28. 王女の奇行
それから少しして、広間の至るところで繰り広げられていた各々の挨拶も一通り終わったのではないか、という頃。
ヨンセン伯爵は、大きく手を広げて声を上げる。
「この場にお集まりの皆さま、本日は我が娘、フレヤのためにご足労いただき感謝します」
伯爵の言葉に、参加者たちは歓談を止め、そちらに視線を移した。
注目を集めたことを知ると、伯爵はひとつコホンと咳払いをして、再びもったいつけたように口を開く。
「実は、今宵はもうひとつ、喜ばしい報告があるのです」
誰もが、ああ、と小さく首を縦に動かした。
皆、知っているが公表はされていないことを今から聞かされるのだと、理解しているのだ。
「我が娘、フレヤと、オークランス伯爵の子息、フィリップ殿との婚約が成立いたしました!」
わっと拍手が湧く。
その拍手の渦の中、ヨンセン伯爵とオークランス伯爵は、満面の笑みで互いに歩み寄り、そしてがっちりと固い握手を交わした。
その横にひっそりと、フレヤと、そして婚約者となった男性が並んで立っている。
柔和な雰囲気を持つ、スラリと背の高い男性だ。フレヤより五つ上の十六歳と聞いている。
フレヤとフィリップは、間違いなくこの話の主役であるはずなのに、彼らのほうに視線を向けている者はあまりいない。
参加者たちは口々に祝いの言葉を述べているが、それはいったい、なんに対してなのだろう。
「これでヨンセン伯爵家とオークランス伯爵家は安泰、というところですかな」
「いやはや、他国での成功は大きかった」
「これで勢力図が変わりますな」
そんなヒソヒソ声が聞こえる。
フレヤはまだ十歳で、結婚をする年齢ではない。だから実際に婚姻関係となるのはまだ先のことだ。けれどこうして婚約を大々的に発表した以上、それは揺るぎない未来となったのだ。
そんなことを考えているうち、私たちに歩み寄ってくる者があった。
「ごきげんよう」
「マティルダ」
彼女は立ち止まると、いつものように淑女の礼をしてみせた。けれど常とは違い、なんとも形容しがたい表情をしていて、明るさには欠けている。
それに、まるでエリオットのほうに視線を向けない。いつもの素直でない態度ではなく、そちらを見ることを躊躇っている様子だった。
きっと、フレヤに遠慮しているのだろう。
私がエリオットにチラリと目をやると、彼はジュリアンと話をしているところだった。なにを話しているかまでは聞こえない。
「カリーナ殿下は、このことをご存じでしたか?」
おずおずと、マティルダが尋ねてくる。私は振り返ってその問いに答えた。
「ああ、一週間前に」
「そうでしたか」
答えを聞いたマティルダは、ほうっと嘆息する。
つまりエリオットもそのあたりで知ったのだと、わかったのだろう。
「フレヤ……最近、元気がないと思ったら」
マティルダは口の中でボソッとつぶやく。大々的に言える話ではないが、吐き出したい気持ちもあったのかもしれない。
「私は、フィリップ殿の人となりまではわからないのだが、どのような御仁か知っているだろうか」
たまに参加する舞踏会で、たくさんの誘いは受けるが、彼の顔を見た覚えはない。
せめて、見た通りの優しい人であればと思い、そう問うた。
マティルダは微笑むと、私を見上げてくる。
「フィリップ兄さまは、あ、いえ、兄さまではないんですけれど、わたくしたちのお兄さまのような方なんです」
「そうなのか」
「わたくしたちが喧嘩していると、間に入って仲裁してくださるような方で」
彼女は小さく笑うと、目を伏せる。
「とても……良い方なんですの。きっと、わたくしたちのことは、妹のようなものだと思っていたに違いないですわ。フレヤがエリオット殿下を慕っているのもご存じで……だから一度はお断りしたと聞いています」
けれど、家の意向で、彼の未来をも決まってしまった。
仕方ない。王侯貴族の結婚というものは、そういうものだ。私も含めて。
わかってはいるけれど、すんなり納得できるものでもない。特に、十歳という年齢ですべてを呑み込めというのは、酷なのではないかと思えた。
ただ、本来のフレヤは可愛らしくて明るい娘だし、フィリップも温厚な気質の男性らしい。恋愛感情ではないとしても、仲は良かったようだ。
それがせめてもの、救いだ。
マティルダは私の隣に頼りなげに立っていたが、ふいに口を開いた。
「……カリーナ殿下は、政略により結婚するとなったとき」
「ああ」
「……どう、思われたんですか」
私は顎に手を当て、しばし考えてみる。
これは真剣に答えなければならない質問だと感じられた。
「最初は、驚いたな。ずいぶん年が離れていたし、お相手は大国の王子だし。けれどまあ、そんなものかとも思った」
「カリーナ殿下らしいですわ」
マティルダはくすりと笑う。
「あと、私がエイゼンに行くものだと思っていたから、こちらにジュリアンが来ると聞いて、安心した」
「ああ」
「大国の王子妃は、私には荷が重い。だからマッティアにやってきて、その苦労を引き受けてくれるジュリアンが、この国で快適に過ごせるよう努力しようと考えた。なかなか上手くいかないが」
「そんなことはないですわよ」
マティルダが気を使って慰めてくれる。彼女は優しい娘なのだ。
「それにしても、ずいぶん冷静ですのね?」
小首を傾げて続けられるその質問に、私は答える。
「私は政略結婚するものだと思いながら育った。だからかもしれない。でも」
マティルダは、じっと私を見上げている。
「もし、誰かに想いがあったのなら、ここまで冷静ではいられなかっただろう」
たまたま私には想い人がいなくて、たまたまジュリアンは良い人間だった。もしどちらかひとつでも違っていれば、ひょっとしたら心を乱していたのかもしれない。
フレヤだって、マティルダだって、貴族の娘として育った。彼女たちだって、政略結婚をするものだと思いながら育ったに違いないのだ。
けれど今、彼女たちは、その事実に納得していない。
マティルダは小さく息を吐くと、ぼそぼそと語り始める。
「フレヤだって、本当に王子であるエリオット殿下との恋が成就するとは考えていなかったと思います」
「そうか」
「でも……それでも納得しきれないのは、終わらなかったからですわ」
そしてフィリップの横に並び立つフレヤに目を向けると、悲し気に眉尻を下げた。
「貴族の娘に生まれると、ちゃんと失恋することもできません」
ああ、そうか。
マティルダが素直になれない理由は、それなのか。
貴族の娘には、貞淑であることが要求される。
恋を始めることも、本来ならば許されない。だから、その想いに線引きをして終止符を打つことすらできないのだ。
けれど愛しく想う心が、邪魔をする。
今ならまだ、幼い頃の憧憬の気持ちとして周りも温かく見守ってくれる。そうして、あと少し、もう少し、とじりじりと諦めきれないうちに。
始まってしまったのだ。終わらせられないのに。
私は顔を上げると、ひとり、一歩を踏み出す。
「えっ」
「姫さま?」
「カリーナ?」
「姉上」
私はドレスの裾を持ち上げ、大広間を突っ切り、フレヤの前まで早足で歩いた。