34. 王女の気持ち
自室の扉の前で振り返ると、私はラーシュに声を掛ける。
「用があれば呼ぶから、休んでいいぞ」
私はとにかく、一人になりたかった。
膝を抱えて、ただ嵐が通り過ぎるのを待ちたかった。
なにもできない自分を呪いながら、けれど仕方のないことなんだと、自分に言い訳したかった。
そんな私をラーシュはじっと見つめている。
なにもかも見透かしているような目が、初めて、怖いと思った。
「じゃあ」
「姫さま」
だが彼は鋭い声で呼び止めてくる。私は諦めて、そちらに振り返った。
「なんだ?」
「姫さまは、最初は八歳も年下の婚約者に、驚いたって言っていましたよね。マティルダ嬢に」
「あ、ああ」
「今回のことで、結局、元に戻ることになったんですよね」
「……ああ」
「つまり、もう年の離れた幼い男の子と、結婚しなくてもよくなったってことでしょ」
「そう……だな」
けれど一緒に過ごすうち、次第に気にならなくなっていった。
むしろ、本当にそんなに歳の差があるのかと疑問に思うほどになった。
彼の言動に、どぎまぎして振り回されて心臓があり得ない動きをしているような気分になった。
自分のほうが年上だなんて、信じられないくらいだ。
「じゃあどうして、そんなに泣きそうなんですか」
「泣きそう?」
「泣きそうです」
私は自分の頬に手を当てて滑らせる。
そうか、ずっと泣きそうな顔をしているのか。だから皆、私を憐れむように見つめるのか。
いつだって、なにを考えているのかわからない無表情と言われてきたのに、今は誰にでもわかるような、泣きそうな表情をしているのか。
私はいつの間に、変わってしまったのだろう。
そうだ、いつか思った。ジュリアンが私の世界を変えつつあるのではないかと。
私の世界は、とうに変わってしまっていたのだ。
私の心は、彼に近付きたいと願うようになった。
彼が笑うと私も嬉しくなった。
どんなときでも一緒に笑い合いたいと思うようになった。
いつまでも目を逸らしていても仕方ない。認めるしかないのだ。
きっとこれは、恋と呼ぶものなのだろう。
けれど今、それに気付いたところで何になるというのか。
むしろ、気付かないほうがよかったのではないのか。
どうして、始まってしまったのか。
きゅっと唇を引き結ぶ。本当に涙がまなじりから落ちそうになっている。それはいけない。それは、ダメだ。
「じゃあ」
私はくるりと身を翻すと、急いで自室のドアノブを回す。
早く一人にならなければ。
素早く室内に身を滑らせてドアを閉めようとしたが、それは叶わなかった。
ラーシュが腕を伸ばしてドアに手を掛け、閉めようとする私の邪魔をする。力勝負で敵うわけがない。
彼は黙ったまま一歩を踏み出し、戸惑う私ごと、入室してきた。
「なにを……!」
ラーシュはそのまま私を部屋の中に押し込むと、後ろ手にドアを閉める。
いくら騎士とはいえ、私の許可なしに私室に入るなど、許されることではない。
「なんのつもりだ、ラーシュ」
私はバクバクと鳴る心臓の音が聞かれないようにと、彼を睨みつけて、精一杯凄んだ声を出した。
しかしラーシュはまるで意に介していないかのように、軽い声で答える。
「襲おうと思って」
「……は?」
「俺、やろうと思えばいつでもできるし」
「ふざけるな」
「ふざけてませんけど」
表情から笑みを消し去って、そう返してくる。
彼は軽く腕を広げ、私に向かって一歩、足を動かす。
けれど私の身体は硬直してしまい、ただ彼のすることを眺めているしかできなかった。
次の瞬間には私の視界は彼の胸でいっぱいになってしまって、そのままそこに顔を押し付けられる。
ラーシュはぎゅっと私を抱く腕に力を込めてきた。たぶん、身をよじって逃げようとしても、そこから逃れることはできないのではないか。
それなのに、どこか優しいその抱擁のせいで、私の心から恐怖心は、風に流される雲のように取り除かれていった。
「ラーシュ?」
呼び掛けると彼は腕から力を抜き、身体を離して私の両肩に手を置くと、こちらを覗き込むように見つめてくる。
私はただ、瞬きを繰り返して、彼を見つめ返した。
すると、彼の唇が動き始める。
「……やっぱり」
「え?」
「こんなことされても、あんまり表情が動かないんですよ」
そう言って、パッと両手を身体の横で開いてみせた。
「姫さまの表情を変えるのは、ジュリアン殿下だけなんですよね。姫さまだって、これでわかったでしょ」
「言いたいことは……それだけか?」
「はい、そうですよ。だから本気にしないでくださいね」
おどけたようにそう返してくる。
違う。それは、嘘だ。
ようやくわかった。
私を包むように抱き締める腕が、私の頭を抱えるように押さえる大きな手が、私を抱きとめる厚い胸が、彼の心を叫んでいた。
私はどれだけ、この優しい騎士を傷つけてきたのだろう。
自分の都合の良い型に、嵌め続けてきたのだろう。
最低だ。私は本当に、無神経だ。
急に足に力が入らなくなって、私はその場に、ぺたりと座り込む。
「えっ」
ラーシュの戸惑う声が頭上に残される。
俯いて瞬きをすると、パタパタと床の上に水滴が落ちた。
「ううー……」
私はそのまま我慢することなく、嗚咽とともに涙を零す。
「あっ、す、すみません、姫さま。怖かったですよね、すみません。俺、つい、腹が立ってしまって」
あわあわとする声が聞こえてくる。
「怖いんじゃ……ない……」
「……じゃあ、なんです?」
「情けない……」
私はもしかしたら、この十八年間ずっと、見たいものしか見ていなかったのではないだろうか。
本質を、人の深い心を、見ようとしたことはあるのだろうか。
こんなに近くにいて、ずっと一緒にいて、なにひとつ理解していないのは、間違いなく私のせいだ。
蓋をしてきた自分の心から溢れ出てくる涙が止まらない。
「そんなに泣かないでくだ……あ、いや、泣いておきましょうか」
ラーシュは諦めたようなため息をつくと、そのまま床にあぐらをかいて座り込んだ。
そしてただ見守るために、そこにいることを決めたようだった。
「すみません……」
ぼそりとした謝罪の言葉に、私はブンブンと首を横に振る。
「姫さまが泣いてるの、初めて見ました」
私はなにも返すことができずに、しゃがみ込んだまま泣き続けた。
けれど思考はぐるぐると巡る。
ジュリアンだって、八歳も年上で、こんな無神経で、一人ではなにもできない女とは、結婚なんてしたくなかっただろう。
この国で楽しそうに過ごしていたし、友人だってできたけれど、母国に帰ればそれも良い思い出に変わっていくのだろう。
私だけが現実を受け入れられず、世界から取り残されていく。
そのことが、とてつもなく、悲しかった。
◇
ひとしきり泣いて、なんとか顔を上げると、ラーシュは私を見て噴き出した。
「ひどい顔」
「……そうか?」
慌てて袖口で頬を拭う。
ラーシュはごそごそとハンカチを取り出すと、それを広げて私の顔に押し付けた。
「ちょっ」
「はい、チーン」
子どもか。いや子どもだった。
なので私は遠慮なく、そのままハンカチを受け取ると、鼻をかんだ。
「うわっ、本当に……」
「洗って返す」
「いやまあ、いいんですけど」
私はハンカチを畳むと、座っている自分の横に置く。
そうして二人で床に座り込んで、しばらく黙っていると、ぽつりとラーシュが話し掛けてきた。
「すみません、なんか、頭に来ちゃって」
「いや、悪いのは私だ」
「いえ……」
「ラーシュ。……ありがとう」
私がそう口にすると、ラーシュはぼそりと返してくる。
「……なんに対する礼ですか」
「なんだろうな」
彼が口にしないなら、私も口にしないほうがいいのだろう。
そしてまた静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。
けれど黙っているのも耐えられなくて、私はもごもごと小声で沈黙を破る。
「その……、私は……」
「はい」
「ジュリアンとなにを話せばいいのかわからなくて……避けてしまった」
「そうなんでしょうね」
わかってますよ、とでも言いたげな声が返ってくる。
ラーシュは私を覗き込み、言い聞かせるような声を発する。
「あのね、姫さま。少なくともあの王子さまは、話をしようとしているんですよ。だから、聞いたほうがいいと思います」
「話……」
けれどそれは結局のところ、お別れの言葉なのではないか。
そう思うと、きゅっと胸が押さえつけられるような感覚がした。
わざわざ聞かなくてもいいのではないか、という弱い心が頭をもたげてくる。
そんな私を見透かしたのか、ラーシュはさらに念押ししてくる。
「きっと、伝えたいことがあるんですよ」
「伝えたい……」
「伝えられるっていうのは、幸せなことなんじゃないですか。伝えたくとも伝えられない想いだってあるんだから」
ラーシュは広げた足の上で手を組んで、親指を弄びながら、そんなことを言う。
「……ああ」
私の口からは弱々しい声しか出てこない。
彼は続ける。
「あと思ったのは、国に帰ればなんでもあるんだから、三日も待つ必要はない気がするんですよね。あのいけ好かない侯爵だって、ちゃんとケリをつけろって意味で、三日間をくれたんじゃないかな」
私はその言葉に、パッと顔を上げてしまった。
「まさか」
「さあ、本当のところはわかりません」
ラーシュは肩をすくめてそう答えた。
「とにかく、ちゃんと二人で話し合ったほうがいいと思います」
「そう……だな」
さんざん泣いたからなのかどうなのか、少しずつ頭の中が整理されてきたような気がする。
「話し合わないと……いけないな」
「そうですよ」
「でも、重荷になることを言ってしまいそうで、少し怖い」
往生際悪くそんな不安を口にすると、ラーシュは大きくため息をついた。
「別にいいじゃないですか、なに言ったって」
「でも」
訳もなく床に人差し指で、意味のない文字のようなものを繰り返し書いてしまう。
それを眺めていたラーシュは、頬杖をつくと、口を開いた。
「姫さま。俺は前々から言ってますけど」
「あ、ああ」
「そうやってなんでも呑み込む癖、やめたほうがいいと思います」
そう言うと、彼はニッと笑った。
◇
いずれにせよ、私はこの恋を、終わらせなければならない。
知らぬ間にとはいえ、始まってしまったのだから。




