10. 王子と王妃
そんなふうに廊下に突っ立って二人で会話を交わしていると、母の侍女がしずしずとやってきた。
侍女は私の向かい側に立つ殿下に気付くと、目を丸くして口元に手を当てる。
「まあ、ジュリアン殿下もおいででしたの。ちょうどようございました」
「ちょうどいい?」
私が首を傾げると、侍女は笑みを浮かべて身体を斜めにし、廊下の向こうを手のひらで指した。
「王妃殿下が、三人でお茶でもいかがかと仰せです」
その言葉に私たちは思わず顔を見合わせる。
いち早く反応したのはジュリアン殿下だった。
「王妃殿下にお誘いいただけるとは光栄です。ぜひ」
胸に手を当てると軽く頭を下げ、誘いをそう快く承諾する。
さすがだ。
「母上の部屋でいいだろうか」
私がそう問うと、侍女はうなずく。
「さようでございます」
「私が案内しよう。先に帰って母上に報告を」
「まあ、ありがとうございます。ではよろしくお願いいたします」
侍女は一礼して踵を返す。
「ジュリアン殿下、では参りましょう」
そう声を掛けると、足を踏み出す。
彼はあたりを見渡してから、口を開いた。
「今日は、あの騎士殿はいないのですか?」
「ああ、今ごろ鍛錬でもしているのではないでしょうか」
そんな会話をしながら、私たちは歩き出す。
「私は自室におりましたし、城内ですから特に危険はありませんし、そういうときは彼も自由に過ごしています」
「いつも一緒なのかと思っていました」
「いえ。でも人と会う予定があるときは、傍にいますね」
「そうなんですか」
「見栄のようなものです。ああ、それから狩りのときも」
「……狩り?」
「平和な我が国では、むしろ狩りのときのほうが危ないくらいですから」
「狩り……」
なぜかジュリアン殿下はそうぽつりとつぶやくと、黙りこくってしまったのだった。
◇
母の部屋に到着すると、彼女は両腕を広げて私たちを歓迎した。
「まあまあ、ごめんなさいね、お呼び立てしてしまって」
「いえ、ご招待いただきありがとうございます」
ジュリアン殿下は朗らかに礼を述べると頭を下げた。
本当に、そつのない。
同じ十歳のエリオットは、どこかに招待されたとき、どんなふうに挨拶しているのだろうと思うと、少し不安になった。
ちゃんと挨拶できているのだろうか。心配だ。
「さあ、お茶会を始めましょう」
母は、開け放たれた大窓の向こうのバルコニーに向かって歩き出す。私たちもそれについて足を動かした。
バルコニーには白い丸テーブルが用意されていて、三脚の椅子が等間隔に置いてある。
「どうぞ、お掛けになって」
私たちは母の指示通り、腰掛けた。同時に侍女がテーブルの上に茶器を置いていく。
「いえね、こんな機会でも設けなければ、お話することもできないかしら、と思ったのよ。来てくださって嬉しいわ」
母はニコニコと笑いながら、そう続ける。
ジュリアン殿下は、わずかに表情を強張らせた。
つまり、母は彼になにか話したいことでもあるのだろう。
それが良いことなのか悪いことなのか、現時点ではジュリアン殿下にはわからない。
ほんの少し、緊張しているような様子が窺えた。
「取って食いはいたしませんわ。親睦を深めたいだけですのよ。ですからどうぞ楽になさって」
母の言葉に、ジュリアン殿下は笑みを返した。
「ありがとうございます」
母は続けて私のほうに視線を向けてくる。
「カリーナも、緊張しなくていいのよ」
「えっ」
私は思わず、自分の膝の上に目を落とす。本当だ。ぎゅっと拳を握ってしまっている。
「お茶会ですもの、楽しみましょう」
柔らかな声を掛けられて、私はほっと息を吐く。
母はさらに顔を動かした。
「せっかく騎士殿もいらしているのですから、椅子を用意して差し上げて」
「かしこまりました」
母の言葉を受けて、侍女は椅子を用意しに動いたが、マルセルは慌てて手を立ててそれを制した。
「いえっ、私は」
「遠慮しなくともよくてよ」
「いえ、私はここで」
マルセルはジュリアン殿下の斜め後ろに移動すると、そのままそこで立ち止まった。
「まあ、やはりエイゼンの騎士は真面目なのねえ」
母は感心したようにそう口にする。
「そんなことは」
「そうね、エイゼンでは当たり前なのかしら。カリーナの騎士など、自分で椅子を持ってきますよ」
クスクスと笑いながらそう続ける。
「え? 本当ですか」
驚いたようにジュリアン殿下は問う。
「いつもではないけれどね。ねえ、カリーナ」
私はうなずいて返した。
「でも一応、了承は得ます」
「へえ……」
ジュリアン殿下もマルセルも、言葉を失ってしまっている。
初日のマルセルとの押し問答を考えても、やはりエイゼンではラーシュの振る舞いは考えられないことなのだろう。
でも別に、彼はそれでいいのだ。他の騎士たちだって、似たようなものだ。
「こういう違いに、戸惑われてばかりでしょう?」
そう問い掛けられて、どう答えればいいのかすぐには出て来なかったらしく、ジュリアン殿下は「いえ……」と口ごもった。
母は口元を手で隠し、ほほ、と笑う。
「不便なこともあるでしょう。ここマッティアは、渓谷の国ですから。馬車も狭くてねえ」
初日のことを思い出したのか、ジュリアン殿下はほんのりと頬を染めた。
「そんな……」
「わたくしも、嫁いできたときには驚いたものですのよ」
その言葉に、彼は顔を上げる。
母はにこにこと微笑みながら、小さくうなずいた。
「確か、ルーディラの……」
「ええ、王女でございました。ですから少々、戸惑いましたわねえ」
ジュリアン殿下は、この国に馴染めない自分に対し、どうやら説教かなにかされるものと思っていたのだろう。
けれど母は、同じような境遇の者同士わかることもあるだろうと、このお茶会を催したのかもしれない。
「馬車は狭いし、道も狭いし、王城はまさかの崖の途中に建てられているし。驚いたでしょう?」
「い、いえ……」
しかし勢い込んで同意することには躊躇ったようで、曖昧に応えている。
母はそれを気にすることなく、続けて口を動かした。
「マッティアは、少しばかり浮世離れしている国ですわ」
ジュリアン殿下は、ただ黙って母の顔を見つめて、その口が語ることに耳を傾けている。
「国の体裁を保ってはおりますが、その実、国内は世界から切り離されているような長閑さです。まるで、違う時間が流れているような」
母はなにを語ろうとしているのだろう。私も口を挟むことなく、その声を聞く。
「大した資源もございません。位置的にも重要な場所にあるわけでもない。その上、国内は渓谷だらけ」
物憂げにそんなことを言い連ねる。
殊更に美点を挙げろと言うつもりはないが、欠点をあげつらうのもどうだろう、と思ったとき。
「ですから、身を隠すには都合の良い場所なのです」
その言葉に、ジュリアン殿下は弾かれたように顔を上げた。
けれど母は動じることなく、口元に笑みを浮かべたまま、続ける。
「わたくしがこの国にやってきたのも、そういう経緯ですのよ」
母の祖国、ルーディラ。
一時は繁栄していた国だったけれど、今は見る影もない。大きな街道を突っ切る場所にあったためか、何度も侵略を受けた。
辛うじて今も国の体裁を保ってはいるが、それもいつまで保つか。
母は国から逃がされたのだ。ルーディラ王家の血を持つ王女として。他国にその血を確保するために。
母は、保険だったのだ。ルーディラになにかあったときのための。
幸い、何ごともなくここまで過ごせてはいる。
「穏便に済ませるには、そして体裁を保つためには、他国に嫁いだという大義名分が必要でしたの」
崖の途中に建つ王城。どうしてこんな不便な場所に建てられているかといえば、ひとえに防御に徹したのだ。
国土も狭く、国民の数も少なく、大した武力も持たない国は、その歴史から守りに入った。幸い、渓谷は国を守るように存在していた。
マッティアは、逃亡場所としては非常に優れている場所だったのだ。
国として存在しているため、外聞としてもいい。
そうしてマッティアの王家は、いろんな国の血が混じる一族となった。
「これは、わたくしの昔語りですのよ」
母は紅茶の入ったカップを持つと、それを口元に運ぶ。
「年を取ると、語りたくなるものですの」
だから、ジュリアン殿下が『守られるために』この国に来たかどうかという話ではない。
けれど母は、それを教えてあげたかったのではないだろうか。
要らない王子として国を出されたわけではないと。
母の言葉を咀嚼しているのか、ジュリアン殿下はしばらく口を閉ざしていたけれど、ぱっと顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべた。
「私の目には、王妃殿下はまだお若く見えますが」
「まあ、末恐ろしいこと。その年齢で、そんな嬉しがらせを口にするなんて」
そうして母は、クスクスと楽しそうに笑った。
ジュリアン殿下もニコニコと母を見つめている。
私はその光景を見て、心の中でほっと胸を撫で下ろす。
そうか、知りたい知りたいと尋ねるよりも、こうして徐々にお互いを理解できるような場所を作ることのほうが、まずやるべきことなのかもしれない。
やはり母は私などより、一枚も二枚も上手だ。
「そういう、いろんな国から嫁いできた者がおりますから、元々この国にはなかった慣習が王城内に根付いたりもしますの」
「そうなんですか」
「たとえば、騎士、とか。元々そんな者たちはいなかったそうですわ。マッティアの歴史書で知りました」
そうなのか。私も知らなかった。
騎士は私にとって、いて当然の者だった。
「それから、舞踏会」
そう付け加えて、母は笑みを浮かべた。
「実は、舞踏会を開催しようと思っておりますの。ぜひ参加してくださいな」