き始めている証拠かもしれないんだ。
「この記憶を持ってけ」
カルマナの制止を聞き流し、湖に告げる。
すると、水面がキラキラと輝きだし、映し出された記憶はやがて小さな光の粒となってふわりと浮き始めた。
宙に浮く一つ一つが集まっていき、一際強い光を放った。
光が収まると、掌に収まるくらいの大きさのオレンジ色の玉が目の前で光り輝いていた。
掬うようにそれを手に取り眺める。
「本当に、手放してしまうのですか・・・」
大粒の涙を流すカルマナの頭をそっと撫でる。
「そんな顔をするな。俺は俺だ。それはこれからも変わらない」
少しだけ痛む心を手放すように、光の玉を湖へ放る。
すると、深青色の水面が瞬く間に白い光に染まっていった。
やがて湖が輝き出すと、代わりに宝石のようにキラキラと光る青色の玉が宙に浮いていた。
「これで完了だな」
カルマナはその場に崩れ落ち、肩を震わせ泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい・・・。私が、もっと・・・」
「どうしてお前が謝るんだ。これは必要なことだったんだ。誰も悪くない」
「私は・・・。私は、あなたの役に立ちたいんです。あなたには私が必要なんです。それなのに、私は・・・」
他人に対しここまで寄り添える人間も珍しい。
人を救うのは司教の務め。
その使命感からなのか、それとも生まれながらの性格なのか。
どちらにしても、その善意を踏み躙るようなことは俺にはできない。
この子の優しさを否定することはできない。
ズキン・・・。
一瞬、胸が痛んだ。
同時に、どうしようもない虚無感に襲われた。
心にぽっかりと穴が空いたような。
パズルのピースを一つ失ったような・・・。
いや、後悔はない。
まだ巡礼は始まったばかりだ。今からそんなんでどうする。
今は試練を終え、宝玉を集めることに集中する。
「その気持ちだけで十分だ。さあ、行くぞ」
ふらつく彼女を支えゆっくりと立ち上がると、あんなに重苦しさを漂わせていた湖は、まるで生き返ったように生き生きと温かみのあるオレンジ色に輝いていた。
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