36. 王女の本心
ジュリアンは目を瞬かせて、なにも言わずにこちらを見つめている。
「す、すまない。こんな夜更けに。その……本当はお茶会に誘おうと思っていたのだが、気が付いたらこんな時間になってしまって、えと」
なぜか私は言葉を詰まらせながら、言い訳ばかりをズラズラと並べてしまった。
すると小さく噴き出したジュリアンは、ソファを手のひらで指した。
「どうぞ、座ってください」
「就寝……するところだったか?」
部屋の中はランプが灯っていたし、それまで彼はソファに腰掛けていたが、寝衣を身に着けている。
「いえ、眠れませんし。それに、馬車の中は暇ですから、眠くなれば移動中に寝ますよ」
「あ……そう、か」
移動の馬車の中。エイゼンに帰国するための。
なんだか息をするのが苦しくなって、私は胸に手を当てて、息を深く吸い込む。
そうして、うながされるまま三人掛けのソファに腰を落とした。
するとジュリアンは、なぜか私の隣にやってくる。
「なんっ」
なんで。目の前に、一人掛けのソファが、テーブルを挟んで二台あるのに。
身体を引く私に向かって、ジュリアンは人差し指を口元に当てると、小さな声で語り掛けてきた。
「もう夜も遅いですから。大きな声を出さないように、隣に来ました」
「あ、ああ、なるほど」
確かにテーブルを間に置くと、ある程度の音量が出るだろう。
そういうことなら、と私は姿勢を正して座り直す。
「その……少し、話をしておきたくて。迷惑じゃないか?」
すると彼は、ふるふると首を横に振った。
「いいえ、来てくれてよかったです。昨日のお茶会には参加してくださいませんでしたし」
多少、皮肉めいた口調だった。
だから私は慌てて弁解をしてしまう。
「あ、いや、それはちょうど、マティルダに会ったから」
「ええ、マティルダ嬢にもエリオット殿下にも会いたかったので、それはとても嬉しかったんですけど、カリーナは立ち去ってしまうから」
しょんぼり、といった感じで、ジュリアンは肩を落とした。
「友人たちだけのほうがいいかと思ったんだが」
「そうかもしれませんけど、もしかしたら、私と話をしたくないのかと思って」
そうしてこちらを見上げてくる。
「避けられているような気がして、あまり無理強いするのもよくないかと思っていました」
だから、再度のお誘いもなかったし、昼食も夕食も遠慮したのだ。
ここまで来て、言い訳するのも変な話だろう。
「実は、なにを話していいのかわからなくて、逃げ回っていた」
「なるほど? けれどやってきたということは、なにか話がある?」
そう疑問を口にして、小首を傾げてくる。
さきほどから芝居がかっている感じがするのは、気のせいなのか。どうにも誘導されているような気がして仕方ない。
「でも、先にお茶会に誘ってくれたのはジュリアンでは」
「そうですよ」
「だったらジュリアンこそ、なにか言いたいことが、あるのでは」
主導権を握られてはたまらない、と私はそう話を振る。
すると彼はわざとらしく顎に手を当てて、うーんと考え込んだ。
なんだなんだ。
「でも、こちらが話をする前に、カリーナは逃げてしまったんですよね?」
「まあ……そうなるか」
「でしたらやっぱり、カリーナから話をするのが筋だと思いますよ?」
そう返してきて、にっこりと笑う。最初の頃のような笑顔だ。
これはひょっとすると、怒っているのではないだろうか。
実際のところ、怒られるようなことをしでかしたわけだし、ここは折れるべきかもしれない。
「ええと……」
「はい」
私が口を開くと、ジュリアンはこちらをじっと見つめてくる。
私は一度、大きく息を吸い込むと、話し始めた。
「いや……。やっぱり最後に、きちんとお別れをしないといけないと思ったんだ」
「お別れ」
そうおうむ返しにすると、ジュリアンはパッと俯いて黙り込む。
「明日は、いつ出立するのだろうか」
「……早朝から、とは言われています」
やっぱり。
本当に、なにも伝えられないまま、お別れになってしまう可能性もあったのだ。
良かった。最後に会えて、本当に良かった。
「今まで、ありがとう」
そう礼を述べるが、ジュリアンは下を向いたまま、なにも答えない。
「本当に楽しかった。出会えてよかったと思う」
やはり沈黙は続く。苦しいけれど、言わなければ。後悔のないように。
「エイゼンでも、元気で。どうか、幸せに」
私のことは忘れてもいい。彼が母国で幸せに暮らせるのならば。その願いを込めて、言葉を紡ぐ。
しかし返ってきたのは、ぼそりとした、冷えた声だった。
「……本当に?」
「え?」
「本当に、エイゼンに帰って、私が幸せになれると思いますか?」
その問いに、私はグッと詰まる。
返事に躊躇している私に向かって、ジュリアンはパッと顔を上げた。その瞳には光るものが浮かんでいた。
心臓が、痛い。
「……エイゼンでも幸せになって欲しいと、願っている」
心とは裏腹な言葉を舌に乗せると、ジュリアンはこちらに身を乗り出してきた。
「私は、そんな言葉を聞きたいんじゃない!」
大声を出さないように、と言ったのに、彼は耳が痛くなるほどの声で訴えてきた。
「なんでそんなことを言うんだ、なんで!」
エイゼンに帰って、それで幸せになれるかと問われると、すぐにうなずくことはできない。
いつも彼は、都合よく振り回されている。マッティアにやってきたときも、そして帰国する今も。
この国にやってきてすぐの頃、彼は常に笑顔を顔に貼り付かせていた。なにごともそつなくこなしていたし、誰とでも上手く付き合っていた。
なぜかと言えば、かの国ではそうでないと生きられなかったからだ。
十歳という年齢に見合う生き方ができなかったからだ。
きっと彼は、この国でずっと暮らしたほうが幸せだっただろう。
けれど私では、彼を今のこの状況から救い出すことはできない。悲しいくらいに、私は無力だ。
「カリーナ、お願いだから、ちゃんと本心を聞かせてほしい」
縋るような目と声で、そう訴えてくる。
「本当に、このままお別れしてもいいと思う? もう婚約者でなくなってもいいと?」
よくない。そんなことは、まったく望んでいない。
けれど今の私に、なにを語ることができるだろう。私にはなにもできないと、つい二日前に思い知ったばかりだ。
伝えたい、とは思った。けれど今、私の気持ちは、『伝えたくても伝えられない想い』ではないのか。
無責任なことは、言えない。
「……エイゼンに戻ったら、きっと素敵なご令嬢もたくさんいることだろう」
ああ、本当だ。よくわかった。
「……カリーナはそれでいいと?」
「それは、もちろん。だって私たちは、元々、年が離れすぎていたから」
人は、本当の気持ちを言えなくて、嘘をついてしまうときがあるのだ。
「結婚相手としてはどうかと、前々から疑問に思っていた」
私の声は、みっともなく震えていたし、強張ってもいた。
それから、痛いほどの静寂がやってくる。
いたたまれない。やっぱり来るべきではなかったのではないか。きっと無駄に傷つけてしまっている。
膝の上で拳を握って、早くこの時間が終わってくれないかと願っていると、ちいさなため息が聞こえてきた。
それからボソボソと問い掛けてくる。
「それが、カリーナの本心なんですね?」
「実は、そうなんだ」
「こんなに年下の男の子なんて、そりゃあ嫌ですよね。なのに嫌々付き合わせてしまって……」
消え入りそうな声を出され、これは傷つけ過ぎたのでは、と慌てて言い繕う。
「え、嫌々、じゃない。本当に」
けれど彼は俯いて、床に視線を落としたままだ。
「さきほどの楽しかったというのも、嘘だったんだ……」
「い、いや、そこは嘘じゃない」
「そこは? じゃあどこが嘘なんですか」
「いや、その……」
どうして上手く言えないのだろう。ちゃんと終わらせられないのだろう。
私がそうして頭の中でいろんな言葉を取捨選択しながら、口を開けたり閉じたりしていると。
ふと、小さな笑い声が聞こえてきた。
「え……」
「残念だけれど、カリーナは嘘をつき慣れていないから、わかりやすいんだ」
泣き笑いの表情で、彼はそう返してきた。そして続ける。
「誰も聞いていない。だから、今度こそ、本心を聞かせて」
どうやら見透かされているらしい。やっぱり彼は、幼い男の子なんかじゃない。
けれど本当に、これを口にしてもいいのか。
伝えたい。それは間違いない。
けれどそれは、彼にとって、重荷になることではないのか。
本当に私の想いを伝えてもいいのか。
その判断ができなくて、私は膝の上でぎゅっと手を握る。
その手に、小さな手が乗せられた。
このわずかな期間に、多少、硬くなってきた手が。
「カリーナ」
呼び掛けられて、顔を上げる。
「言って」
その声に誘われるように、私の口は動き始める。
「私……」
「うん」
「私は、ジュリアンに」
「うん」
「初めての、恋をしました」




