9. 王子の事情
室内には誰もいなくなったけれど、こちらに半身を傾けて、兄は小声で語り始める。
「ジュリアン殿下は、もうエイゼンに帰ることはないだろう。一時的な里帰りであってもね」
「えっ」
思わず声を上げてしまった私に向かって、兄は人差し指を立てると口元に当ててみせた。
「カリーナにも教えておくべきだったね。今から耳にすることは他言無用だ」
「はい」
私は神妙にうなずく。それを見て兄も首を前に倒した。
そしてもったいぶるように、ゆっくりと口を開く。
「エイゼンは先日、第一王子が立太子した」
「ええ」
それは知っている。王城内で行われた重臣たちが列席する会議にて報告された。
ジュリアン殿下がマッティアに入国する直前に知った話だ。
めでたく王太子が擁立し、それ以外の王子たちの去就を考えていく上で、なぜかジュリアン殿下は我が国に輿入れするということになったのだ。
「ここからは、表沙汰にはなっていない話だけれど」
「……はい」
「王太子になった第一王子は、すぐさま第二王子を幽閉した」
思いもよらぬ話を聞かされて、私の口はぽかんと開いてしまう。
しばらく固まったままでいたけれど、はっとして自分の手で自分の頬を軽く叩いた。
「幽閉? なぜです?」
「表向き、反乱の兆し有り、ということらしいけれど、どうだろうね」
兄は腕を組んで、ソファの背もたれに身を預ける。
「立太子したと同時に、今後の脅威となり得る罪もない第二王子を潰しに掛かったという、穿った見方もできるけれどね」
「そんな」
「なんの根拠もない、憶測だよ」
そう弁明して、兄は片方の口の端を上げる。
「根拠もないまま、さらに推考してみよう。そうすると各派閥は動き出すことが予想されるね。そこで、第七王子だ」
ジュリアン殿下はそこにいないけれど、兄はちらりと彼の部屋の方角へ視線を動かす。
「ジュリアン殿下は第七王子ということもあって、どちらの派閥にも与していない。幼い王子だし、あの性格だしね、完全な中立派だったんだ。王太子とも第二王子とも、どちらともそつなく付き合っていたと聞いている」
それはなんとなく、わかる気がする。
彼の性格は、我が国に来るずっと前から、きっと変わっていないのだ。
「第七王子を支援する貴族がまったくいないわけではなかったようだし、いたとしても、さして力があるわけでもない。けれど、ちょっと扱いに困ったのだろうね。だから彼だけは政略結婚による国外退去ということになった」
もしかしたら、あまりにもそつなく誰とでも相対していたために、どちらからも必要とも、不必要ともされなかったのかもしれない。
だから、生まれ育った国から追放された。
兄の言うように、もちろんこれは推測にしか過ぎない。
でももしそれが本当の話だったなら。
この政略結婚が決まったとき、ジュリアン殿下は、なにをどう感じていたのだろう。
◇
翌日、ジュリアン殿下は私の部屋を訪れてきた。
侍女が私を呼びに来たので部屋の外に出ると、彼はそこにマルセルを従えて立っていた。
「昨日、私を訪ねてくださったと聞きました」
殿下はそう言うと、にっこりと口を笑みの形にする。
「ありがとうございます。けれど、ちょうど寝入ってしまったところでして、お応えすることができなくて申し訳なく思います」
それから悲し気に眉尻を下げる。やはり芝居がかった表情だ。
「マルセルも起こしてくれればよかったのに」
冗談めいた口調で、そう続ける。
マルセルに視線を向けると、彼は小さく頭を下げた。
つまり、昨日、泣き声を聞かれたとは思っていないのか。いや、聞かれたと思っているけれど、押し切ろうとしているのか。
いずれにせよ、私は聞かなかったことにするしかない。
「いえ、突然訪問してしまったこちらの不手際です」
「申し訳ありません、そう仰っていただけると」
胸に手を当て、弱々しい笑みをこちらに向けてくる。
その笑顔は、なんだか痛々しいものに見えた。昨日、彼の泣き声を聞いたからか、兄の話を聞いたからかはわからない。
「なにかお話があったのでは?」
そう問われて、ハッとする。
「あ、ええ、……立ち話もなんですから」
私は開いた手のひらで、部屋の中を指し示した。
質素倹約を地で行く部屋に案内するのは気恥ずかしくはあるが、このままここで話をするのも変だろう。
しかしジュリアン殿下は、ひらひらと手を顔の前で振った。
「いえ、婚姻前に、女性の部屋にお邪魔するわけには」
なんと。そこまで気配りできるとは。
本当に十歳とは思えない。
「いえ、その……それはお気になさらず。その……婚約者ですし……」
十七歳の私のほうが、しどろもどろだ。
「いいえ、そういうわけにはいきません」
そして、きっぱりと固辞されてしまった。これ以上勧めるとまた無神経と思われるかもしれない、と私は自室を差した手を引っ込める。
それからジュリアン殿下の真正面に向き直ると、私は口を開いた。
「では、あの」
「はい」
好きなものはなんですか、行きたい場所などありませんか、といろいろと頭の中で質問を思い浮かべたけれど、どれもこれも違う気がした。
だから私はこう続ける。
「実は、ジュリアン殿下のことを知りたいと思っているのです」
つまるところ、知りたいのはそれなのだ。
私は、目の前のこの少年がなにを考え、どうすれば喜んでくれるのか、それが知りたいのだ。
「……私のこと?」
殿下は私の発言に小首を傾げる。
「私は、あなたと家族になるのですから」
「家族」
その言葉をおうむ返しにすると、ジュリアン殿下はこちらを見上げて、何度も目を瞬かせた。そしてじっと私の顔を見つめている。
なにかおかしなことを言っただろうか。もしかしたら不躾だったかもしれない。
「あ、いえ、言いたくないこともあるでしょうから、もちろん無理に聞き出すなんてことはしませんので、ご安心を」
「あ、はい」
「けれど、これからたくさん交流できればと思っております」
そう声を掛けたあと、ジュリアン殿下の反応を見ようとしたけれど、少しうつむいてしまったので表情はよく見えなかった。
そのとき私は、二人の身長差は、見つめ合うには少々不便なこともあるのだな、などと埒もないことを考えてしまったのだった。