本当はいつも 4
初めて、ドリエルダに会ったのは、ブラッドが24歳の時だ。
ローエルハイドの勤め人になって4年目。
その頃、ブラッドは「料理」に凝っていた。
勤め始めには、できることがなくて薪割りばかりしていたが、それはともかく。
ブラッドは凝り性なのだ。
できないことをできないままにはしておけないところがある。
4年目にして、ようやく「パン焼き」を任されるようになっていた。
自分が、どの程度の腕前になったか知りたい。
そう言ったところ、料理長が街で「パン売りでもしていろ」と言ったのだ。
しつこいブラッドを体よく追いはらった感もあったが、本人は納得して、街での「パン売り」を始めた。
印象的な、水色の髪。
幼いドリエルダは、みすぼらしい服を着ていて、そのポケットに小銭を詰め込んでいたのを覚えている。
いくつほしいのかと聞いたブラッドに、彼女は、最低でも3つほしいと言った。
本当は足りなかったのだが、ブラッドは、パンを3つ渡している。
ドリエルダに金の計算ができないと、わかっていたからだ。
見た感じ十歳前後だった。
その年頃であれば、平民の子でも、読み書きや計算のできる子のほうが多い。
ロズウェルドには無償の学校があり、識字率や教育の水準が他国よりも高かったのだ。
にもかかわらず、ドリエルダは注文カードを読むこともできずにいた。
なにか事情があるのだと思い、ブラッドは、そっけなく「ちょうどだ」と言い、金を受け取っている。
タダで渡しても良かったのだが、それではドリエルダを傷つける気がした。
彼女の目には、必死さが漂っていたから。
その後、2年ほど、ブラッドはパン屋を続けている。
街に出る回数は少なくなっていたが、ドリエルダのことは忘れていなかった。
そろそろ閉め時だと判断した頃、再び、彼女が現れたのだ。
ぼろぼろになって。
頭から血は流していたし、痩せていて、今にも倒れそうだった。
ブラッドは、その姿に、どうしようもなく手を貸したくなった。
その頃には、もう「特務」を率いていたため、王宮との関わりは、なるべく避けたかったのだけれども。
シャートレー夫妻に「最終日だから買いに来い」と、配下の者に連絡を取らせたのだ。
そこから、彼らがドリエルダをどうするかには口を挟んでいない。
彼らに任せている。
ただ、ブラッドの読みでは「連れて帰る」ことは明白だった。
彼らに子はなく、バージルの妻ニーナニコールは女の子をほしがっていたので。
「なんという女だ。これほど、俺に心配をかけておきながら、気を失うとは」
ブラッドの腕の中で、ドリエルダは意識を失い、目を閉じている。
幸い、怪我はしていないようだ。
とはいえ、薄い膜のようなものが見える。
「転移の影響を受けているのだな。ならば、しかたがないとするか」
ドリエルダを腕に、馬から、ひょいと飛び降りた。
その体を、しかたなく、本当に、しかたなく、ピッピにあずける。
「そんな嫌な顔しなくてもいいじゃんスか。オレだって、しかたなくあずかってるだけなんスから……」
「…………わかっている」
「なんスか、その間。嫌な感じっスね、マジ、ウザいっスよ」
呆れたように言われても、ブラッドは気にしない。
ドリエルダを腕に抱いたままでも問題はないのだが、念のためピッピにあずけたに過ぎないからだ。
本当に念のため、しかたなく。
「……少し離れていろ。いや、安全な場所まで連れて行け」
「ちょこっとだけ離れとけば、大丈夫でしょ? DDが見えてるほうが、精神衛生上、良さそうっスからね」
「俺の精神を気に……」
「いや、オレのっス」
「そうか」
ドリエルダを抱き上げているピッピが、ほんの少しだけ離れる。
ブラッドの視界におさまる距離だ。
確認してから、ブラッドは正面にいる男に視線をそそぐ。
フード姿の魔術師だった。
「その女を返してもらいますよ」
「これを連れに来たというのに、返すわけがなかろう」
「ですが、あなたは魔力持ちではないでしょう?」
「だから、なんだ?」
「私は、魔術師です。持たざる者が何人いようと勝てるとお思いで?」
ブラッドは、街に出る時にだけ「薬」を飲んでいる。
本来の髪と目の色を変えるための薬だ。
「俺は、眼がいい」
金色の髪に、翡翠色の瞳。
それが、ブラッド本来の色だった。
パン屋をしていた頃は、まだ「忍んで」いなかったため、ドリエルダは、彼が、あの時の「パン屋」だと気づいたらしい。
お忍びをするようになったのは、パン屋が思いの外、繁盛してしまったせいだ。
「避けられるとでも?」
「俺は、必要を感じないことはしない主義だ」
ブラッドの翡翠色の瞳の奥に、赤い光が灯る。
これが、どういう意味を持つかを知る者は、ピッピだけだ。
「口が達者ですね。死んでから後悔することになりますよ」
魔術師の動作が見える。
ブラッドからすれば、ものすごくゆっくりとした動きに映っていた。
魔術の発動には、必ず動作が必要となる。
そのため、動作が見えていれば、どういう魔術が、どこに飛んでくるか、先読みできるのだ。
けれど。
ブラッドに避ける気はない。
必要がなかった。
黒い楔のような形をしたものが、大量に飛んでくる。
それも、ものすごくゆっくりと近づいているようにしか見えなかった。
その光景を、じっと見つめる。
ピシ。
実際には、音はしないのだが、そんなふうに楔に亀裂が入っていた。
粉々に砕け、地面に落ちる。
「な……ぼ、防御魔術を張っていましたか」
「そのようなものは使っておらん。俺が魔力を持たぬ者だと言ったのは、貴様ではないか」
「魔術道具を使っているのでしょう?」
ブラッドは呆れて、返事もせずにいた。
魔術に頼らず国を守るための機関の頂点にいる者が、たとえ道具であれ、魔術に頼るわけがない。
彼は「特務」を率いるようになって十年以上、1度も魔術に頼らずにいる。
それが、ブラッドの信念だった。
「俺に、魔術は効かぬのだ」
「ふざけたことを!」
無属性である、鉛の球がブラッドを取り囲む。
普通なら穴だらけにされるところだ。
が、それも、ブラッドがわずらわしいとばかりに手を振っただけで、砕け散る。
魔術師の動きが止まっていた。
ブラッドの言葉をようやく信じたらしい。
ブラッドは、瞳に「刻印の術」を刻んでいる。
ピッピは額だ。
耐性が必要であるため、誰でもが刻めるわけではなかった。
刻印の術は、まだ魔術の存在が明らかになっていなかった、古き時代に使われていた術式だ。
魔力を必要とはせず、本来は、特殊な塗料を使い、術をかける。
というより、そもそも人に刻むようなものではない。
(あれは、死ぬほど苦しんだものだ。慣れればどうということはないが)
創設者ユージーン・ウィリュアートンの時代から延々と研究されてきた「魔術に頼らない手段」の中にあった、最も効率の悪い方法。
人を選ぶし、術が定着するまで、数ヶ月は身動きすらままならなくなる。
それでも、ブラッドは、それを選んだのだ。
「言ったはずだぞ」
翡翠色の瞳の中の「赤」が、術式の紋様を浮かび上がらせていた。
実のところ、ブラッドは腹を立てている。
とてもとても、怒っているのだ。
「俺は“眼”がいい、とな」
ブラッドに刻まれた術式は、とくに特殊だった。
魔力持ちかどうかを見抜くこともでき、どういった魔術がかけられているのか、魔力痕を見ることすらできるのだ。
そして、あらゆる魔術を弾くだけではなく、弾くことを攻撃の手段とすることも可能とする。
1歩、ブラッドが近づいたとたん、魔術師が吹っ飛んだ。
宙に舞い、地面に落ちる。
動けなくなっていても関係ない。
玉蹴りでもするように、軽く足を突き出しただけで、また魔術師が吹っ飛ぶ。
「ピッピ、女はどうした」
血の泡を吹いている魔術師を蹴り上げながら、平然と訊いた。
ピッピも、やはり平然と答える。
「捕まえてないわけないでしょ? ここに、何部隊投入してると思ってるんスか」
デルシャン方面へと抜ける道はいくつかあるが、不自然に見えないよう、それとなく「通行止め」にした。
実は、彼らは「ノヴァク方面」の道しか選べない状態に追い込まれていたのだ。
「伯爵家は?」
「オレに、それ聞きますー? 執事のこととかも聞きますー?」
ピッピの棒読みに、ブラッドは返事を期待しないことにする。
ブラッドの指示を、ピッピが読み間違えることなどないのだから。
「む。ハーフォークが雇える程度の魔術師というのは、弱過ぎて話にならん」
魔術師は、もう身動きひとつしていない。
呼吸をしているかも定かではなかった。
その姿を冷めた眼で見ながら、ブラッドは心の中で思う。
(俺の術を越えられるのは大人になったジョザイア・ローエルハイドのみなのだ)




