私闘
〈今日明日も持たぬ老耄暫し待て死ぬのは誰でも怖いものなり 平手みき〉
【ⅰ】
じろさん宛てに一通の葉書きが届いた。見ると「春日野璽平白壽記念祝賀會」とある。春日野璽平、は「古式拳法」の生きるレジェンドである。先生ももう99歳になられたか-
とは云へ、若くして奥儀を究め、彼の許から飛び出たじろさんである。感慨、と云ふ程の氣持ちは、だうにも彼に對して、抱けないのであつた。
參加費用:五萬圓、とある。やけに髙い(その理由は程なくして分かるのだが)。まあ、顔を出す、と云ふ程度で。向かうさんから、お付き合ひを断ち切られた譯ではなさゝうだ。
【ⅱ】
會場であるホテルのラウンジまで赴くと、そこは閑散としてゐた。もはや忘却が、春日野を侵食してゐたのである。要するに、弟子筋には、相手にされぬ存在へ墜ちた、と云ふ事だ。それを見越して髙い參加費用を請求してゐる、らしい。赤字、と云ふ譯には、よもや行くまい。
春日野老人は、車椅子に乘つて現れた。殆ど惚けてしまつてゐるやうだつた。握手を求める者もゐるにはゐるが、それがいちいち誰であるかは、思ひ出せない- じろさんは、會場の隅から、彼をウォッチしてゐた。
と、Iと云ふ男、この男は春日野の側近なのだが、が、じろさんに絡んできた。「此井さん、よくもなうなうとこの場に現れましたね」じろさんは、彼を無視した。そして早々に、祝賀の言葉も述べず、その場を立ち去つた。
【ⅲ】
じろさんは獨自の技の研究に余念なく、飽くまで「古式拳法」の看板に拘る一派とは、一線を画してゐたのである。他流試合に次ぐ他流試合(その死闘の日々よ!)で培つた、實戦拳法を、旧派の連中は、認めやうとしなかつた。
じろさんは方南町のマンションに帰つた。澄江さんは先に寢んでゐたが、食卓の上には、お茶漬けの準備が出來てゐた。じろさん、茶漬けを認めると、讀み差しの『西東三鬼句集』を開いた。〈広島や卵食ふとき口開く 三鬼〉これが一行の詩(然も黙示録的な)でなくて、何か。そして、自分の道を飽くまで開拓する事の、責任重大さについて、何事かを思つた。
ふと、目を上げた。春日野老人が、部屋の片隅に、車椅子に坐し、ぼうつとその姿を見せていた。じろさんは、流石場慣れしてゐる。「先生は【魔】に身を賣られたか?」すつ、と、春日野の生靈は掻き消えた。
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〈春淺き茶漬けの味に妻思ふ 涙次〉
【ⅳ】
春日野は、もしかすると俺に憑依しやうとしてゐたのでは- まだ存分に動く肉體に。さう思つたじろさん、この件は仕事とせずに、自分で片付けやう。然も、秘密裡に。
と云ふ譯で、じろさん、カンテラの事務所に數日間の休暇を取る事、願ひ出た。日頃精勤してゐたから、カンテラは「だうぞだうぞ」と、云つてくれた。
さて、春日野老人の生靈、またも現れるか。
短い休暇も、これで最後の日となつた。ドアのチャイムが鳴る。澄江さんが出た。
「あなたIさんよ」部屋に通した。Iは、春日野の車椅子を押してゐた。「事務所に伺つたら、こちらだと聞いてね」澄江さんが茶を出しに、きた。すると、春日野の口から、何か、が出て、澄江さんを拉致してしまつた! いきなりのピンチ。だがじろさん動ぜず
「家内を人質に取るとは…、春日野さん、あんたも堕ちたな」I、「なんだとお!」
じろさん、まづはIの腕を取り、後ろに捩ぢり上げた。「むう」彼は膝を付き、仕舞ひには腹ばひに倒れてしまつた。
「さて、次はあんたゞぞ、先生」幽體となつた春日野を、消すには。じろさん、徐ろに茶を含み、口から竜吐水のやうに勢ひよく、吹き出した。その水流に、春日野の靈は穴を開けられ、四散した。「此井殺法、激水流!」
【ⅴ】
「あなた...」「何、必ず最後に愛は勝つんだよ」
じろさんはそれ以來、私闘は避けるやう、氣を使ふやうになつた。まづは笑顔。武道家かくあるべし。
お仕舞ひ。
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〈笑顔する私と云ふ修羅の春 涙次〉