25. 王子と初めての獲物
その日も私たちは狩りに出掛けた。
こんなに頻繁に山に入ることはあまりないが、ジュリアンが早く慣れるためだと、忙しい兄は抜きで、四人での入山をすることになったのだ。
それまでも、ジュリアンは弓の練習はしていたようだ。
「いやあ、上手くなりましたよ。努力家ですね」
ラーシュは感心したような口調で、そう褒める。それを聞いたジュリアンは、照れ臭そうに頬を染めていた。
空き時間に、ラーシュは二人に弓を指南したらしい。ジュリアンほどではないけれど、マルセルもそれなりに使えるようになったということだ。
「この国に骨を埋める覚悟をするならば、必須かと思いまして。なかなか難しいのですが」
マルセルが恥ずかしそうに、そうぼそぼそと口にする。
これからどうなるかはわからないけれど、帰国命令はない可能性が高いと見ているのだろう。
「今日は、私も狩りに成功したいです」
両手に拳を作って胸の前に掲げると、ジュリアンはそう力強く宣言した。
「ああ、でも狩りというものは、入山すれば狩れるというものではありませんから、たとえ獲物がいなくとも、残念がる必要はありませんからね」
実際、何時間も歩き回ったところで、獲物にまったく巡り会えないなんてことは珍しくもなんともないのだ。
焦ってはいけない、と思ってそう助言したつもりだったのだが……ジュリアンはこちらを恨めしそうに見上げてくる。少し不貞腐れているようだった。
なんだなんだ。
「カリーナ、そういうときは、『がんばれ』とか『期待している』とか、前向きな言葉を掛けてください」
「え……と、そういうもの、ですか」
「はい」
彼は、こくりとうなずいた。
そのほうがいいのなら、と私は彼に向き直る。
「では……『がんばってください』」
「感情が籠っていないです」
なんと。ダメ出しをされてしまった。
私は息を吸い込むと、彼に向かって身を乗り出すようにして、両の拳を胸の前で握りつつ、真正面から声を掛けた。
「がんばってください」
「はい、期待してくださいね」
私の励ましの言葉に、ジュリアンは頬を緩めて応えた。
「なにやってるんだか……」
背後でラーシュが呆れたような声でそうつぶやいた。
◇
ところがなんと、入山してからすぐに、猪に出会ってしまった。
ガサガサと茂みの向こうに背中が動いているのがわかる。
しかしあれは。
私が一瞬、躊躇している間に、ジュリアンは素早く矢筒から弓と矢を取り出すと、猪に向かって構える。
決断が早い。
とても二回目の狩りだとは思えない。
私はこっそりとラーシュに視線を移す。彼もそれに気付いたのか、ジュリアンから隠れるようにしてうなずいた。
これは成り行きを見守ろう。
狙いが定まったのか、ジュリアンは矢筈を持っていた手を放す。放たれた矢はまっすぐに飛んで行き、そして茂みの中に飛び込んだ。
「行こう!」
ラーシュは私の掛け声よりも早く動き出していて、あっという間にその場からいなくなった。
残されたジュリアンは頬を紅潮させて、つぶやく。
「あ……当たった?」
「当たったぞ」
私の返事に、ジュリアンはほっと息を吐いている。いくら練習したところで、本当に狩りの場で当てるのは、動いている的が相手だから当然なのだが、難しい。
「早く血抜きをしなければ」
立ち竦んでいるジュリアンに声を掛ける。
「あっ、ああ……」
気分が高揚しているのか、少し呆けているように見えた。
私はマルセルと二人で、ジュリアンを守るようにして、茂みに向かう。
ラーシュはもうとうに到着していて、心臓にナイフを突き刺し、血抜きを行っていた。
見れば、猪の眉間に傷があった。
おそらく、ジュリアンの矢では動きを止めただけだったのだろう。ラーシュが気絶させて、とどめを刺したのだ。
「もー、遅いですよ。血抜きは素早くやらないと」
プンプンと怒ったようにラーシュは言うが、おそらくそれは、ジュリアンに気を使ったものだろう。
「す、すまない」
「まあ、初めての獲物ですからね、戸惑うのもやむなしです」
明るい声でそう声を掛けられて、ジュリアンは目を瞬かせた。
「初めての、獲物……」
そうして、息絶えた猪を見つめている。
「……猪って、もっと大きいのかと思っていました」
そう感想を述べる。そう、そこに横たわって血を流している猪は、小さかった。犬くらいの大きさだ。
「模様が、あります」
私がそう口を開くと、ジュリアンは小首を傾げて私を見上げてきた。
「模様?」
「ええ、縞の模様があるでしょう。これがある間は子どもなんです」
「子どもか……」
だから、小さい。大人の猪はもちろん、もっと大きい。不慣れな子どもが放った矢の一本で動きを止めることはできなかっただろう。
ラーシュと私は、茂みの中で動く猪の背中に、この模様があることに気付いた。だから躊躇してしまったのだ。
「今回は……狩ってしまったのでいただきますが」
「まずかったのか?」
「ええ、子どもの猪は基本は狩りません。狩るのは大人の個体です」
「そうか、子どもを殺すのはやはり可哀想だな……。私が逸ってしまったばかりに……」
目を伏せて、ジュリアンはしゃがみ込むと、猪の子の背中をそっと撫でた。
いや、可哀想というのもあるが、それはそう大した理由ではない。
「可哀想というか、大きくなってからのほうが食べられる場所も多いですし」
「え?」
「あと若い個体は繁殖しますし」
「え、ああ」
「それから、子どもを狩ると親が怒りますので危険です」
「そ、そうなのか」
「はい」
私は辺りを見渡す。近くにいるはずだ、この子猪の親が。
「血抜きをしたら、すぐに山を下りましょう」
ラーシュの提案に、私はうなずく。
「今日は山中で処理はせず、持ち帰りましょう。危険ですし」
「わかった」
私の発言にジュリアンとマルセルは素直に了承した。
縄で足を縛り、落ちていた太い木の枝に吊るすと、私たちは急いで山を下りる。
帰りの荷馬車の荷台の上で、ジュリアンは膝を抱えて、じっと子猪を見つめていた。
「私は、功を焦ってしまった」
荷馬車に揺られながら、そう、ポツリと零す。
「え?」
「きっと……カリーナも、ラーシュも、この猪は狩るべきではないと思っていたんだろう?」
そう問われて、返事に窮する。荷馬車を操っているラーシュも、口を開かないままだ。
「でも、私が弓を構えたから、黙っていてくれたんだ」
消え入るような声で言ったあと、抱えた膝に顔を埋める。
私は、ジュリアンに膝を進める。
そして、なるべく柔らかな声を出すようにして、語り掛けた。
「おめでとうございます」
私の声に、ジュリアンはゆっくりと顔を上げ、そしてこちらをじっと見つめてくる。
「おめでとうございます。あなたの、初めての獲物です」
「で、でも」
「ジュリアンの初めての獲物です。おめでたいことです。私は食べるのが楽しみです」
まだ納得できないのか、彼は目を逸らしてしまう。
「めでたい……のかな」
「それに、あんなに素早く決断できるのは、素晴らしいことです。普通は、どうしようかと悩んでしまうものです。当たるか当たらないか迷ってしまって、結果、逃してしまうことはよくあることなんです。素早さは狩りには重要なことなんですよ。あれは、才能です」
重ねて言う私の言葉に、ジュリアンはまたこちらを見上げて、不安げに瞳を揺らす。
「そう、かな」
「そうです。大事なことです」
私は大きくうなずく。すると彼は、弱々しくも笑顔を見せてきた。
「いやあ、驚きましたよ。俺なんて、最初は身体が震えちゃって、当たりもしませんでした」
補足しようとしたのか、御者台からラーシュが声を張ってくる。
「ラーシュでも?」
「そりゃそうでしょ。最初から当たる人なんて、本当にごく一部ですよ」
言われて彼は、私にも問うてくる。
「カリーナも?」
「ええ、もちろん」
「コンラード殿下も?」
「兄上は……当てたらしいです」
兄だけは、なにをやるにも最初からできてしまう。本当に悔しい。
私の苦々しい表情が見えたのだろう。ジュリアンは、ふふ、と笑った。私はそれを見て、心の中で安堵の息を吐く。
良かった。せっかくの初めての成功体験を、嫌な思い出にして欲しくはなかった。
彼には、笑っていてほしい。
「子猪は美味しいですよ」
「そうか」
「今夜はごちそうです。ジュリアンのおかげです」
「そうか」
荷馬車は、もう王城に近付いていた。
◇
子猪の処理は、衛兵たちや料理人たちに任せて、私たちは城内に入る。
「ごきげんよう、カリーナ殿下、ジュリアン殿下」
すると出迎えてくれたのは、マティルダとエリオットだった。
「今日は狩りでしたのね。わたくし今日は、お父さまについて登城しておりましたの。ジュリアン殿下がいなくて寂しかったのですけれど、お会いできてよかった。帰って来られたと聞いて、気が逸ってしまって出てきてまいりましたわ」
明るい声で、ジュリアンにそう話し掛けている。
「先日のカードゲームをしていたんですのよ。ジュリアン殿下もいかがです?」
そう誘われて、ジュリアンは小首を傾げた。
「それは、私も混ざってもいいの?」
「いっ……いいんですのよ!」
マティルダは焦ったように返事をしていた。
「もちろん。むしろ、あのカードゲーム、二人より三人のほうが面白いから、いてくれたほうが嬉しいな」
エリオットはにっこりと笑いながら、そう誘っている。可愛い。
「じゃあ、遊んでくるといいですよ」
こちらに遠慮するような素振りを見せていたので、私はそう声を掛けた。彼はこちらに振り返るとうなずいた。
「では、行ってくる」
「はい」
そうして三人で連れ立って去っていく。
「ああ、でも、汚れているから着替えて来てもいい?」
「ええ、お待ちしておりますわ。今日は狩れまして?」
「猪を捕まえたんだ」
「えっ、すごいですわ!」
「もうそんな大物、狩れるようになったんだ」
「大物っていうか、子どもの猪で」
「でもすごいよ。おめでとう」
「子猪は美味しいんですのよ」
「うん、そう聞いた」
そうして楽しく話をしている三人を見ていると、私とジュリアンでは、あそこまで話が弾むことはあるのだろうか、とチクリと小さく胸が痛んだ。




