信頼の足音と疑念の囁き
市場の一角で、リヤが病を治した感謝を受ける様子を見守る影があった。虎のように鋭い目としなやかな体躯を持つ獣人族の青年、ガルドだった。隣には華やかなドレスに身を包んだ人間族の若い女性が寄り添っている。彼女の名はセリーナ。ガルドの婚約者であり、人間族の貴族の娘だ。
「王女様、本当にありがとうございました!」
病から回復した男がリヤに深く頭を下げ、息子の手を引きながら去っていく。その後ろ姿を見送るリヤのうさぎの耳が微かに動く。
「感謝されているようでよかったじゃないか」
ガルドが淡々と呟く。彼の声には感情の起伏が少ない。
「ガルド、冷たいこと言わないで」
セリーナがやんわりと彼をたしなめる。
「リヤ王女はこんなに頑張っているのよ。素直に尊敬しなきゃ」
「俺はただ……」
ガルドは言葉を途切らせると、目を細めた。
リヤがその視線に気づき、微笑んで軽く頭を下げる。「ガルド、セリーナ。来てくれてありがとう」
「別に、俺たちが呼ばれたわけじゃない」
ガルドは肩をすくめたが、セリーナがすかさず言葉を補った。
「いいえ、私たちも王女様のお力になりたくて」
リヤはその言葉に微笑み返したが、その奥にガルドの態度への一抹の違和感があった。
ルマンはその様子を遠目に見ながら、リヤに近づいた。
「ガルドとセリーナがここにいるのは偶然か?」
「ええ、たまたま近くにいたのかもしれないわ」
リヤは表情を崩さずに答えたが、その視線はガルドたちの背中を追っていた。
「ガルドは獣人族の中でも実力者だ。だが……」
ルマンは言葉を濁した。リヤが彼を見上げると、その目に不安の色が浮かんでいることに気づいた。
「どうしたの?」
「いや、大したことじゃない。ただ、注意は怠るな」
ルマンの忠告に、リヤの耳が小さく動いた。彼女の胸に何かざわめくものが広がる。
市場を歩く中、セリーナはガルドの腕を掴んで微笑んだ。
「ガルド、あなたも王女様をもう少し信用してみたら?」
「セリーナ、俺は誰も信用しないだけだ」
ガルドの声は冷静だったが、その目には何か隠しているような影があった。
セリーナはその様子に気づかないふりをして、優しく微笑んだ。
「でも、あなたはいつも私を守ってくれるわ。それだけで十分」
ガルドの眉が僅かに動いたが、言葉は返さなかった。そのまま二人は市場の人混みに消えていった。
リヤは市場での喧騒を抜け出し、ルマンと共に近くの屋敷へ向かっていた。市場での出来事が胸にわだかまりとして残る。リヤの耳が微かに震え、彼女の心の内を物語っていた。
「ガルドとセリーナのこと、気にしているのか?」
ルマンが隣で静かに声をかける。彼の赤い瞳がリヤを見つめていた。
「……少しね」
リヤは小さく頷きながら言った。
「ガルドは頼りになる人だけど、何かを隠しているように思えるわ。でも、それが私の被害妄想かもしれないし……」
ルマンはしばらく黙って歩き、やがて言葉を紡いだ。
「慎重であることは悪いことじゃない。誰を信用すべきか、君自身で判断すればいい」
「ありがとう、ルマン」
リヤは彼に感謝の微笑みを向けると、屋敷の門をくぐった。
その夜、リヤは自室の窓辺に腰掛けていた。月明かりが室内を柔らかく照らし、森の静けさが耳に心地よく響いている。しかし、彼女の心は落ち着いていなかった。
「母さま……私は間違っていないわよね?」
リヤは窓に映る自分の姿に問いかけた。翡翠の瞳が月明かりを受けて輝き、彼女の金髪が柔らかく光を反射している。
その時、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
入ってきたのはルマンだった。彼は彼女に向かい歩み寄ると、手に持っていた書簡を差し出した。
「新しい報告だ。フレリックが動き出したらしい」
リヤの表情が緊張で引き締まる。
「どういうこと?」
ルマンは一枚の手紙を取り出し、静かに読み上げた。
「フレリックはリュタチ様にかけられたスパイの罪を再び持ち出し、君を母上と同じスパイだと訴えている。しかも、君が治療した病も仕組まれたものだと吹聴している」
「そんな……!」
リヤの瞳が驚きと怒りで見開かれる。耳がぴくりと動き、彼女の動揺を表していた。
「さらに、貴族たちの間にもその噂を流している」
ルマンは冷静に言葉を続けた。
「君を孤立させようとしているんだ」
リヤは深く息を吐き、震える手で手紙を受け取ると、しばらくの間それを睨むように見つめていた。
「フレリックがここまでしてくるなんて……」
「だが、これは君にとってもチャンスだ」
ルマンが視線を合わせ、静かに言った。
「彼の言葉を逆手に取り、行動で真実を証明すればいい」
リヤはその言葉に目を伏せ、考え込む。やがて顔を上げ、決意を込めた瞳でルマンを見つめた。
「そうね。この噂を利用して、私はもっと大きな一歩を踏み出すわ」
「その意気だ」
ルマンが満足そうに微笑むと、彼は椅子に腰掛けた。
「まずは何をする? 獣人族の信頼を固めるか、それともハレミア西帝国へのアプローチを考えるか?」
リヤは少し迷った後、静かに口を開いた。
「ハレミア西帝国へ向かうわ。正式な使者として、国交回復を提案する。私たちの行動が本物だと証明するために」
ルマンはその決断に微かに驚きながらも頷いた。
「無茶しすぎるなよ」
ルマンの言葉に微笑むと、再び窓の外に目をやる。月明かりに照らされた森の向こうに広がる未来を見つめながら、彼女の耳が決意を示すように小さく震えた。
「必ず成し遂げるわ。この国の未来を守るために」
その夜、リヤは母の面影を胸に抱きながら、眠りについた。明日への準備を整えるために。