8. 王女と兄
廊下を二人で無言のままで歩き続ける。
ラーシュの言う通り、私はとても「大人」とは言えない人間だ。
やはり王女として育ったから、どこか甘やかされているのかもしれない。
いや、それは言い訳だ。兄だって、弟のエリオットだって、王子として育っているけれど、無神経だと感じたことはない。
さらに言えば、ジュリアン殿下もだ。
彼は大国エイゼンの王子に生まれながら、繊細に心配りをしているように思う。
やはり私自身の資質の問題だ。
私は隣を見上げて口を開く。
「ラーシュ、ありがとう」
「なんの礼ですか」
彼は小首を傾げてそう答える。
「危うく暴走するところだった。ラーシュが止めてくれて助かったな」
「それはどういたしまして」
小さく笑いながら返された。
思えば、幼いころから彼はたびたび私を諫めてくれていたように思う。
それなのに、私は成長できていない。
「やっぱり私は無神経だな……」
「でもね、姫さま」
先ほどとは打って変わり、ラーシュは柔らかな声音で語り掛けてくる。
「姫さまの無神経さに救われることもあるんですよ。だからそのままでいいです」
「なんだそれは」
「まあ、それはそのうち」
「そうか」
ラーシュがそのうちと言うからには、今はそのときではない、ということなのだろう。だから私は短くそう返しただけだった。
そうしてまた黙々と歩いていると。
「あ、コンラード殿下」
ぼそりとラーシュがその名を口にした。
前方に目をやると、兄が廊下の向こうにいるのが見えた。
私は軽く早足で近づくと、声を掛ける。
「兄上」
「やあ」
私たちに気付いた兄が片手を上げた。そして問うてくる。
「ここを歩いていたということは、ジュリアン殿下のところにでも行ったかな?」
「え、ええ」
さすがに先ほどのことを兄に報告するのは違うだろう。
どう言い繕おうかと思っていると、兄は口元に笑みを描き、手を開いて自分の部屋の方角を差した。
「少し、お茶でもしていかないか? 久しぶりに。私も、これから嫁ぐ妹と結婚前に積もる話もしてみたいしね」
そう言われては、断るわけにもいかない。
「はい、ではお邪魔します」
私の答えに、兄は笑みを返してきた。
◇
兄の部屋に通され、来客用のソファに向かい合って腰掛けた。
私の部屋は質素倹約を地で行く部屋だけれど、兄の部屋は王太子ということもあり、頻繁に迎える客人を想定して、家具や装飾品に華やいだ雰囲気がある。
侍女も侍従も最初から室内に控えていて、兄の行動に合わせてすぐさま動くのだ。
そうして私の前に、紅茶の入ったカップが置かれると同時に、兄が口を開く。
「元気がないようだけれど」
「えっ」
「ジュリアン殿下となにかあったかな?」
「いえ、特に……」
鋭い。
私は感情があまり顔に出ない質だから、そのあたりのことを読み取れる人間はなかなかいないのだが。
兄にはいつでも、私の心の中など丸見えなのだ。
私の座るソファの後ろで控えているラーシュが、小さく息を吐いたのが聞こえた。
要らぬことは発言しないほうがいいですよ、とでも思っているのだろう。
「実は、殿下とお話しようかと思っていたのですが、お休み中だったようで少々残念に思っておりました」
これは、嘘ではない。
「なるほど? お話とは?」
「国内を案内して差し上げたいので、なにか希望はあるかと思いまして訊きに行ったのです」
「そうか。けれどジュリアン殿下にとっては、どんなところでも新鮮なのではないかな」
ラーシュと同じことを言う。
「そうも思ったのですが、好みなどがわかればと考えまして」
「けれど休憩中だった、と。会話を拒否されたわけではないのだね?」
こちらを覗き込むようにして、そう尋ねてくる。
「拒否?」
その心配は、ほとんどしていなかった。ジュリアン殿下は、そういうことをしそうにない気もしていたし。
私が目を何度か瞬かせていると、兄は苦笑して続ける。
「入国したときに少々揉めたけれど、そのことについては?」
「はい、それはあのあとすぐに謝罪をいただきましたし、もう問題はないと思います」
「そうか、それはよかった」
兄は満足げにうなずいた。
なるほど、その揉め事がまだ続いているのではないかと心配したのか。
それからソファに身を埋めた兄は足を組み、続けて軽い口調で私に問うてくる。
「どうだい? これからジュリアン殿下と結婚するわけだけれど、上手くやっていけそうかい?」
「上手く……」
やはりこれは政略結婚なわけだから、国交を考えれば、もちろん上手く付き合っていかなければならないのだろう。
しかしジュリアン殿下はともかくとして、私は無神経であることがついさっき露呈したばかりだ。
つい弱音を吐いてしまう。
「もちろん努力はするつもりです。それに、ジュリアン殿下は心配りのできる方かと思いますし」
「うん」
「でも私のほうが……殿下を支えてあげられるかどうか……」
思わず、肩が落ちてしまう。
「なにかして差し上げたいとは思っているのですが」
「それで、希望があるかと訊きに行った?」
「その通りです」
私は兄の言葉に首肯する。それに彼は笑みを返してきた。
「うん、その心がけは良いことだと思うよ。もちろんすぐになにもかも上手くいくなんてことはないだろうけれど、カリーナのしようとしていることは、間違っているわけではない」
そう賛同されて、ほっと胸を撫で下ろす。
「兄上は、ジュリアン殿下の趣味嗜好についてなにかご存じですか」
もしかしたら王太子である兄には、そういう情報が届いていないかと訊いてみたのだが。
「いや、そこまでは。私もまだ深く会話はしていないからね」
「そう、ですか」
あっさりと否定されてしまう。
けれど焦っても仕方ない。また機会があれば質問してみればいいのだし、と私は気を取り直す。
「あまり気負い過ぎないことだよ」
兄はそう慰めの言葉をくれ、そして続けた。
「それにジュリアン殿下は我が国に来られたばかりで、新しいことを知りたいというよりも、まだ望郷の念を募らせておられるのではないかな。そっとしておくのもいいかもしれないよ」
柔らかな声音は、ジュリアン殿下を気遣うようでもあった。
兄からすれば、彼が一人で泣いていることなどお見通しなのかもしれない。
だから思わず、訊いてしまった。
「あの、兄上。たとえば、ジュリアン殿下が里帰りをするのは可能でしょうか」
「里帰り?」
「はい」
「ずいぶん尚早だね?」
「あ、いえ、今すぐという話ではなくて……」
小首を傾げて返された言葉に、慌てて手を振って弁解する。
これはちょっと突っ込みすぎたかもしれない。
しかし兄は特に動揺することなく、口を開いた。
「それはね、おそらく……」
しかし、そこまで口にして、兄は前のめりだった身体を起こした。
「皆、退室してもらえるかな?」
その指示を聞いた控えていた侍女や侍従たちが、一礼して部屋を出て行く。
彼らを見送った兄は顔を上げて、私の後ろに向かって微笑んだ。
「ラーシュ、君もだよ。退室してくれるね?」
笑顔でそう言われ、ラーシュはちらりと私に視線を寄こした。私が軽くうなずくと、ラーシュは頭を下げ、「コンラード殿下の仰せならば」と踵を返す。
そうして部屋から誰もいなくなってから。
「さて、内緒話を始めようか」
兄はそう、密やかに言葉を舌に乗せた。