新たな時を動かして 2
婚約の解消後、ひと月ほどが経っていた。
あと少しで、今年も終わりを告げる。
冬特有の、どんよりとした曇り空の日が続いていた。
ベルゼンドの領地にも、そろそろ雪が舞い始めるだろうと、聞いている。
あれから、何度か、タガートに連れられ、領地で遠乗りをした。
今日も、出かける予定だ。
乗馬に適した服装をしている自分を、鏡に映して見てみる。
領民と会うこともあるので、魔術師に頼み、髪の色は茶色に変えていた。
「領主って、大変よね。羊の毛刈りまで手伝う人はいないって言われてたけど」
羊を飼っている領民と会った時に、毛刈りの話になったのだ。
領主直々に手伝ってくれる領地はないだろうと、彼らは言い、笑っていた。
タガートが苦笑いをしていたのを思い出して、ドリエルダは、小さく笑う。
彼は、自らを「良い」ように言われるのも苦手なのだ。
実際、手を洗ってくる、などと言って、そそくさと、その場を離れている。
きっと気恥ずかしさに耐えかねたに違いない。
彼自身は、特別なことをしている意識がないのだろう。
領民に対しても、やはり偉そうにすることはなかった。
「そういえば……彼のお父さまの評判は微妙だったわね。みんな、早くゲイリーが当主になればいい、みたいなこと言ってたもの」
思い出して、ちょっぴり恥ずかしくなる。
彼らは、ドリエルダを、タガートの婚姻相手だと考えているようだった。
悪評のあった婚約者と同じ人物だとは気づかず、彼女を歓迎してくれている。
申し訳ないような、複雑な心境にもなった。
だが、気さくに親しみを持って話しかけてもらえるのは、嬉しい。
「騙してるみたいで気が引けるけど……婚姻するかどうかなんて、わからないことだし……しばらくは、このままでいたい」
タガートとの関係は、修復されつつある。
大きく進展はしていないが、後退もしていない。
というより、婚約していた頃に比べれば、ずっと良くなっている。
タガートからは、そっけなさが消え、笑い合うことも増えていた。
「それにしても、私って、本当に貴族をわかってなかった」
婚約解消後、タガートは、シャートレーへの出入りができなくなっている。
ドリエルダがお茶に招くとか、なにか口実がなければならないのだ。
これは、上位貴族との関係に寄るらしい。
「なんでも上位貴族と足並みを揃えなくちゃならないなんて、すごく面倒よね」
タガートがシャートレーを訪ねるためには、まずブレインバーグ公爵に「相談」する必要があるのだとか。
どういった手続きかを教えてもらったが、はっきり言って、聞いているだけで、うんざりした。
まずブレインバーグ公爵が、ドリエルダの父であるシャートレー公爵に依頼して許しを得る。
承諾されれば、ブレインバーグ公爵からベルゼンドに連絡が入り、結果、そこでようやくタガートはシャートレー公爵家に出向くことができるのだ。
しかも、ブレインバーグ公爵が、シャートレーに出向くのも、いつになるかは、公爵の都合や気分次第。
頼んでいても、長らく放置されることも少なくないのだそうだ。
とはいえ、自家の上位貴族を無視すれば派閥の中でつま弾きにされる、という。
「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順なんだから、ゲイリーの上は、ブレインバーグ公爵だけってことでしょ? それでも、無視するわけにはいかないって……ゲイリーは苦労してそうね。ブレインバーグ公爵と、ソリが合うとは思えないし」
ドリエルダは、タガートにもらったネックレスを身につけ、部屋を出る。
そんなややこしい手順を踏むくらいなら、自分が出かけたほうが気楽だ。
いちいちブレインバーグ公爵を意識するのも嫌だった。
どんな「悪だくみ」をされるかもわからない。
「ブラッドだったら、なにかいい策を思いつきそうだけど……」
ブラッドには、もう頼れないのだ。
元々、手伝ってもらえたのが、特別だったのだろうと感じている。
ブラッドは「必要を感じないことはしない主義」なので。
(本当は……街に行って、お礼を言うべきなのよね)
階段を降り、玄関ホールに向かいながら、考えていた。
ブラッドのおかけで、タガートとの関係も良い方向に向かっている。
最初は、シャートレーの名が貶められないための婚姻解消だと思っていた。
だが、ブラッドは、タガートが「絶対に会いに来る」と言い、事実、それは現実となっている。
(ここまで織り込みずみで計画してたってことでしょ? 今、私が笑っていられるのは、ブラッドが協力してくれたから。なのに、中途半端に終わってる)
夜会の夜に借りたハンカチも返していない。
あのネックレスやイヤリングも、手元に残っていた。
ブラッドは返さなくていいと言っている。
とはいえ、どう考えても、ひょいっともらえるようなものではない。
協力してもらった礼を言い、ネックレスとイヤリングは返す。
それが正しい行動だ。
(こんなことなら、ブラッドのこと、もっとよく訊いておくんだった)
ドリエルダは、ブラッドが、どこの貴族屋敷に勤めているのかを知らずにいた。
王宮の料理人をしていたらしいが、かなり前の話らしい。
シャートレーの屋敷の料理長に、それとなく聞いてみたが、知らないと言われている。
(王族の人たちと仲良さそうだったから、お父さまに聞けば、なにか、ご存知かもしれないけど……)
さすがに、義父に、これ以上、迷惑はかけたくない。
料理人と王族の護衛騎士では、直接の知り合いではない可能性もある。
そうなれば、義父は、王族の人たちに聞いて回ってくれるはずだ。
考えると、絶対に頼めない。
ドリエルダは屋敷から出て、用意してもらっていた、馬にまたがる。
彼女が乗馬を始めた際、両親が与えてくれた馬だ。
大人しくて、よく言うことを聞いてくれるが、走り出せば、その能力の高さが、明確になる。
前脚と後ろ脚がくっつくほどの柔軟さで、飛ぶように駆けるのだ。
騎士たちに声をかけ、ドリエルダは、タガートとの待ち合わせ場所に向かう。
初めてではないので、見慣れた光景になっていた。
流れる景色を横に、まだ迷っている。
ブラッドに礼をするのは当然だ。
だが、ブラッドに会うためには、街に行かなければならない。
行けば、すぐに会えるわけでもないので、何日か通うことになるだろう。
(私は、あの時だって、お忍びで行ってた。なのに、噂になったのよ?)
髪の色を変え、顔だって隠していた。
ブラッドには、即座に気づかれていたが、彼は頭がいい。
ほかの人たちが同様に気づいていたとは言えないのだ。
そして、ブラッドは、噂を流すような人でもない。
そもそも噂を流す理由もないし。
けれど、結局、ブラッドと「宿のほうに行った」ことは噂になっている。
街に行けば、同じことの繰り返しになる気がした。
現状、落ち着いている悪評が、勢いを増してぶり返しかねない。
それを、ドリエルダは気にしている。
ひと月余りも街に出ていないのは、そのせいだ。
待ち合わせていた、ベルゼンド領の丘の上。
すでにタガートの姿があった。
タガートは、こうして会うようになってから、いつも彼女より先に来ている。
「ごめんなさい、待たせてしまったかしら?」
「いや、待ってはいない。私が先に来るようにしているだけさ」
「先に来るようにしているって?」
「きみが、私のほうに駆けてくる姿が見たくてね」
タガートに、口説いているつもりはない。
女性を口説き慣れた貴族子息とは異なり、甘ったるい台詞など、タガートの頭にないと、知っている。
今の言葉が「甘い台詞」との自覚もないだろう。
けれど、ドリエルダにとっては、違っていた。
頬が、ふわりと熱くなる。
誤魔化すように、風で乱れた髪を手で整えた。
「き、今日は、どこに連れて行ってくれるの?」
気恥ずかしさに、ドリエルダは、そそくさと話題を変える。
タガートが、行く方角を指さしてみせた。
「今日は、山羊の飼育をしている地域に行こうかと思っている。きみが、子山羊を見たいと、前に言っていただろう?」
「あなたは……写真を撮って、見せてくれたわ……」
子供の頃の話を、タガートは覚えてくれていたのだ。
ハーフォークの庭を散歩中に、タガートが子山羊の話をしてくれ、ドリエルダは見てみたいと言った。
次に会った時、タガートは、写真で子山羊を見せてくれている。
写真は、魔術師を使わなければ撮ることはできないのに。
「今日は、実物が見られるよ、DD。それに、昼には熟成のチーズも食べられる」
「とても楽しみだわ、ゲイリー」
ちくっと、胸の奥が痛んだ。
ブラッドに礼を言いたい気持ちはある。
だが、今の穏やかな日々を壊したくはなかった。
悪評が広まれば、タガートをまた傷つけることになるのだ。
(次に夢を見るまで……このままで、いたい……)
ドリエルダは、タガートに夢の話もできずにいる。
それでも、次に夢を見てしまえば、見過ごしにはできない。
タガートに話すつもりでもいるし、そうなれば、ブラッドとのことも話せる。
後ろめたいまま、ブラッドに会いには行けないと思った。
(もう少しだけ、時間をちょうだい、ブラッド。きっとあなたにお礼を言いに行くから……もう少しだけ……)




