母の影と銀の王子
母リュタチの逮捕から数日が経ったが、リヤの心は未だ重く沈んでいた。王宮中に流れる噂――「王妃がスパイである」という嘘が、彼女の心に深く突き刺さる。それが作られたものだと分かっていても、どうすることもできない無力感に苛まれていた。
庭園の花々は色鮮やかに咲き誇り、春の陽光が輝いている。だが、リヤの目にはそれがどこか空虚なものに映った。彼女は広い噴水のそばに立ち尽くし、冷たい水音に耳を傾ける。
「リヤ王女」
低く穏やかな声が背後から響いた。振り向くと、銀髪に銀の瞳を持つアンゲナ南帝国の王子、ソメイルが立っていた。彼は緩やかな微笑を浮かべながら、リヤに近づいてくる。
「ここで何をしているのだ」
「何でもないわ。ただ少し……考えごとをしていただけ」
リヤは彼を見ないように目を逸らした。だがソメイルはさらに歩み寄り、彼女の隣に立った。
「最近の出来事はさぞ辛いことだろう。お前の母君のことは……私も残念に思っている」
その言葉には真摯な響きがあったが、リヤの心には届かなかった。彼の瞳の奥にあるどこか軽薄な光を、リヤは感じ取っていたからだ。
「ありがとう。でも放っておいてくださいませ。母のことを考えていたいのです」
リヤの言葉に、ソメイルは悲しそうな顔をした。
「だが、リヤ、お前にはまだ未来がある。私はいつでもお前を守る。アンゲナ南帝国の王子として、お前にふさわしい幸せを約束しよう」
彼の言葉にリヤは一瞬驚き、彼の顔を見上げた。
「幸せ……? ソメイル様、あなたが思う『幸せ』が、私の望むものだとどうしてわかるの?」
その問いにソメイルは困惑したように眉をひそめた。
「それは当然だ。お前が望むのは、守られ、愛されることではないのか?」
リヤは小さく息をつき、かすかに笑った。その笑みには、どこか冷たさが含まれていた。
「私が望むのは、誰かに守られることじゃない。自分の手で、この国を変えることよ」
ソメイルは目を見開いた。彼にとって「女性が王座を目指す」という考えはあまりに突飛であり、理解しがたいものだった。
「だが、それは……お前にはあまりにも危険すぎる。そんなことを考える必要はない」
「そう、あなたにはわからないでしょうね。だから、ありがとう。でも私は一人で戦うわ」
リヤはソメイルに軽く一礼し、その場を後にした。彼の銀色の瞳には、彼女をどうしても理解できないという戸惑いが浮かんでいた。
その夜、王宮に緊張した空気が漂った。リヤはこっそりと母が幽閉されている牢獄へ向かう決意をしていた。
暗い石造りの廊下を、蝋燭の揺れる明かりを頼りに進む。冷たい空気が肌を刺し、心の中で「見つかってはいけない」という緊張感が高まる。そのたびにリヤの耳がふわりと現れる。彼女は気づかれないようにフードで耳を隠し、足音を忍ばせながら先へ進んだ。
「お母さま……!」
リヤが小さな声で呼びかけると、暗い牢の奥からリュタチがゆっくりと顔を上げた。彼女は痩せこけていたが、その瞳にはまだ気高さが宿っていた。
「リヤ……来てはいけないとあれほど言ったのに」
リュタチは眉を寄せながらも、娘を見つめる目には深い愛情があった。
「お母さま、私は……どうしてもあなたに会いたかったの」
リヤは鉄格子越しに手を伸ばし、母の手を握りしめた。
「私は大丈夫よ、リヤ。あなたは王宮で堂々と生きなさい」
「でも、こんな理不尽なこと……!」
リヤの声は震え、感情が溢れる。耳が完全に出現し、震えるリヤの頭で揺れていた。
リュタチはそっと微笑んだ。
「リヤ、感情を抑えなくてもいいわ。あなたの耳は、あなたの強さの一部なのよ。それを隠さず、むしろ誇りに思いなさい」
「誇り……?」
リヤは涙を流しながら母の言葉を反芻した。
「そうよ。そして、いつかこの国をあなたの手で正しい道へ導いてちょうだい。それが私の願い……そしてあなたにしかできないことなの」
その時、背後から誰かの足音が聞こえた。リヤは振り返り、緊張した。現れたのはルマンだった。
「リヤ、こんなところに来るなんて……危険すぎる」
彼の低く静かな声には、はっきりとした怒りが込められていた。
「でも、私は……お母さまに会いたくて……!」
「気持ちはわかる。だが、君が捕まったら、それこそお母上の心は壊れてしまう」
ルマンはリヤの肩に手を置き、彼女をじっと見つめた。
「今は戻れ。そして、自分が成すべきことを考えろ。それがお母上の願いに応える道だ」
リヤは目を伏せ、涙を拭いながら頷いた。
「お母さま、私は必ず……この国を変えます」
「そう信じているわ、リヤ」
リュタチの言葉を胸に刻み、リヤはルマンと共にその場を後にした。
その夜、リヤの心には怒りと決意が渦巻いていた。ソメイル、ルマン、そして母の言葉が彼女の中で交錯する。
「私が……絶対に変えてみせる。この国を」
その言葉とともに、彼女の目には新たな光が宿り始めていた。