優先させるべきなのは 2
もう終わりだ、と感じる。
タガートの怒りが、伝わってくるからだ。
話もさせてもらえないに違いない。
またしても、話す機会を踏みつぶされてしまった。
内容はズレていて、悪意のあるものにすり替えられてはいる。
とはいえ、ジゼルの言ったことのすべてが嘘だとも言えない。
ブラッドを買ったわけではないし、雇ってもいないが、協力はしてもらった。
当てつけのためではないにしても、そう思われるような行動を取っている。
タガートを騙すつもりなんてなかった。
だが、結果としては、そう思われてもしかたがない。
夜会でのことが、婚約解消のための「策」だったのは事実だ。
弄ばれたと、タガートが憤るのは当然だろう。
「王族の方々と知り合いの者を見つけてきてまで、タガート様を騙すなんて、どこまでも卑劣な子ね。これほど良くしていただいておきながら、なぜこのような真似ができるのかしら。あなたは、恥というものを知らないようだわ」
ジゼルに罵られても、言い返す気にもならなかった。
またタガートを傷つけてしまったことに、ドリエルダは胸を痛めている。
深い罪悪感の沼に突き落とされていて、ジゼルの言葉に反応もできない。
そのドリエルダの耳に、タガートの冷ややかな声が響いた。
「私は、今、非常に憤慨している」
「もちろん、そうでしょうね。お気持ち、お察しいたしますわ」
ジゼルは勝ち誇っているのだろうが、どうでもいいと感じる。
穏やかな日々を壊したくなくて逃げ腰になっていた自分が悪いのだ。
もっと早く話していれば、タガートを傷つけずにすんだだろう。
少なくとも、深い傷を負わせることにはならなかった。
「自制するにも限界というものがあるな」
タガートの言う通りだ。
彼は本心を明かし、謝罪もしてくれた。
なのに、自分は、なにひとつ本当のことを話してはいなかったのだ。
「私の自制が切れる前に、帰ってくれないか」
ひどく冷たい声に、体がすくむ。
帰らなければと思うのに、立ち上がることができない。
動けずにいるドリエルダに、ジゼルが追い打ちをかけてくる。
「あなたが、ここにいる資格はないのよ、ドリー」
夜会の前にも、似たようなことがあった。
自分を信じてほしいと、あの時は願えたけれど、今は、それも願えずにいる。
穏やかで優しい時間は、終わったのだ。
あとは、ドリエルダが去るだけ。
「私は、きみに言っているのだよ、ジゼル」
言葉に、ドリエルダは立ち上がっているタガートを見上げる。
彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
表情には、不快感がにじんでいる。
「わ、私、ですか?」
「そうだ、きみだ、ジゼル」
「なぜですの?! タガート様は、その子に騙されていたのですよ?!」
タガートが、ドリエルダを庇うように、横に立った。
彼女はジゼルに背を向けて座っていたため、ジゼルの表情は見えない。
ただ、狼狽えている声が、私室に響く。
「この子は、望むものを手に入れるためなら、どのようなことでもする子です! きっと、あの男も利用するだけして捨てたに違いありません! 同じ目に合いたいとは思われませんでしょう?!」
「いいや、かまわない」
「な……」
「むしろ、私からすれば、彼女が、どのようなことでもして、私を手に入れようとしてくれたというのなら、喜ばしい限りだ。騙したことについても、礼を言いたいくらいだな。それで、私は目が覚めたのでね」
タガートの声は、真冬の外気のごとく冷たい。
けれど、それはドリエルダに向けられたものではなかった。
「彼女に捨てられるとすれば、私が、その程度の男だったに過ぎない。人の心は、縛れるようなものではないのだから」
ドリエルダは声を出せずにいる。
が、ジゼルの声も止んでいた。
そこに、タガートの冷ややかな声が室内に響く。
「今まで、きみは、ずいぶん妹の心配をしていた。にもかかわらず、今日は、どういうことか、酷い言い草だ。これまでの、きみの態度をこそが、偽りだったのではないかと疑わしくなる」
「そ、それは……タガート様のことが心……」
「その心配は不要だ。今後、私の私室に勝手に入ることは許さない。わかったら、出て行ってくれ」
ぴしゃっと鼻先で扉を閉めるがごとき言い様だ。
タガートは、ドリエルダに対しても辛辣だったが、ここまで冷徹ではなかった。
ジゼルへの言葉には、すでに怒りすらも感じられない。
ドリエルダを私室から追い出した日には、まだしも怒りはあったのだ。
バタバタという足音が聞こえる。
ジゼルが私室から走り出て行ったらしい。
心臓が、ばくばくしていた。
「ムーア!」
タガートが、執事を呼ぶ。
ドリエルダは扉のほうに振り向くことができずにいた。
なにがどうなっているのか、よくわからないのだ。
てっきり、タガートは自分に怒っていると思っていたので。
「長年の、きみの働きには感謝している。私は領地の立て直しに忙しくて、屋敷を留守にしがちだった。きみに任せきりにしていたことも多い。父には、きみも苦労させられてもいただろう。それに関しては、申し訳なかったと思っている」
その言葉に対し、執事のムーアからは返事がない。
ジゼルに話していた時よりは、タガートの声に、少し感情が戻っている。
とはいえ、淡々とした調子だ。
「だが、私は、きみに、権限を与え過ぎていたようだ。ここは、ハーフォークではない。ベルゼンドだ。私の私室に人を通す権限は、私にしかない。きみには苦労をかけたし、世話にもなった。だから、これまで大目に見てきたが、今後は、考えを改めることにする。わかったかね」
「かしこまりました」
短い返事とともに、また足音。
扉が、パタンと閉じる音もした。
「やれやれ、だな。まったく」
タガートの声の調子が、気楽なものに戻っていた。
ソファに座ってから、ドリエルダに向かって、苦笑いを浮かべてみせる。
「きみには、見せたくなかったよ」
確かに、さっきのタガートは、彼らしくない雰囲気だった。
それほど怒っていたということなのだろうが、冷徹さを通り過ぎて、冷酷ですらあったのだ。
領民と接していた時とは、まったく違う。
「私は、未だ当主ではない。だが、14の頃から当主としての役割を果たさざるを得なくなっていてね。周りは、ブレインバーグ公爵のような者ばかりだ。大人しくしていては、ベルゼンドは食い物にされる。それを食い止めようと必死だった」
タガートが、大きく溜め息をついた。
疲れた様子で、額を押さえている。
ドリエルダの知るタガートは、ハーフォークを訪ねてくれる優しい兄のような人という印象から始まっている。
だが、ドリエルダが知らなかっただけで、裏では戦っていたのだろう。
彼女が、ハーフォークで罵声や暴力に耐えていたのと同じくらい、つらい思いをしていたのかもしれない。
タガートから大事にしてもらうばかりで、彼自身がどうであったかを、ほとんど知らずにいたと気づく。
爵位があろうと、彼もまた、子供だったのに。
タガートは、ドリエルダより7つも年上だ。
だとしても、彼女が5歳の頃は、タガートだって、たったの12歳。
ドリエルダがハーフォークを逃げ出したのと同じ歳だった。
年上であろうが、傷つく時は傷つく。
痛いものは痛い。
たとえ感じかたが違おうと、つらいことや苦しいことは、降り注ぐのだ。
それは、どれだけ大人になっても変わらない。
ドリエルダも爵位を持つ16歳になったが、些細なことにも傷つく自分を知っている。
「私を、怖いと思ったかい?」
額から手を離し、タガートがドリエルダを見つめてきた。
瞳に、わずかな不安が漂っている。
以前、ドリエルダに見せていた辛辣さを、彼は悔いているのだ。
それなのに、より厳しい姿を見せてしまっている。
「思っていないわ。私に厳しかったのは、誤解があったからでしょう? 彼らとは違う理由だもの。正直、ジゼルを追い返してくれて、ホッとしているのよ」
「彼女には、ちょっとした罪悪感があってね。そのせいで、強く抗議できずにいたのが、良くなかったな」
「罪悪感? ジゼルに?」
「……女性のほうが、噂話に耳ざとい」
タガートが、口を手で覆いながら、小さな声で言った。
バツが悪そうに、顔をそむけてもいる。
耳の端が、わずかに赤かった。
己の行為を恥じているらしい。
「ジゼルから、私のことを聞いていたのね、ゲイリー」
「……ほかに、方法がなくてね……」
とても恥ずかしそうに打ち明けるタガートに、ドリエルダは笑う。
それを、どう思ったのか、彼が慌てたように言った。
「だが、もう噂は信じない。必要なことは、きみに訊くよ」




