対話の対価 4
ドリエルダは、全身が総毛立つような感覚に襲われた。
心臓が、嫌な感じに脈打っている。
ほんの少し明るくなっていた気分が、真っ暗になっていた。
タガートは、皮肉を言ったのではない。
冗談だったと、わかっている。
けれど、ドリエルダにとっては、冗談にはならなかった。
タガートの辛辣さの原因に気づいたからだ。
「私だわ……私が……」
「きみを責めるつもりで言ったわけではないよ? ああ、しまったな……慣れない冗談など言ったりしなければ良かっ……」
「そうではないの! 私……私……ごめんなさい、本当に……」
彼に、とんでもなく嫌な思いをさせていたに違いない。
婚約してから2年もの間、そのことで、タガートはドリエルダを責めずにいる。
口にしさえしなかった話だ。
おそらく、許そうと努力をしてくれていたのだろう。
「あなたに、どんな態度をとられてもしかたなかったのよ……私が、先にあなたを傷つけていたのだから……それも……2年以上……ずっと……」
「違う。きみが自分を責める必要はない。私が依怙地になっていたのさ。それも、もう変わった。今の私は、ちっとも気にしちゃいないよ。だから、きみも笑い話にしてくれないか?」
タガートは、自らの言葉を悔やんでいるらしい。
必死で、ドリエルダを宥めようとしている。
その姿に、胸が詰まった。
「……馬鹿だったの。浅はかだった……」
ブラッドの言っていたように、自分は「頭の悪い女」なのだ。
貴族の在り様をなんとなくはわかっていたが、理解はしていなかった。
その結果、タガートを巻き込み、傷つけている。
彼が冷たくなった理由も知らず、自分だけが傷ついている顔をしていた。
なにもかも、自分の不用意さが招いたことだったのに。
なおも、一生懸命、ドリエルダのせいではないと、タガートは説いている。
彼が、握ってくれている手に視線を落とした。
ドリエルダの頭を撫でてくれた12歳のタガートとは違い、大きな手だ。
その手を見つめながら、ある夜会の日のことを思い出す。
公爵家のみが集まる夜会だ。
ドリエルダは、シャートレーの両親に連れられ、出席していた。
2人がダンスをしているのを、彼女は、うっとりと見つめていた。
仲のいい両親の姿は、ドリエルダにとっては、心地いいものだったのだ。
実母は、いつもハーフォーク伯爵の顔色ばかり窺っていて、伯爵は、そんな母を見下していた。
そんな光景を見ていたので「仲のいい夫婦」がいること自体が、ドリエルダには嬉しかったのだ。
しかも、それが、義理であっても、自分の両親となれば、嬉しさも増す。
彼らのように、自分もなれるだろうか。
そんなふうに思っていたのを、覚えていた。
義理の両親を、憧れと尊敬のまなざしで見ていた時だ。
「ブレインバーグ公爵に声をかけられたの……」
良くも悪くもない印象だった。
少なくとも、その時は。
「私の髪を見ても、公爵は、眉をひそめたりはしなかったわ。とても普通に挨拶をしてくれたから……私……悪い人ではないって思ったの……」
貴族は、誰だって「表情」を作る。
今のドリエルダなら、ある程度は見抜くこともできた。
が、当時、彼女はまだ14歳になる手前。
大人の、しかも狡猾な貴族の思惑を察する力はなかった。
「公爵から、なにを言われた? 傷つけられたのかい?」
気遣うタガートの言葉にも、表情にも、胸がキリキリする。
申し訳なさに、心が締めつけられていた。
ドリエルダは、弱く首を横に振る。
「私が、ハーフォークにいたことを知っていて……そのハーフォークの、上位貴族のベルゼンドも、ブレインバーグの下位貴族だという話になったの。私は……あなたの話が聞けると思って……」
ブレインバーグ公爵に、うっかりタガートと知り合いだと言ってしまったのだ。
そこから、タガートの話になった。
ドリエルダは、ブレインバーグ公爵から聞かされる彼の話に夢中。
そして、警戒心をなくしていったのだ。
「最後に、公爵が、ふと思い立ったって様子で、私に訊いたわ……もうすぐ社交界デビューが近いですねって……」
12歳でハーフォークから逃れ、シャートレーの養女になった。
出した手紙への返事は、最初の1通だけ。
2年近く会えずにいたタガートに会いたかっただけなのだ。
「私……あなたに会いたくて……だから、社交界デビューの夜会で、あなたがエスコート役をしてくれないかしらって……公爵に言ってしまったの……エスコートしてもらえるなら、必ず会えると思ったのよ……とても迂闊だったわ……」
それを、ブレインバーグ公爵は利用したらしい。
今に至るまで、そんなことになっているとは、知らずにいた。
(誕生日の贈り物だなんて言われて、喜ぶ人なんているわけないじゃない……もし私が、そんなふうに言われていたら……)
きっとタガートを許せはしなかったはずだ。
信頼していた相手からの裏切りにも等しい。
自分は人として見られていなかったのだと、物扱いされていると感じただろう。
とくに、ドリエルダの場合は、強い拒否反応が出ていたかもしれない。
結局は、差別の対象でしかなかったのだ、と。
似た感覚を、タガートがいだいたのは、容易に理解できる。
いくらドリエルダが爵位を意識せずにいたとしても、現実には、身分や格は存在しているのだ。
シャートレーは公爵家であり、格もブレインバーグより高位だった。
その下位貴族であるベルゼンドの子息であるタガートは、どう思ったか。
まるで、市場で果物を取引するように婚約を決められ、なのに、それを拒絶することもできず。
それは、爵位という権力で、彼の頭を踏みつけていたのと同じだ。
どれほど悔しく、屈辱的だったことだろう。
この事実を突きつけて、責めたかったのではなかろうか。
だが、タガートは、なにも言わずにいた。
それどころか、最低限の礼儀を尽くしてくれていたのだ。
(私は夢の出来事を回避したくて、一方的に婚約の解消までした……ゲイリーが、どんな気持ちでいたのかも知らずに……なのに……彼は……)
ドリエルダに謝罪をし、彼女を擁護している。
もう1度、やり直したいと、機会をくれとまで、言ってくれた。
取り返しのつかないことをしたのは、自分のほうだ、と思う。
「……本当に、馬鹿よね……婚約は、あなたのほうが望んでいると……聞かされていて……その気になっていたのだから……頭が悪いにもほどが……」
「DD」
ぎゅっと、タガートに抱きしめられていた。
その胸に顔を埋めて、泣いてしまいたくなる。
自分が、情けなくてしかたがない。
けれど、頑なな理性が、ドリエルダに涙を堪えさせる。
泣いても、自分の言動の責任は取れないのだ。
(私は、平民なのよ……自分の爵位の重さなんてわからない、頭の悪い女……)
傷つく資格もなかった、と感じる。
穏便に事をすませるため、策を講じたが、それも間違いだった気がした。
夢の出来事の通り、タガートから、婚約の解消を言い渡されるべきだったのかもしれない。
とっくに彼を傷つけていたとも知らずに、自分の悪評にまでつきあわせていたのだから。
「きみが悪いのではないと言っているだろう? ブレインバーグ公爵は、狡猾な人だし、きみは、まだ14歳にもなっていなかったのだよ? それに……」
タガートの手が、優しくドリエルダの髪を撫でる。
口調にも怒りは感じられなかった。
「きみは、私をエスコート役にと望んでくれた。そのほうが重要じゃないかな」
「でも……そのことで、あなたを傷つけたわ……」
「ちっぽけな自尊心に、ちょっぴり傷がついた程度さ。なんということはなかったのに、大層なことのように、思い込んでいただけでね」
タガートが体を少し離す。
ドリエルダの頬にふれ、見つめてくる。
瞳は、あの頃のままだ。
青い青い、海の色。
この瞳に見つめられるのが好きだった。
自分が、差別を受けることのない、むしろ、特別な存在みたいに思えた。
「確かに、あの婚約は間違いだった。だから、もう1度、最初からやり直すことはできないだろうか」
タガートの真摯なまなざしに、ドリエルダは心を動かされる。
最初からやり直すことができるのなら、あの頃の2人に戻れるかもしれない。
正直、罪悪感が酷く、うなずいていいのか、迷っていた。
彼の優しさに、それこそ「つけ込む」ことになる気がしたのだ。
それでも、タガートと過ごした7年以上の月日をなかったことにはできない。
たくさんの思い出がある。
ドリエルダは、勇気を振り絞り、小さくうなずいた。
タガートが、喜んでいるような、少し困ったような顔をする。
「とても嬉しいよ、DD。とはいえ、私は、きみを、どこにデートに連れて行けばいいのかもわからないような、野暮ったい男でね」
遊び事を知らないタガートらしい。
頬にあるタガートの手に、ドリエルダは自分の手を重ねる。
そして、やわらかく微笑んだ。




