7. 王子の部屋から
エイゼンの者たちが去ってしまったあと。
城の中はバタバタと騒がしかった。
もちろん短期間だったし、彼らが残していったものもほとんどないが、侍女や侍従たちは城内を完全に元に戻すために走り回っている。
私はそこにいると邪魔な気がして、図書室で地図とにらめっこしながら、ジュリアン殿下を案内する場所を考えていた。
やはり、このマッティアに慣れていただくことが最優先だと思ったからだ。どこかを紹介して差し上げたい。
そしてできれば、良い印象を持ってもらいたい。
「と言っても、なにがいいのだろうな」
渓谷だらけの我が国には、ジュリアン殿下が喜ぶ場所があるだろうか。
城下に下りて、マッティアの中では良い店などに行っても、エイゼンの栄華を尽くしたようなところとは比べものにならないかもしれない。
却って、やっぱりこんなところは嫌だと思われては、こちらとしても辛い。
「どこでもいいんじゃないですか?」
私が本を繰っているのを見ていたラーシュは、面倒そうにそう声を掛けてくる。
「どこでもというわけにはいかないだろう」
「どんな場所だってエイゼンの王子さまにとっては、新鮮だと思いますよ」
「そうかもしれないが」
「それに」
「それに?」
「あの王子さまなら、どこだって『いいところですね』って褒めますよ」
ラーシュは、両の手のひらを上に向けて肩をすくめる。
多少、皮肉めいた言葉だった。
確かにそんなことを言いそうな気がする。ジュリアン殿下は、いついかなるときでも、とにかく波風を立てないようにと立ちまわっているように見えるのだ。
それはもちろん、王子という立場の人間としては良い心掛けではあるのだと思う。それに、マッティアに入国したばかりで自由気ままに振る舞えというのも無理があるだろう。
けれど彼はこれからの人生を、ずっとこの国で過ごすのだ。しかも私の夫として。
少しずつでも、彼の趣味趣向や、得手不得手や、その考え方というものを知っていきたい。
ジュリアン殿下を手助けするべき立場の私としては、そのほうがありがたくもある。
「取っ掛かりとして、なんでもいいから、好きなものとか知りたいのだが」
政略結婚をするとなったときに、エイゼン側から釣書のようなものは受け取った。
けれど、生まれ年だとか亡くなった母親の名前だとか血筋だとか、そんなものしか書かれていなかった。
今の私が知りたいのは、そういうものではないのだ。
「じゃあ訊けばいいんじゃないですか」
ラーシュがそうおざなりに提案してくる。
「そうだな。本人に訊きに行こう」
善は急げと、私は席から立ちあがった。
◇
「まさか本当に訊きに行くと言い出すとは」
私に付き従って歩きながら、ラーシュがブツブツと零している。
「え? 本当にってどういうことだ」
「別に」
ラーシュは短くそう答えると、口を噤む。
そんな彼の態度を怪訝に思いながらもジュリアン殿下の部屋に向かっていると。
その手前で、マルセルが水差しを乗せたトレイを持ってウロウロしているのが目に入った。
殿下の部屋の前から少し離れたところにいるが、だからといってどこかに行こうとしているわけでもない。
どう考えても、手に持った水差しを部屋の中に置きたいのだが、扉を開けられないという感じがする。
私はそちらに向かって足を進めながら問い掛ける。
「開けようか?」
私の声が耳に入ったマルセルは、はっとしたように顔を上げると、ジュリアン殿下の部屋の扉と私たちを見比べたあと、こちらに身体を向けた。
「いえ、大丈夫です。王女殿下にそんなことはさせられませんし、別に片手でも開けられますし」
マルセルは慌てたように、けれど小声で言い募った。
そして彼はこちらを向いたまま、じりじりとジュリアン殿下の部屋のほうに後ずさっていく。
なんだろう、様子がおかしい。
首を捻りながらも私は続けた。
「実は、ジュリアン殿下とお話させていただきたいのだが、いらっしゃるだろうか」
「あっ、今は……」
マルセルはそう言い淀む。
そもそも、入国されたばかりのジュリアン殿下には行くところはないはずだし、勝手に城を出ることもできないので、一応訊いてみただけだった。
それにマルセルがここにいるということは、部屋の中にいるはずだ。
しかし都合が悪いということは。
「もしや、お休みになっておられる?」
そう尋ねると、マルセルは安堵したように、こくこくとうなずいた。
なるほど。だから小声なのか。
「ええ、お疲れのご様子でしたので」
「そうか。では出直そう」
私も小声で応えると、マルセルは安心したように身体の力を抜いた。
「差し出がましいかもしれないが」
「はっ、はい」
しかし立ち去ることなく続けると、彼の肩が跳ねた。
「誰か侍女にでも頼むといい」
私は水差しを指さすと、そう提案した。
「あっ、はい」
「マルセル殿もお疲れだろう。殿下がお休みならば、マルセル殿も一緒に休んではどうだろうか。心配なら衛兵を呼べばいい」
「あ、ああ……いえ、大丈夫です。どうぞお気遣いなく」
硬い声音でそう返してくる。
どうも先ほどから様子がおかしい。
エイゼンの者たちは帰っていった。だからジュリアン殿下のお世話には、こちらの侍女や侍従が割り振られたはずなのだ。
だからマルセルが水差しの用意をすることもない。誰かに言付ければいい。
もしや、マッティア側の人間が信用できないのだろうか。
「念のため訊いてみるのだが」
「な、なんでしょうか」
「なにか不都合があっただろうか」
「いえ、そんなことは」
ふるふると首を横に振る。
けれどその否定を、無条件に信じることはできなかった。
「不都合があれば、遠慮なく言ってほしい。我々としては歓迎してはいるのだが、やはりエイゼンは大国であるから、マッティアでは暮らしにくいと感じられることも多々あろうかと思う。指摘していただければ、善処する」
「いや、本当に」
マルセルは頑なに固辞してくる。
すると私の背後から、小さなため息が聞こえた。
「姫さま、こう言ってるんですから、ここは引きましょうよ」
ラーシュは私にそう声を掛けてくる。
「え? でも」
「俺の目からは、姫さまが無理強いしているように見えます」
「そうか……」
そんなつもりはなかったのだが、ラーシュが言うならそうなのだろう。
ではまた別の機会にでも改めて、と考えたところで。
部屋の中から、なにかが聞こえた。
三人ともが、そちらに視線を向ける。
マルセルが焦ったように、笑みを顔に貼り付けると口を開いた。
「ええ、おかげさまで快適に過ごされているかと思います。なにかあれば、またお願いさせていただければ」
「しかし」
聞こえてくるのは、泣き声だ。
これは放っておけない。
私は数歩前に進むと扉の前に立ち、ゆるく握った右手を上に上げた。
と同時に、マルセルがぎょっとしたような顔をしたのが見え、次の瞬間にはラーシュが私の右手首を握っていた。
「姫さま」
「……なんだ」
ラーシュは私の手首を握ったまま、ずるずると引きずるようにして、廊下の端のほうに歩いて行く。手首をがっちり握られているので、私も仕方なくそれについていく。
そしてなぜかマルセルまで心配そうについてきた。
立ち止まると、ラーシュは密やかな声で私に問うた。
「姫さまは今、なにをしようとしてました?」
そして握ったままの手首に、視線を落としてくる。
「え? ノックしようとしていたが」
それ以外になにがあるというのだ。
「なぜ」
「お慰めして差し上げようかと」
私の答えに、二人は同時に長く深いため息をついた。
なんだなんだ。
ラーシュはそっと握っていた手を放すと、口を開く。
「どうしてそんなことを」
「遠く離れた国に来られたのだ。寂しいのではないだろうか」
「いやまあ、そうなんでしょうけど」
「だったら、大人が慰めるものではないのか」
「俺からすると、姫さまが大人とは思えないんですけどね」
思いっきり眉根を寄せて、腰に手を当ててラーシュがそうごちる。私の騎士のくせに失礼な。
「しかし、泣いておられるのは事実だ。やはり誰かが」
「姫さま、ああして隠れて泣いておられるのですから、涙など見せたくないということなんですよ」
ラーシュのその言葉に、マルセルも小さくうなずいている。
どうやらこの場では、私の考えは少数意見らしい。
「……そうか?」
「そうですよ。姫さまは無神経です」
マルセルが驚いたように口の中で「いや無神経とまでは」とつぶやいている。
しかしラーシュはまるで気にすることなく、続けた。
「特に姫さまの前でなんてありえないです」
ありえない、とはなかなか強い言葉だ。私は驚いてしまう。お慰めするべきではないとしても、決して悪意からくる行動ではない。
ということは、私になにか問題があるのだろうか。
「なぜだ?」
「そりゃ、妻になる女性の前で弱いところなんて見せたくないでしょう」
「妻?」
「でしょう?」
言われて、顎に手を当てて考えてみる。
確かに、妻になるわけだが。どうにもその言葉に現実感が湧かない。
「ちょっとまだ呑み込めないのだが、そうなのだろうか」
「男っていうものは、そういうものなんですよ。学習してください」
ラーシュの発言はもっともなことなのだろう。
けれど、さっきからやり込められているので、ついつい反論してしまう。
「子どもだと言ったくせに」
「言いましたけど、やっぱり男なんですよ。男気あるじゃないですか」
「そうか……」
どうやら私がしようとしたことは、余計なお世話というものだったらしい。
しょんぼりとうなだれていると、マルセルが慌てて口を挟んでくる。
「申し訳ありません。私がはっきり言えば良かったのです。殿下が一人になりたいと仰ったので、侍女の方々には引いていただいたのです」
「……なるほど」
では、まるきりの見当違いだったということだ。
これは無神経と思われても仕方ない。
「……申し訳なかった」
「いえ、お気遣いには感謝します」
マルセルはそう礼を述べて、今度は柔らかな笑みを口元に浮かべた。
よく考えれば、慰める相手が必要ならば、私ではなくマルセルが適任のはずだ。
本当に、見当違いも甚だしい。
「では、失礼しよう」
そうして二人で並んでそっと立ち去るときに、また細く、少年の泣き声が耳に届いた。