35. 王子を訪問
翌朝、朝食の席ででも時間を空けてもらえるように交渉しよう、と思っていたのだが、私は食堂に行けなかった。
「うわっ、なんですか、その顔」
迎えに来たラーシュが、私が扉を開けるなりそう驚いた声を上げて、サッと身を引いたのだ。
「目が……痛い」
私はそう零すと、右の手のひらで目を押さえた。
「泣き過ぎましたね」
「こんなことになるのか……」
ため息交じりにそう落胆すると、ラーシュは苦笑しながら返してきた。
「侍女の方でも呼びますか。化粧でどうにか……」
「嫌だ」
「なんで」
「恥ずかしい」
私の返事を聞くと、ラーシュは思いっきり眉根を寄せた。
「なにが」
「泣き過ぎたとか、さすがに他の人間に知られたくない」
「そんなこと言ってる場合ですか。明日には出立ですよ」
「それに、化粧でどこまでごまかせるかも、わからないし」
「めんどくさ」
「なにか言ったか?」
「いーえー、なんにも」
空々しい返しをするラーシュを睨みつけるが、この顔では迫力もないらしい。特に堪えた様子もなく、あっけらかんと訊いてくる。
「それで? どうするんです」
「昼食までにはなんとかする……」
と答えてしまったので、なんとかしようと濡らした手拭いを当てて大人しくしていたら、どうにか見れる顔になった。
なので緊張しながら昼食の席に着いたのだが、なんとジュリアンは来なかった。
「昼食はバイエ侯爵と取るそうだよ」
呆然としていると、兄がそう教えてくれた。
「そ、そうですか」
「姉上、やっぱりお茶会は二人のほうが良かったんじゃないですか?」
心配そうにエリオットが尋ねてくる。
「い、いや、大丈夫だ」
私は慌てて胸の前で手を振った。
これはいけない。マティルダやエリオットに気にするなと言ったからには、気にさせないようにしないといけない。
私は動揺が伝わらないようにとなんとか平静を装う。そして昼食が終わると、その足でジュリアンの部屋に向かった。
しかしちょうど荷物の搬出を行っていたらしく、遠目にも部屋の前がごった返していたのが見えて、私はくるりと身を翻す。
「姫さま?」
「これはちょっと……後にしよう」
スタスタと歩きながらそう言うと、ラーシュは呆れたように返してくる。
「ちょっと時間が空くかどうか訊けばいいだけの話じゃないですか」
「いやでも、今はご迷惑だろう」
「まあ……そうかもしれませんけど」
ところがジュリアンは、夕食の席にも着かなかった。
蒼白になる私を見て、ラーシュは半目で呆れ顔だ。
「ほらあ」
「うるさい」
「ほらあー!」
「う、うるさいぞ」
なんだかんだで逃げ回っていたツケが回ってきた私を、ラーシュは容赦なく非難してくる。
私はコソコソと逃げるように自室に入り、書き物机の前に座ってため息をつく。
ジュリアンは明日には出立する。しかし明日のいつ頃なのだろう。
長旅になるのだから、明るいうちに動けるようにと、早朝から出る可能性は高い。
すると、もう今晩しかないと考えないといけない。
これはもう、押しかけるしかないのではないか。
というか、元々、昨日のお茶会に誘ってくれたのはジュリアンのほうだ。そこから再度の誘いがないということは、彼は呆れかえってしまって、もういい、と思っているのではないのか。
だとしたら、本当に迷惑でしかない、ということで……。
と、そこまで頭の中でぐるぐると考えたところで。
『絶対、後悔しますよ』というラーシュの言葉が蘇った。
それは、嫌だ。
後悔は、したくない。
もし迷惑がられたら、そのときは引こう。
そう決心すると、私は立ち上がり、部屋の扉のノブに手を掛ける。
こっそりと開けて外を覗くと、少し離れたところにラーシュが壁にもたれかかって立っていた。
しかし、こちらはまったく見ていない。音は聞こえたはずなのに、振り返ろうともしていない。
「い、行ってくる」
ぼそりとそう宣言すると、やっぱりこちらは見ないまま、ひらひらと手を振った。これは一応、見ないふりというものかもしれない。
私はギクシャクした足取りで、ジュリアンの部屋に向かって、歩き出した。
◇
さすがにもう夜も更けていたので、ジュリアンの部屋の前は静かになっていた。
ここに来るまでに侍女や衛兵と何度かすれ違ったが、特になにも思われなかったのか会釈を受けるだけで、なんの障害もなくたどり着いた。
静かな部屋の前で、ウロウロとうろついてみる。
何度かノックをしようと腕を上げたが、どうにも勇気が出せなくて、また腕を下ろしてしまう。
そういえば、ノックをしようとしたのを、止められたことがあったのだっけ。
しなければならないところでせずに、してはならないところでする。
情けないにも程がある、とため息をついて、意を決して扉を叩いた。
しばらく黙って突っ立っていると、中から人の気配がして、思わず一歩、後ずさる。
「なんでございましょう」
くぐもったマルセルの声がする。
「あの、遅くにすまない。えと、ジュリアンに取り次ぎしてもらえるだろうか」
しどろもどろになりながら伝えると、扉が開いて、マルセルが顔を覗かせる。
「カリーナ殿下」
「あ、あの」
ここまで来ていながら、ふと、本当に良かったのだろうか、という不安が湧いてくる。
これはもしかしたら、一番ありえないことをしてしまったのではないのか。こんな夜更けに男性の部屋を訪ねるなんて。
以前、ジュリアンは私の部屋に入るのを固辞した。婚姻前に女性の部屋には入れない、と。
なのに私ときたら、自分からやってきてしまった。しかももう、婚約者でもなんでもないのに。
次の言葉が発せない私をしばらく見つめていたマルセルは、柔らかな笑みを浮かべると、大きく扉を開いた。
「どうぞ、お入りください。私は外で控えておりますので」
「えっ」
「お待ちしておりました」
「えっ」
マルセルは廊下に出てくると、部屋の中を、開いた手で指す。
そのままずっとその体勢でいるので、私はおずおずと中に足を踏み入れた。
「カリーナ」
中にいたジュリアンが、ソファから立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。
それを見届けたマルセルは一礼すると、静かに扉を閉めた。