32. 王女の激昂
ジュリアンは一礼したあと、こちらにはまったく振り返ることなく、マルセルを伴って退室していった。
謁見室にはザワザワとした喧騒が残ったが、父が立ち上がると、それも消えた。
「さきほど言ったように、このことは他言無用だ。早まった行動は慎むよう」
それだけ戒めるように告げると、父は背を向けて部屋を出て行く。母もそれに続いた。
「そりゃ……現実的には、そうかもしれないけど」
「でも、こんな下に見られたままで」
「悔しい……」
納得できない者たちの言葉がまた充満していく。
私はしばらくそれを聞いていたが、顔を上げると踵を返して駆け出し、父のあとを追った。ラーシュも黙って私に付いてくる。
ゆっくりと廊下を歩いていた父には、すぐに追いついた。
「父上」
「なんだ、カリーナ」
私の呼び掛けに、父は振り向く。特に驚いた様子はない。私が追ってくることは想定内だったようだ。
「言わせましたね」
私の非難の言葉に、父は小さく息を吐く。
父はジュリアンに選択させた。決断させた。そしてそれを言葉にさせた。
「我が国は、血気盛んな者が多いからな」
まるで子どもに言い聞かせるように、父は私に語り掛けてきた。
いや、まるで、ではない。聞き分けのない子どもに向かって喋っているのだ。
「バイエ侯爵を襲うなりなんなりして、勝手に戦い出す者もいるやもしれぬ」
「それは」
「ジュリアン殿下が帰国を望んでいると周知させる必要があるのだ」
そうなのだろう。だから父はわざと、皆がいる前でジュリアンに問うたのだ。
けれどそれは、間違っても誠実と言える対応ではない。
「選ばないと知っていて……」
「本当に戦えると思うのか?」
その質問を受けて、私は返事に窮する。
戦うことはできる。けれど勝利できるかと問われて、うなずくことはできない。
父は臆する私に向かって、続けた。
「カリーナ。今一度、問う」
一音一音、丁寧に紡ぐように。
「お前は、マッティアとエイゼンと、どちらが国力が上だと思う?」
この政略結婚の話を聞いたときと、まったく同じ問いを、父が口にする。
「……エイゼンです」
比べるまでもない。
「そういうことだ」
けれど私は、あのときと同じように「わかりました」と返すことはできなかった。
代わりに拳をぎゅっと握る。爪が自分の手に食い込んで、傷になったのがわかった。
「あの、態度を許すのですか」
「あの態度?」
「ジュリアン殿下の前でだけ、膝をつきました」
「あれも外交だよ、カリーナ」
腹を立てているような声ではない。言い訳をしているのでもない。
ただ、淡々と、落ち着いて事実を述べる声だった。
「それにしても、敵だらけの部屋の中で、帯剣している衛兵だっていて、あれだけ空気が殺気立っていたのに、よくも堂々と立っていられたものだ。胆力が半端ではないな」
「感心している場合ですか!」
私は思わず、声を荒げる。
この激情を、どこに持って行けばいいのかわからない。
「あんな……あんなものが、外交だと? あんなもの、認めるべきじゃない!」
「ではそうして癇癪を起こして、この事態がどうにかなるとでも思っているのか?」
父は、私への詰問を、決して緩めようとはしない。
そして私は、言い返す言葉を持っていなかった。
俯いて黙り込む私に、母が声を掛けてくる。
「カリーナ、言いたいことがあるのはわかります。けれど少し、落ち着く必要があると思うわ」
母まで、味方をしてくれない。私の中に、そんな子どもじみた甘ったれた感情が沸き上がる。
そのとき、足音がこちらに近付いているのが聞こえて、顔を上げる。兄だった。
「父上」
「ああ、コンラード。聞いたかね」
「もう訪問があるとは。早いですね」
「ああ、ここまで早いとは思わなかったな。甘かった」
つまり、この事態を父も兄も、そして驚いている様子もない母も、知っていたのだろう。
私だけ、なにも知らされていなかった。
父はこちらに振り返り、口を開く。
「話はそれだけだね?」
そう問うが、返事を待たずに父も母も立ち去っていく。
「カリーナ」
「兄上……」
兄は困ったように眉尻を下げて、私を見つめていた。
当然、兄も私に賛同はしないだろう、というのがわかって、私は口を噤む。
「謁見室の話については、聞いたよ」
「そう……ですか」
他言無用とはいえ、王太子である兄には報告がなされたらしい。
「けれど父上は、ジュリアン殿下がどうしてもと望むなら、その覚悟もあったよ」
「嘘だ」
私は間髪を入れずに否定する。
「まあ、そう思うのも無理はないし、信じろとは言えないかな」
苦笑交じりに兄はそう返してきた。
そして顎に手を当ててしばし考え込んだあと、ぽつりと零す。
「こうなることは予想できなかったわけでもないんだが、……間に合わなかったな」
ここのところ、ずっと忙しそうにしていた兄は、知らぬところで秘密裏に動いていたのかもしれない。
けれどなにも変わらなかったのだ。小国である我が国がいろいろと策を弄したところで、大国を動かすなど無理な話なのだ。
「カリーナが癇癪を起こすなんて、もうここ十年くらい見ていないな」
兄の声には優しさが滲んでいて、ふいに涙が溢れそうになってくる。だから私はきゅっと唇を噛んで、なんとか堪えた。
「まあ、私も外交をしてくるとしよう。なにも変わりはしないが」
ひらひらと手を振りながら、兄はバイエ侯爵がいるのであろう貴賓室の方向へと足を向け、立ち去っていった。
◇
結局、なにもできなかった私は、これからどうすればいいのかも、なにひとつ思いつかなくて、自室に帰ることにした。
「本当に勝手な話ですよ」
ラーシュは私の斜め後ろで憤慨しっぱなしだ。
「あっちから申し込んでおいて、都合が悪くなったらさっさと切るなんて!」
ラーシュはたぶん、私の代わりに怒ってくれているのだろう。
家族に完全にやり込められて落ち込んでいる私のための、愚痴だ。
おかげで少し、頭が冷えてきた。
よく考えれば、ジュリアン一人のために兵を挙げるなど、現実的ではない。
ジュリアンの言う通り、彼が帰国すれば簡単に終わる話なのだ。
なにもかも、元に戻るだけ。
ジュリアンとマルセルはエイゼンで生き、そして私は元通り、婚約者などいない女となる。
「まあ今回は、事情が事情だから」
なぜ私は、ラーシュを宥めるような発言をしているのだろう。ついさきほどまで、ラーシュが言っている通りのことを私も思っていたのに。自分でもわけがわからない。
「マッティアはエイゼンの属国というわけではないんですよ。いくらなんでも横暴すぎます!」
「けれどあちらも、それなりに考慮してくださるという話だし」
「あの、手土産ですか」
ラーシュはぐっと眉根を寄せる。
侯爵は、いくつかの金塊を献上してきたのだ。侯爵に侍っていた従者が、恭しく掲げる手の中に、それはあった。
「ひとまず、これだけをお持ちしました。後日、この件の片が付けば、貴国にご迷惑を掛けた詫びとして、さらなる支援を行うつもりとの、第二王子殿下の心遣いの先駆けと思っていただければ」
「これですべてを呑み込めと?」
非難するような硬い声を出したのは、母だった。
バイエ侯爵は、鷹揚な声音で続ける。
「我が国との繋がりは、貴国にとっても重要なものであると存じ上げます」
金銭的な援助。同盟国としての立ち位置。
あくまでも、見下してきている。
さすがにこの殺気立つ部屋の中で受け取ることはできないと思ったのか、父はその手土産を固辞した。
けれど、彼らが帰国するまでには受け取るのかもしれない、と思う。
そんなことを考えているうち、自室にたどり着いた。
私はラーシュに声を掛けようと振り返る。彼は不安げな目をして私を見つめていた。
なんとか薄く笑みを浮かべると、私は口を開いた。
「今日のところは、私はもう休むよ」
「はい。では俺はこちらで待機しておりますので」
「ああ」
ラーシュを部屋の外に置き、私は中に入って扉を閉めると、息を吐く。
いつもと同じようなやり取り。けれどそれが、とてつもなく重く感じられた。
私はベッドの傍に歩み寄ると、ドサリとその上に倒れ込んだ。
質素倹約を地でいく部屋。この簡素さが心地良くて目を閉じる。このままずぶずぶと、どこまでも深いところに沈み込んでしまいたい。
私はなんでも一人でやってきたはずだった。
なんでも一人でできると思っていた。
けれど今は、一人ではなにもできない、無力さが憎かった。




