3. 王子との出会い
一つの黒い馬車を守るように騎兵が周りを固めているから、あの馬車に第七王子が乗っているのだろう。
その後ろにも、三台の荷馬車が続いている。
けれど大国エイゼンの王族の移動にしては、少々寂しい隊のような気がした。
「さあ、並ぼう」
私が振り返ってそう声を掛けると、その場にいたマッティアの衛兵たちは下馬し、十人ずつ、両脇に等間隔できちんと並ぶ。
そうしているうちに馬車は検問所を抜け、そして兵士たちが作る二列のちょうど真ん中あたりで止まった。
馬車からは、従者と思われる男性がまず降りてきた。
私はそちらに歩を進める。
なんと言おう。
国境に接するサジェという街の入り口で出迎えるのは知らせたが、私が行くとは伝えていない。
天候によったり体調によったりで変更する可能性もあったからだ。文の行き来は遠方の国だけに時間が掛かるものだし、その間にあちらもこちらも不測の事態が起きる可能性もある。
そして私が行くと報せないことによって、特に不都合があるとも思えなかった。
むしろ「行くと予告しておきながら行けなくなった」ときには、不誠実だと思われる可能性もある。母の怒りの原因となった「自らが出迎えに来なかった」よりも酷い。
それならば、「出迎えに行くとは伝えなかったが、出迎えた」というのが一番いい。
そしてどうやら、その一番いい状況になったようである。
そんなわけなので、まずは名乗らなければな、などと考えをまとめる。
私は立ち止まると、馬車の入り口に向かって頭を下げた。
「ジュリアン殿下、長の旅、お疲れ様でございました」
すると、馬車の扉がバタンと閉まる音がした。驚いて顔を上げると、開いていた扉はまた閉まっている。
しばらくその扉を目を瞬かせて見つめていたが、視線を感じてそちらに視線を移すと、先ほど馬車から降りてきた男性と目が合った。
こげ茶色の髪と瞳の、二十歳そこそこと思われる男性だ。ジュリアン殿下の従者なのだろう。
彼は不機嫌そうに軽く眉根を寄せ、そして口を開いた。
「失礼。仰られた通り、殿下は長旅でお疲れになっておいでです」
「ええ」
それはそうだろう。
「出迎えは感謝いたします。しかしこのようなところで挨拶などせず、まずは入城させていただきたいのだが」
きっぱりとそう告げられ、私はなるほど、とうなずく。
先ほどラーシュが言ったように、やはり母は特別だったのだ。
普通は挨拶が必要な国境での出迎えなど、期待しないものなのだろう。
「しかし、ここから先はその馬車では難儀するかと思います」
私はジュリアン殿下が乗っていると思われる、エイゼン王国の剣の意匠の紋章が入った馬車に視線を移して指摘した。
挨拶はともかく、乗り換えは必要だ。
「難儀?」
「王城への道は狭いので」
そう説明すると従者は、ああ、とうなずいた。
「ですからこちらの馬車にどうぞ」
私がマッティア王国の、馬の意匠の紋章が入った馬車を指し示すと、従者はそれを一瞥し、小さく落胆のため息をついた。
私の後ろに控えているラーシュの気配が、どんどんと剣呑なものに変わっていくのを背中で感じる。
しかし私が何も言わないので、彼も口を開かない。
残念ながら、国力の違いをそのまま表しているかのように、かの国のものと比べるとこちらの用意した馬車は、見るからに見劣りしていた。私の部屋と同じように、質素倹約を地でいく馬車だ。無駄な装飾など何一つ見当たらない。
とはいえ従者が言う通り、こんなところで挨拶などしている場合でもないし、文句を言っている場合でもない。
とにかく早く入城していただくことを考えなければ。
それに見劣りはしても、我が国の馬車は当然、我が国の事情に合っているのだ。細い崖道を通るのにも余裕があるし、丈夫でもある。乗り心地は決して悪くないはずだ。
従者もそれはわかるのか、特に意見をすることなく、ジュリアン殿下が乗っている馬車のほうに向かう。
「殿下。こちらで馬車の乗り換えを」
「わかった」
少年の声が、馬車の中からした。
従者が再びうやうやしく開く扉から、少し腰を屈めてその少年は姿を現した。
金色に輝く、癖のある短い巻き毛。新緑色の瞳。まだあどけない顔立ちの少年ではあるが、その表情に幼さはあまり感じられなかった。
背筋を伸ばして立ち上がると、私よりも頭ひとつ分低い背だとわかるが、均整が取れているので、小さいとも思わない。
なるほど、大国の王子ともなると、幼くとも堂々としたものだ。
彼はこちらに振り向くと、尋ねた。
「乗り換えというのは」
「あ、こちらの馬車に」
思わず、じっと見つめてしまっていた。不躾だと思われたかもしれない。
その無礼を取り返すかのように、私は慌てて馬車を手のひらで指し示した。
王子は軽くうなずくと、馬車に向かって歩を進め、そして乗り込んだ。
私が同乗しようと、彼に続いて馬車に乗ろうと足を動かしかけたそのときだ。
ため息交じりの声に呼び止められた。先ほどの従者だ。
「馬車内の護衛も世話も結構です。私どもでやりますから」
「えっ」
私は振り向く。
護衛のつもりも、世話を焼くつもりもないのだが。
単純に、私がいたほうが入城するのに都合がいいだろうし、できれば馬車内で挨拶や案内もして差し上げたい。
しかし従者は私を押しのけるように馬車に乗り込み、そしてバタンと扉を閉めた。
呆然とそれを見つめていると、御者が不安げな表情をして私に視線を向けていることに気付いた。
「……ああ、出してくれ」
「かしこまりました」
御者は私の言葉にうなずくと、手綱を握り、そして馬車を出発させた。
私は仕方なく、乗ってきた馬のほうに戻る。従者に連れて帰ってもらうつもりだったが、帰り道でも役に立ってくれそうだ。
「なんなんですか、あれ!」
馬車が見えなくなるまで見送ってから、ラーシュが怒り心頭、という感じでそう声を荒げた。
「ああ、腹の立つ! いくら大国だからって、こっちの王女を蔑ろにしていいって話はないでしょう!」
「いやまあ、お疲れだっただろうから」
王子ももちろん疲れていただろうが、従者のほうも疲れていたに違いない。疲労が溜まっているときには、周りに気を配る余裕などなくなるものだ。
少々不機嫌であるのは仕方ない。いちいち腹を立てることでもないだろう。
そうラーシュを宥めていると、衛兵の一人が、おずおずと手を挙げて話し掛けてくる。
「あのう、姫さま」
「ん?」
「姫さま、ご自分が王女だって名乗られました?」
「え?」
私は顎に手を当て考えてみる。
そう言われてみれば。
「名乗る暇がなかったから名乗ってないな……」
まずは名乗ろう、と思っていたのに。
「たぶん、騎士かなにかだと思われたんですよ。そんな恰好だし」
私はラーシュと顔を見合わせる。それから自分の身体を見下ろした。
馬に乗って来たので、私は乗馬服を着用していた。
兵士は続ける。
「エイゼンでは王女さまって、ドレスを着ているものなんじゃないですか」
「……なるほど」
馬車に乗ると御者の運転も丁寧な気を使ったものに変わるので、行きは急いでいたし馬のほうがいいだろうと、自分の馬に乗って来たのだが。
そして家族も従者も誰一人として止めなかったので、なんとも思わなかったのだが。
どうやら初っ端から、エイゼンでは考えられないようなことをしでかしてしまったらしい。
「いいや! それにしても、あの態度はないですよ!」
ラーシュはやっぱり、まだ憤慨していた。