刃の前で
オステリア東帝国の広場は、朝陽の光を浴びながら次第に民衆で埋め尽くされていた。中央には巨大な処刑台がそびえ立ち、そこに立たされているリュタチ王妃が静かに佇んでいる。その瞳には揺るぎない覚悟と気高さが宿っていた。
広場を見下ろすバルコニーでは、王リリーシュとその息子フレリックが座っていた。リリーシュの顔には疲労と迷いが滲み、手にした杯を何度も回している。一方、フレリックは冷たい笑みを浮かべながら、父の迷いを横目で見ていた。
「父上、民衆が待っています。今こそ王としての決断を示すべきです」
フレリックの声は静かだったが、その言葉には確かな圧力があった。
リリーシュは目を閉じ、額に手を当てた。その耳には幻聴が再び響き始めていた。
今は亡きリリーシュの父母が馬鹿にしたように笑って、彼にささやく。
『だまされるな……お前は利用されている……』
『お前には期待されていない……王として価値がない……』
リリーシュは苦しげに首を振り、目を開いた。
「これは……正しいことなのか?」
「父上、正しさとは王が示すものです。リュタチ王妃の処刑は、帝国の秩序を守るための不可欠な行為です」
フレリックの声には一片の揺らぎもなかった。
「そうだ……私は王だ。正しいことをしているのだ」
リリーシュは自分に言い聞かせるように呟き、杯を唇に運んだ。
その頃、リヤとルマンは処刑台から少し離れた場所に潜んでいた。母を救うために立てた作戦が、今まさに動き出そうとしていた。
「衛兵が気を引かれている間に処刑台に上がる。母さまを解放する隙はそこでしかない」
ルマンの声は冷静そのものだった。彼は周囲を警戒しながら、リヤに短く告げた。
「準備はいいな?」
「ええ。私は絶対に母さまを救う」
リヤの声には迷いがなかった。だがその耳が震えるのを、ルマンは見逃さなかった。
「リヤ、焦るな。落ち着いて進むんだ」
彼はリヤの肩を軽く叩き、その目をじっと見つめた。
「分かってる。でも、これが最後のチャンスだもの……」
広場の周囲では、シェリダン夫人の手配した協力者たちが動き始めていた。彼らは衛兵の注意を引くため、わざと大きな騒ぎを起こした。
「おい、何をしている!」
衛兵たちがその場に向かい、処刑台の周囲が一瞬だけ手薄になった。
「今だ!」
ルマンが低い声で合図を送ると、リヤは処刑台に向かって駆け出した。
彼女の目には、母リュタチの姿しか映っていなかった。リュタチが彼女に気づき、瞳に驚きと涙が浮かぶ。
「リヤ、来てはいけないと……」
「黙って見ていられるわけがない! 私が助けるのよ!」
リヤは縄で縛られた母の元へたどり着き、その縄を急いで解き始めた。指が震えるのを感じながらも、必死に動く。
ルマンは剣を抜き、衛兵たちを引きつけながら叫んだ。
「リヤ、急げ! 時間がない!」
縄がもう少しで解ける――その瞬間だった。
「何をしている! 奴らを止めろ!」
フレリックの怒声がバルコニーから響き渡る。その言葉と共に、隠れていた増援の衛兵が一斉に現れた。
「しまった!」
ルマンが応戦しようとしたが、数の差があまりにも大きい。リヤの元にたどり着こうとする衛兵たちの影が近づく。
リヤは縄を解き終え、母の手を掴んだ。
「お母さま、行きましょう!」
だが、リュタチはその場から動こうとしなかった。
「リヤ、あなたが逃げなさい。私は……ここで終わるの」
「嫌! 絶対に一緒に逃げるの!」
リヤの声は震えていたが、手を離そうとはしなかった。
「リヤ、あなたにはまだ未来がある。この国を正しい道へ導いて……それが、私の願いよ」
その言葉にリヤの目から涙が溢れる。
「嫌……嫌だ、そんなの……!」
その時、衛兵たちがリヤの背後に迫り、彼女を強引に引き離した。リュタチの手がリヤの手から離れ、その瞳には最後の微笑みが浮かんでいた。
「リヤ……愛しているわ」
「刃を落とせ!」
フレリックの冷酷な声が響き渡り、執行人が刃を構える。
「やめて! お母さまを殺さないで!」
リヤは叫びながらも、衛兵たちに押さえつけられ、身動きが取れなかった。
その瞬間、ギロチンの刃が無情にも落ちた。
「お母さまーーーーーっ!」
リヤの絶叫が広場全体に響き渡る。その場に崩れ落ちた彼女を、ルマンが駆け寄り、力強く抱きしめた。
「リヤ、見ないで……これ以上、君を壊したくない」
ルマンの低い声が震える。彼もまた、耐え難い悲しみを感じていた。
リヤは涙を止めることができず、母の名を叫び続けた。
バルコニーでは、リリーシュが震える手で杯を握りしめていた。その瞳は処刑台に釘付けになり、声にならない言葉を呟いていた。
「正しい……私は正しいことをしたのだ……」
しかし、その瞳には後悔と深い孤独が宿っていた。
フレリックは満足げに広場を見下ろし、冷たい微笑みを浮かべていた。
「これで終わりだ。秩序は守られた」
リヤの瞳には、怒りと復讐の炎が燃えていた。母の死を無駄にしないと誓いながら、彼女の心には新たな決意が静かに生まれていた。
「私は……絶対に変える。この国を……!」