婚約破棄は迅速に
王城の廊下を二人の男が急ぎ足で進んでいた。
フェランディス公爵家嫡男ベネディクト。
そして彼に付き従う執事のクレトである。
ベネディクトは幼い頃より優秀であった。
あまりにも優秀であったため、遊ぶということがほとんどなく、教師など理詰めの大人とばかり接していた。
結果、若くして法務大臣の補佐となったが、まったく情緒というものに欠けている。
その証拠に、二十六歳になった今でも恋愛の経験がない。
見た目も秀麗である彼には、かつては山のような令嬢の釣り書きが届いていた。
特に気乗りはしなかったものの、貴族間の付き合いもある。
周囲の勧めに従い、いくつか見合いはしてみたのだが、どうもピンと来なかった。
真実の愛、などという言葉は信じたこともないが、誰と会っても違うと感じる。
中にはしつこく食い下がる令嬢もいたが、何をどうしても全く手ごたえのないベネディクトに、やがて愛想を尽かしてしまうのだった。
片や、文官としての評判は上がるばかりだったから、陰では仕事と婚姻する気だとか、女性に興味がないだとか、いろいろ言われていた。
彼の出世をやっかんだ同僚が、法務大臣の色子などと言ったことがバレて厳しい辺境地へ左遷されたとかされなかったとかいう噂もあった。
それはさておき、本日は王城で大規模な夜会が開かれる日である。
公爵家嫡男としてベネディクトも出席しなくてはならなかった。
だが、そんな時に限って仕事は降って湧くもので、朝から城外へ出向いていたのだ。
やっと王城に戻れたのは、夜会の出席者も集まり始めた頃。
文官用の馬車寄せがあるからいいようなものの、そうでなければ正面の馬車列に長時間並ばされるところであった。
「ベネディクト様、控室をお借りしてありますので、そちらでお着替えを」
「ありがとう、クレト。いつも世話になる」
「いえいえ、これくらいは私の力量をもってすれば何の造作もございません」
彼の執事は自己評価が高い。それが長所か短所かは意見の分かれるところだ。
ともかく、執務室まで戻ると遅くなるので大広間の近くに部屋を抑えてくれたのだ。
こういう時は、本当に頼りになる執事である。
ところが、急ぐ彼らの足を止めた声があった。
「……今、どこかから婚約破棄って聞こえなかったか?」
「……いえ、空耳ではないかと」
執事の忠言も虚しく、若い男の声が聞こえてきた。
『お前とは、今この時をもって婚約破棄だ!』
婚約破棄、それは阿呆の所業だ、とベネディクトは思っている。
「貴族間の婚姻は政略が基本なのだ。
婚約をやめること自体は、単なる契約の解消だろうに。
大騒ぎして、誰が悪いだの、愛がどうだの……」
「概ね賛成ですが、愛がどうだについては貴方様に仰る資格はないかと」
「………」
婚約は法務省を通る案件だ。
当然、破棄するとなれば手続きが要る。
更に書類の不備があったり、確認事項があったりすると双方の家の者を呼び出して話を聞かなければならない。
これが大いに手間だった。
冷静に話をしてくれればいいものを、余計な一言が過激な一言を呼び、修羅場に発展するのは当たり前。
この手の聞き取りには安全のため、警備の騎士が増員されるほどだった。
見過ごせない文官と、足止めを諦めた執事は声のする方へ行ってみた。
「婚約破棄ですか?」
「ああそうだ、何度でも言ってやる。エルミニア、お前とは婚約破棄だ!」
夜会のために眩いほどの照明が灯された廊下。
そこには興奮気味の若い令息と、対して冷静な若い令嬢がいた。
「はい、そこのお二人」
ベネディクトはさっさと声をかける。
「なんだ貴様!」
男は横柄に応えた。
「婚約破棄と仰いましたね?」
「ああ、言ったとも」
「間違いございませんね?」
「ああ、間違いない、私はこのエルミ……」
「詳細は別室でお聞きしましょう。こちらへどうぞ」
キョトンとする令息。
それに対し、令嬢は淑やかな所作で軽く会釈し、従う意思を示した。
「な、エルミニア、ちょっと待て!」
「貴方も早くいらしてください」
「ええい、煩い! だいたい貴様、何の権限があっ……」
文官服の男を睨みつけた令息だったが、その時、後ろに控えた執事から立ち上る冷気に気付いた。
若干の命の危険すら感じて口を閉じ、渋々ながら従う。
執事の心中は『これ以上ごねて時間かけさすんじゃねーよ!』だったが、令息には明確な殺意として伝わったようだ。
案内された部屋のソファに腰を落ち着けると、ベネディクトは鞄から書類とペンを出し説明を始める。
「まずは、ご同行いただきましたことにお礼申し上げます。
突然のことで驚かれたとは思いますが、お許しを。
私は法務省に勤めます文官のベネディクト・フェランディスと申します。
このような婚約破棄の案件を取り扱うことが多いのですが、こういうお話は日が経つにつれ拗れやすいものなのです。
そこで、今ここで調書の下準備をさせていただければ、今後の進行が順調かと思いまして、声をかけさせて頂いた次第です」
「貴様に事情を託せば、早く婚約破棄できるということか?」
「そう捉えていただいても、間違いではないかと」
「そうか、わかった」
「まずは、ご令息から。
お名前をお聞かせいただけますか」
「……ドラード伯爵家嫡男、サバスだ」
「ご令嬢は?」
「バラーダ侯爵家次女、エルミニアでございます」
令嬢が名乗ると一瞬、ベネディクトの手が止まった。
だが、すぐに名前を書き始める。
「ありがとうございます。
失礼とは存じますが、手続きの簡素化として、ここではお名前を呼ばせていただきます。お許しください」
「よかろう」
「従います」
「では、本題に入りましょう。
サバス様は、エルミニア様との婚約を破棄されたい、ということですが、理由をお聞かせください」
「この女は、何かにつけ上から目線で私に文句をつけるのだ。
我が家に嫁に来る心構えが、なっていない。
自分の生家のほうが格が上だと思い上がっているのだろう。
男の私を立てるという気遣いが無いのだ」
「エルミニア様、反論は?」
「私はサバス様の将来に良かれと思い、自分から見て気付いたことを申し上げていたつもりでした。
その結果、嫌な思いをなさったとすれば、確かに私の落ち度でございます。
申し訳ございません」
「ふん、今更謝っても遅いわ!」
「それでは、サバス様は婚約破棄の意思が固いということで、よろしいでしょうか?」
ベネディクトの眼鏡がキラリと光る。
「男に二言はない!」
「エルミニア様は、いかがでしょう?」
「望まれないのであれば、止むを得ないかと思います」
「なるほど、お二人とも、婚約破棄に同意なさるということでよろしいですね?」
「ああ、もちろんだ」
「はい、それで結構です」
「ファイナルアンサー?」
「しつこいな! それで構わん」
エルミニアは小さく頷いた。
「それでは以上を書類にまとめまして、上の方に提出いたします。それから、結果的に破棄になるか解消になるか、または白紙になるかはお家同士の事情等を鑑みて決定されますので、ご承知おきください。
ところで」
ベネディクトは令息を見据えた。
「サバス様は、新たな婚約者候補に心当たりは?」
「心配無用だ。私には、真実の愛で結ばれた相手がいる」
「その方は本日はこちらにお越しですか?」
「余計な詮索をするな!」
「失礼いたしました。それでは、サバス様はご退出いただいて構いません。
ご協力ありがとうございました。
エルミニア様には、もう少々お尋ねしたいことがございますので、お残り下さい」
令息が出ていくと、エルミニアはホッと息を吐く。
「大丈夫かい?」
「ええ、覚悟はしていましたから。
ご無沙汰いたしております、ベネディクトお兄様」
ベネディクトとエルミニアは従兄妹同士。
母親に連れられて公爵家に来た幼い彼女と、一緒に過ごしたこともある。
八歳も年の差があって、弟しかいないベネディクトにとっては小っちゃい女の子といえば、エルミニアが浮かぶ。
いや、さすがに冠婚葬祭で親戚が集まった時、他の従姉妹とも少しは交流があったはずだ。
なのに、不思議と他の女の子の記憶がないのだ。
「十年ぶりくらいかな。それにしても大きくなったね。
最初、顔を見ても気付かなかった」
そこは『綺麗になったね』だと思った執事だが、別のことを口にした。
「お話し中、申し訳ございませんが、夜会の準備を始めませんと」
「ああ、そうだった。ちょっと失礼」
ベネディクトは衝立の向こうで着替えを始めつつ、話を続けた。
「声をかけたのは、お節介だったかな」
「いいえ。罵倒されて一人で取り残されたら、辛かったでしょう。
助けて下さって、ありがとうございました」
「いや、感謝されると、少々ばつが悪いな」
「なぜですか」
「ああ、夜会で婚約破棄が横行しているだろう?
すったもんだして後々、余計な問題が広がってうんざりするんだ。
一度、現行犯逮捕できないかと思ってた」
「現行犯逮捕」
「少々残念なことに、彼は捕縛できなかった。
婚約破棄を言い出しながら、腕に自分の不貞の証拠をぶら下げてる令息が望ましかったんだが」
「サバス様のお相手は男爵家のご令嬢ですもの、今日の夜会には連れて来られなかったのでしょう」
「彼も少しは考える頭があるようだ。
後継ぎを外されるだけで済むかもしれないな」
「有罪は免れそうにありませんわね」
「現場を押さえて、手早く処理するに越したことはない」
「法務大臣の補佐官も大変ですのね」
「判決、いや結論を出すのは裏付け調査が済んでからだが、人前での婚約破棄劇は故意かどうかはともかく、令嬢の立場を悪くする。
放っておくと、自分の保身のために令息が偽の噂を流すことさえある」
「まあ」
「円満かつ迅速に別れてもらって、被害者とも言えるご令嬢には、さっさともっと良い縁談を紹介したいというのが上の意向だ」
「素晴らしいですわね」
「まあ、偉い爺どもの都合でいいようにされる、とも言う」
「あら」
「ところで」
衝立の影から出たベネディクトは、すっかり夜会用の礼服姿だ。
文官服よりも美貌が際立つ。
「エルミニア、いや、バラーダ侯爵家令嬢。
よろしければ、今夜は私にエスコートの栄誉を頂けますか?」
「喜んで」
エルミニアは、不貞を働いた婚約者に未練の欠片も見せず、花のように微笑んだ。
その夜、エスコートのパートナーが違うことで、侯爵令嬢の婚約に何かがあったようだと感付いた者もいた。
しかし、夜会の話題をさらったのはフェランディス公爵家嫡男ベネディクトだった。
法務大臣補佐官として日夜駆け回り、法を犯す者には僅かの緩みも無く厳しく接する男。
これまでの彼は仕事に没頭し過ぎて、せっかくの地位も美貌も台無しと言われてきた。着けた氷の仮面に塩をかけて温度を下げている残念令息、とも。
ところが、その夜の彼ときたら、バラーダ侯爵家令嬢と何曲も踊るわ、和やかに会話するわ、時折笑い声まで立てるわ、で周囲を驚かせ続けたのだった。
そんな夜会も終わりの時間を迎え、ベネディクトはエルミニアを侯爵家の馬車までエスコートした。
「お兄様、お仕事でお疲れでしたのにエスコートしてくださって、ありがとうございました。
おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ……」
馬車を見送ったベネディクトは、何かを思い出しかけていた。
「なあ、クレト」
「なんでございましょう?」
「これまで見合いをしたご令嬢の中に『お疲れ様』『ありがとうございます』なんて言った人はいたかな?」
「全ての会話を覚えてはおりませんが……そうですね、いらっしゃらなかったような気がいたします」
忙しい仕事の合間を縫って行った見合い。
会う時間が短いことや、時間指定が細かいことに文句を言う令嬢はいても、会ってくれてありがとう、という態度の令嬢に心当たりはない。
こちらの都合に合わせてもらうのだから、その反応を否定するつもりは無い。
だが、自分が望んでいたのは、僅かでも労いの気持ちを持つ女性だったようだ。
「私は夢を見過ぎているのかな?」
「だとしても、よろしいのでは?
どうせ、ここまでご縁が無かったのです。
ピンとくるお相手を大事になさいませ」
ベネディクトは思い出した。
公爵家に遊びに来たエルミニアとのことを。
子供時代から嫡男として、勉学に武道にと忙しかった自分。
やっととれた休憩時間に庭を散歩する日もあった。
ある時、庭でお茶をしていた自分の母とエルミニアの母が、何か用事があって席を外したのだ。
その間、ベネディクトにエルミニアの相手をするよう言いつけて。
少し疲れた様子の彼に気付いて、幼いエルミニアが言った。
「お兄様、お疲れ様でございます。
今、お茶をご用意いたしますね」
なんと、エルミニアはホステスを買って出て、メイドに疲れの取れるハーブティーを頼んでくれた。
「ありがとう、エルミニア。
君はしっかり者だね。まだ幼いのに、一人前の淑女だ」
「将来、国のために役立つよう頑張っていらっしゃるお兄様を、労わるのは当然です」
おませな女の子が、口先だけで言っているようには聞こえなかった。
彼女の言葉は、お茶と共に心に染みた。
嬉しかった。
誰か一人でも自分を信じてくれるなら、きっと頑張れる。
家族や使用人たちは、いつも温かく見守ってくれている。
でも、それとは少し違う立場の彼女。
少しくじけそうになった時でも、君が信じてくれる自分を裏切らずにいよう。
そう思った。
「そうだ、あれが私の初恋だ」
「そうなんですか」
クレトは冷静に返事をした。
エルミニアが公爵家に遊びに来ていたのは、クレトが従者になる以前のことだ。
「どうして婚約を望まれなかったのです?」
「エルミニア本人が婚約を理解できるようになってから、と考えていたら時期を逃してしまった」
ふと気付けば、エルミニアには婚約者がいた。
彼女の両親が決めたことならば、ベネディクトにとやかく言うことは出来ない。
だから、初恋を忘れることにしたのだ。忙しさに紛らわせ、心の奥底に隠して。
だが、ふいにチャンスは訪れた。
「一週間で婚約破棄を確定させるぞ。
いや、白紙撤回で行くか。ふむ、使える物は何でも使ってサバス・ドラードを封印する」
「若干、相手が実力不足ですが厳重に参りましょうか」
「そうだな、厳重に行こう」
ベネディクトはニヤリと笑った。
数日後、ベネディクトは法務大臣に面会を求めた。
業務ではなく私用であるため、厳格にアポを取ったのだ。
会ってすぐ、ベネディクトが差し出した書類を一瞥し、大臣は言った。
「なんだこれは?」
「私の釣り書きです」
「……儂には妻も子も孫もいるが?」
「……貴方宛ではありません!
とあるご令嬢の家に送りますので、釣り書きに負けない推薦状をください」
「やっと身を固める気になったか。
女性に興味がないのかと心配していたが」
「だ・れ・のせいですか!?
忙しくてそれどころではなかったのです」
「と思って、適当に見繕っても断ったではないか」
「当たり前です!
私にも好みと言うものが……」
「ほほう、好みのご令嬢が現れた、ということか
どれどれ?
うむ、つり合いも派閥的にも問題なさそうだな
しかし、バラーダ家のご令嬢とは」
宛先を確認した大臣が、もの言いたげに部下を見た。
「なんです?」
「先日の婚約解消、一件だけ至急で書類を通したと思ったら狙っていたのか?」
「狙っていたというか、昔から考えていたというか……」
「まさか、初恋か?」
「はい、そうです!」
キリっとした顔で答える部下。
「……いや、そんな素直に正面切って認めたら儂が照れるわ」
「知らんわ!
オッサンの照れなど見たくも無いので、早く推薦状を書いてください」
「それが上司にものを頼む態度か?」
「普段、黙ってこき使われてやってるんですから、これくらい頼んでも罰は当たりません」
「ハハ、これからも期待しているぞ」
「ご期待に副いましょう」
それからしばらく後のこと。
真っ赤な薔薇の花束を持ったベネディクトがバラーダ侯爵邸を訪れた。
分厚い釣り書きと法務大臣の推薦状を携えた執事のクレトが付き従う。
普通なら本人が来る前に釣り書きを送るものだろうが、ベネディクトは自分自身で売り込もうと、直接持って来たのだ。
玄関で待っていたエルミニアは、馬車を降りた彼にまっすぐに駆け寄って来た。
思わず彼女を抱き留めようと、ベネディクトが動く。
抱えた花束は宙に舞うが、荷物を持っているクレトには受け止められない。
最高の赤い薔薇を取り寄せたクレトが無駄になった予算を思い、ため息をつきかけた。だが、エルミニアの父、バラーダ侯爵がすんでのところで受け止めた。
「これも、ブーケトスなのか!?」
「恐れ入ります」
侯爵とクレトは顔を見合わせて苦笑する。
迷わずベネディクトの胸に飛び込んだエルミニアだったが、我に返って赤面していた。
「まだ、婚約の申し込みもしていないのに、返事が先に来たようだ」
「はしたない真似をして申し訳ございません、お兄様」
応接室に落ち着き、エルミニアにわけを訊ねると、クレトの仕業だった。
「ベネディクトお兄様が婚約の打診に必ずいらっしゃるから、他の申し込みを受けたり、修道院の下調べをしたりしないように、と執事さんからご連絡いただいたのです」
「クレト……」
「勝手な真似をして申し訳ありませんでした。
ですが、ベネディクト様が決心なされたのですから、ここからはわずかなボタンの掛け違いも許されませんので」
確かにそうだ。もう、彼女の手を放しては駄目だ。
「エルミニア、私と生涯を共にしてくれるか?」
「はい、喜んで。よろしくお願いいたします、ベネディクト様」
二人を穏やかに見守っていたバラーダ侯爵も口を開く。
「娘をよろしく頼みます、ベネディクト殿」
「ご承諾いただき、ありがとうございます、侯爵」
「私は不甲斐ない父親でした。
エルミニアが何も言わないので、婚約者とはうまくいっているものと……」
「なぜ、父上に相談をしなかったんだい、エルミニア?」
「婚約は法の下に定められた厳格なものですから。
日夜、それを守っていらっしゃるお兄様のためにも、法に従うべきと思いました」
「だとすれば、君の元婚約者のやらかしには感謝する点もあるな」
「そうですわね。あの日、婚約破棄を告げられて、どれだけホッとしたことか。しかも、あの場に貴方が現れて、どれだけ嬉しかったことか……」
「あの婚約は白紙になったからな。彼は廃嫡されて、男爵令嬢と共に小さな領地に送られた。たまたまフェランディス公爵領の飛び地に接しているので、我が領の騎士団が頻繁に見回って、安全を確保するよう努めてくれる」
サバス・ドラードも、その妻も、今後数十年は領地から出られそうもない。
「あの方を見ていると、お兄様のことを思い出して、ついつい余計なことを言って怒らせてばかりでしたわ」
仕事よりも社交という名の遊びを優先する婚約者に不安を感じていたエルミニア。
「でも、不貞をしているらしいと噂が回ってきても、それだけは放置しましたの。自滅を誘うために」
「正しい判断だ」
「お兄様のように立派なお仕事をして欲しい、とまでは考えていませんでした。
伯爵家を守るに相応しい、それなりのお仕事をなさっていただけるのなら、身を粉にしてお支えしようと思っていたのです」
「……私は、君が支えてくれるに相応しい働きをすると誓うよ」
「少しも疑ってなどおりませんわ」
同じ部屋で見守る侯爵が、クレトに話しかける。
「なんか、どうも甘さが足りない二人だね」
「はあ、うちの主人が申し訳ございません。
ですが、お似合いのお二人かと」
「違いない」
「そう言えば、失礼とは存じますが本日、侯爵夫人は?」
「話は決まったとばかり、入れ違いにフェランディス公爵家に婚姻準備の打ち合わせに出向いたよ」
エルミニアも、その母も、サプライズなどという糠喜びより確かな手ごたえを重視するタイプだ。
「どうして王城の夜会で婚約破棄を言い出す者が多いのかわかったよ」
「まあ、どうしてですの?」
婚約が調った二人だったが、相変わらずベネディクトは忙しい。
それで、街で流行りの茶菓子を調達したエルミニアが頻繁に執務室を訪ねていた。
「不貞を働くのに忙しく、婚約者と会うのは必然に迫られた夜会の時くらいだったせいだ」
「なるほど。そうなのですね」
「これからは夜会でビシバシ現行犯逮捕して、不遇なご令嬢を救い出すことにしよう」
「……あの、ご令嬢の方が不貞を働いているケースもあるのではございませんか?」
「なるほど。女性の調査員も必要だな」
「わたし、やってみたいですわ」
少しでもベネディクトの役に立ちたいエルミニアは真剣な顔で言った。
「駄目だ。君は今後いろいろ忙しくなるから」
「忙しく?」
「ああ、例えば……」
おや、お茶のお替りをお持ちしませんと、という体でクレトが席を外す。
「済まんな、こんな風情のない場所で」
「……いいえ」
頬を染めたエルミニアはベネディクトの腕の中にいた。
「本当に、デートする暇もないのだから」
「仕方ありません。大事なお仕事ですもの」
「しかし、そのうち公爵家を継げば更に仕事が増えてしまう」
「たまにはのんびりできるよう、調整しないといけませんわね」
「そうだな、たまにはのんびり……そうだ!」
何か物凄いひらめきがあったように、ベネディクトの顔が輝いた。
「後継ぎの座を弟に譲ろう。
伯爵位もいくつかある。私が文官として勤めるには、それで問題ないだろう。
エルミニアは公爵家と伯爵家、どっちに嫁ぎたい?」
「どちらでも。
貴方の隣にいられるのでしたら、どんな身分でもきっと幸せですわ」
いつの間にか戻って来たクレトは、心中でため息をつく。
『公爵家使用人のトップに立って、大勢をこき使うのが夢でしたが、他ならぬベネディクト様のお考えなら仕方ありませんね』