母の教えと迫り来る影
朝の陽光がオステリア東帝国の王宮を照らし、きらびやかな装飾に輝きを与えていた。その中でもリュタチ王妃の居室はひときわ穏やかで、美しい光に包まれている。リヤ・イズリオンは、母から呼ばれたと聞き、小走りにその扉を開けた。
「お母さま!」
喜びに満ちた声を響かせ、リヤは金髪を揺らしながら部屋に駆け込む。
窓辺に立つリュタチは振り返り、優しい微笑みを浮かべた。彼女の金色の瞳が朝の光を反射して、まるで太陽そのもののように輝いている。
「リヤ、よく来てくれたわ。元気にしていた?」
「ええ、ルマンと庭園で花冠を作って遊んだの。ほら、これ」
リヤは小さな花冠を手に持ち、嬉しそうに見せた。
「まあ、素敵ね。きっとよく似合ったでしょう?」
リュタチがそう言うと、リヤは一瞬言葉を詰まらせた。
「でも……フレリックお兄さまに『そんなものはふさわしくない』って言われたわ。私が……獣人族の血を引いているからだって」
リュタチはわずかに眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情に戻る。彼女はリヤのそばに歩み寄り、その手をそっと握った。
「リヤ、フレリックの言葉に心を傷つけられる必要はないのよ」
彼女の声は柔らかかったが、そこには確かな力が込められていた。
「誰もが偏見を持たずに生きるのは難しいこと。けれど、それが正しいとは限らないわ。フレリックはまだ、その重さを理解できていないの」
「でも……私には獣人族の血が混ざっている。それが……」
リヤは視線を落とし、言葉を詰まらせた。
リュタチはリヤの肩にそっと手を置き、その目を真っ直ぐ見つめた。
「その血があるからこそ、あなたは他の誰よりも特別な存在なのよ。人と獣人族、二つの視点を持つあなたには、この国を変える力がある」
その言葉はまるで、リヤの胸に静かに灯る希望の火を吹き消さないようにするかのようだった。
「お母さま……私、本当にその力を持っているのかしら」
リヤが不安げに尋ねると、リュタチは微笑みを深めた。
「持っているわ、リヤ。あなたがその力に気づく日が必ず来る。その時は、迷わずに前を向いて進みなさい」
リヤは小さく頷き、母の言葉を心に刻んだ。
その日の昼下がり、王宮の廊下を歩くリュタチの背後に、冷たい声が響いた。
「リュタチ様、王が謁見を求めております」
振り返ると、フレリックの側近である侯爵グライヴァーが、冷笑を浮かべて立っていた。
「謁見ですか? 何のご用件でしょう」
リュタチは落ち着いた声で答えたが、胸の奥にかすかな不安が広がる。
「さあ、詳しいことは私にはわかりません。ただ、急ぎの話のようです」
グライヴァーの声にはどこか皮肉めいた響きがあった。
リュタチは小さく頷き、まっすぐ王の謁見室へと向かった。
謁見室の中には、リリーシュ王が座っていた。その顔は険しく、瞳には深い疑念が浮かんでいる。その隣にはフレリックとグライヴァーが控え、冷たく静かな空気が漂っていた。
「リュタチ、君に聞きたいことがある」
リリーシュ王の声は重々しかった。
「何でしょうか、陛下」
リュタチは丁寧に頭を下げた。
「君が、帝国の軍備に関する機密情報を母国ハレミア西帝国に漏らしているという報告を受けた。それについて弁明してほしい」
その言葉に、リュタチの心は一瞬凍りついた。しかし彼女はすぐに冷静さを取り戻し、毅然とした声で答えた。
「そのようなことはありません。私はこの国に仕える身として、帝国のために尽力してまいりました」
「だが証拠がある」
フレリックが静かに口を挟む。彼の目には冷酷な光が宿っていた。
「リュタチ王妃、これが君の手によるものだという証拠だ」
彼は手紙を差し出し、それを王に手渡した。
リリーシュ王はそれを受け取り、目を走らせる。顔をしかめ、苦しそうに声を絞り出した。
「これが……本当なら、君を許すことはできない」
リュタチは静かに首を振り、毅然と答えた。
「陛下、その手紙が私の手によるものだという証拠はどこにもありません」
グライヴァーが口を開いた。
「王妃様、そのような弁解は無意味です。状況証拠は揃っています」
リリーシュ王は頭を抱えた。その耳には、彼を馬鹿にする幻聴が響いていた。
リリーシュは本来玉座に座る人間ではなかった。
第二王子という身分で放蕩しており、兄が流行り病で急逝したことにより王となったのだ。
そのため、リリーシュには自信がない。
勉学も疎かで、また決して聡明ではない彼を父母はにじり、臣下たちはあざ笑った。
いつから幻聴が聞こえ始めたのだろう。
最近のリリーシュは昼夜問わず、父母が彼の王の器がないという叱責、臣下に侮られる悪口が幻聴となって苦しめていた。
『だまされるな……彼女もお前を裏切る……』
『お前には何も期待できない……』
王はその幻聴に追い詰められるように言葉を放った。
「リュタチ、君を信じたい気持ちはある……だが、これでは……」
弁明するリュタチにリリーシュは首を振った。
『そらそら、強い王様でいないとリリーシュ』
『疑わしいものは片っ端から殺していけ!お前の玉座を守るために』
『無能なお前は疑心暗鬼くらいがちょうどなんだ!』
「彼女を地下牢につないでおけ!」
リリーシュは幻聴を振り払うかのように大声で怒鳴った。
その言葉と同時に、衛兵たちが現れ、リュタチを連行する。その姿を見届けるフレリックの顔には、冷たい笑みが浮かんでいた。
その夜、リヤは母が戻らないことに胸騒ぎを覚えていた。侍女から「リュタチ様が逮捕された」と告げられた時、リヤの心は絶望に沈んだ。
「そんな……お母さまが……」
彼女の目に涙が浮かび、うさぎの耳が再び頭から伸びた。それは彼女の感情が高ぶった時に現れる、獣人族の特徴だった。リヤはそれを両手で隠そうとしたが、止まらない震えが耳元から伝わる。
「お母さまは……何も悪いことをしていない」
涙が頬を伝い、ぽたりと床に落ちた。その悲しみの中で、リヤの胸には新たな決意が芽生え始めていた。