対話の対価 3
タガートは、テーブルに置いた承諾書を見つめる。
本当には、こんなものは不要だった。
婚約の申し入れと同じだ。
公爵家からの解消を覆す力など、侯爵家にはない。
承諾しようがすまいが関係はないのだから、黙っていても婚約は解消される。
書類など持ってくる必要はなかった。
だが、婚約の解消を言い渡されたタガートには、これしか方法がなかったのだ。
婚約者という立場がなければ、この屋敷に立ち入ることはできない。
執事が出て来て、門前払いをされてしまう。
今だからこそ、まだ取り次いでもらえたのだと、わかっていた。
今後は、シャートレー公爵家とは無関係な者として扱われる。
そうなれば、ドリエルダに会うには、夜会を渡り歩くしかない。
どの夜会に、彼女が出席するかもわからないままに。
「こうなって良かったと思っているよ」
「……そう……ええ、きっと……そうね……」
始まりが間違いだったと、タガートは思っている。
あんな形で婚約をしてしまったことで、ドリエルダをまっすぐに見られずにいた。
彼女や、シャートレー夫妻と話し合う必要があったのだ。
婚約を固辞し、別の方法を取っていれば、2人の関係は、これほど、こじれずにすんだかもしれない。
「きみは、彼と婚姻するのかい?」
「え……いえ、あの…………わからないわ……」
消え入りそうな声で、ドリエルダが返事をする。
不躾な問いだったのは承知していた。
ただ、訊かずにもいられなかったのだ。
婚姻が決まっているのなら、もうタガートに出る幕はない。
彼女の幸せを願うだけだった。
だが、どうやら、まだ決まっているわけではないらしい。
しかも、ドリエルダは、かなり曖昧な返事をしている。
(あの日は特別な関係に見えたが……それほど親密ではないのか……?)
夜会では、明日にでも婚姻しそうな雰囲気を感じた。
ドリエルダは、ブラッドに夢中といった様子だったし、ブラッドも彼女を自分のものだと言わんばかりの態度を取っている。
なのに、今はどうか。
うつむいて、自信なさげな姿に、タガートは心配になった。
ブラッドは、彼女より年上で、大人の男性だ。
態度はともかく、表情や感情が読めない相手でもある。
女性を弄ぶタイプには思えなかったが、必ずしもドリエルダの望みを叶えるとは限らない。
「今後のことは、まだ決めていない、ということだね?」
「そうよ……わからないの、先のことは……」
わからない。
同じ言葉を、ドリエルダは繰り返している。
タガートは、膝に置いた手を握り締めた。
「私は、卑怯な男だ」
「……どういうこと? 婚約のことなら、そんなふうに思っていないわ」
「そうではないよ。きみが、彼とうまくいっていないなら、そこにつけこみたいと考えている」
ドリエルダの瞳が、大きく見開かれる。
ひどく情けない気分ではあるが、正直な気持ちだ。
まだ自分に入り込む余地があるのなら、たとえ卑怯な奴だと言われてもかまわない、と思う。
「私に、もう1度、機会を与えてくれないか?」
「機会って……」
「きみと、やり直す機会だ」
彼女が幸せそうであり、婚姻も決めていたら、身を引くつもりではいた。
自分の願いは告げず、祝いの言葉を残して去っていただろう。
けれど、ドリエルダは、どちらかといえば、悲しげな顔をしていた。
婚姻についても「わからない」ばかりだ。
「もちろん、駄目だと言われてもしかたがないと思っている。私は、婚約者の役を果たしていなかった。というより、人としても酷い態度ばかり取っていたからね。きみが嫌だと言うなら、諦める。これ以上、嫌われることをする気はないよ」
「私……私は、あなたを嫌ったことなんてないわ……」
顔を上げ、ドリエルダが、タガートを見つめてくる。
その瞳に、どきりとした。
タガートは、自分の想いを伝えようと決め、この屋敷を訪れている。
それでも、そっけなくされるのが当然だと思っていた。
希望は、とても小さく、希望と呼べるほどのものですらなかったのだ。
少しでも話を聞いてもらえればいい、程度の。
「あなたのほうが……私を嫌っていると思っていたの……」
「私も、きみを嫌ったことなどない。今さらの話をするのは、言い訳がましいだけだがね。あの夜会の前まで、婚約の解消を考えたことさえなかった」
「でも、迷っていたのでしょう? あなたは、私と婚姻するのを躊躇っていたわ」
「それについて否定はしない」
タガートは、小さく溜め息をつく。
こうして話していると、自分の小ささが身に沁みた。
「きみに関心を持たれてもいないのに、婚姻しても不……」
「そんな! 私は、いつだって、あなたを気にかけていたのに!」
タガートの言葉を遮るほどの声に、驚いて口を閉じる。
ひと目で、ドリエルダに嘘がないことが、わかった。
タガートは、イスから立ち上がって、彼女の横に跪く。
膝にあったドリエルダの手を取り、その顔を見上げた。
「すまない。本当に、すまなかった。きみが、そんなふうに思っていてくれたとは気づかずにいて……私は、とても愚かだった」
「あなたに誤解させたのは……私の噂のせいでしょう? 自分で撒いた種だわ」
ドリエルダは、しょんぼりと肩を落としている。
その姿に、胸が痛んだ。
彼女は、己を責めている。
もしかすると、こんなふうに、ずっと責めてきたのかもしれない。
激昂して「夜会に来るな」と言ってしまった日のことを思い出す。
あの日も、彼女は、とても頼りなげに瞳を揺らめかせていた。
ドリエルダの話を聞かなかったのを、つくづくと悔やむ。
あの時、ちゃんと話していれば、彼女を傷つけずにすんだのだ。
そして、おそらく、婚約の解消にも至ってはいなかっただろう。
「噂に惑わされた私が悪いのさ。きみのせいではなくてね。呆れるだろうが、私はきみの周りにいた子息たちに、嫉妬をしていた。彼らは……私とは違って、華やかだろう? ああいう男性が、きみの好みなら、私は引っ掛かりもしないから」
ドリエルダが、目をしばたたかせていた。
想像もしていなかったと言いたげな仕草だ。
とたん、タガートは、まごついてしまう。
もとより、自分の心情を語るのは、不得手なのだ。
「ああ、その、きみは……自分の美しさを自覚しているはずで……私では、不釣り合いだと気づいたのじゃないかと……幼い頃の狭い世界ならともかく……だから、まぁ……なんというか……」
大いに真面目な気持ちで言った。
「きみが好むのなら、派手な身なりをするのも悪くはない」
少しの間のあと、ドリエルダが、ぷっと笑う。
それから、声をあげて笑い出した。
「そんな必要ないわ。あなたには、カチッとした執務服が似合うもの。あんな鳥の尾羽のような柄や色は、私の好みでもないのよ、ゲイリー……」
言葉の終わりで、ドリエルダは笑いをおさめ、困ったように眉を下げる。
タガートは、彼女の瞳を見つめて、微笑んだ。
「そう呼んでもらえて、嬉しいよ。私も、きみを愛称で呼ばせてもらえるかい?」
「え、ええ、いいわ……あなたが、嫌でなければ……」
「嫌なはずがないだろう」
胸の奥が、じんわりとぬくもりを取り戻していく。
久しぶりに、ドリエルダの笑顔に救われた思いがした。
もちろん、彼女に許してもらえたなどとは考えていない。
もう1度の機会がほしいなんて、虫のいい願いだとも自覚している。
ただ、ドリエルダは笑ってくれたのだ。
彼女から機会を与えられなくても、会いに来て良かったと、心から思えた。
タガートは、小さく笑った。
ドリエルダが、首をかしげている。
「本心を口にするのは、私が思っていたほど難しくなかったな」
タガートは、幼くして侯爵家を背負わなければならなかった。
周囲は、当然に大人だらけで、ベルゼンドの下位貴族も例外ではない。
子供だと侮られないよう、必死で築き上げてきた砦。
それは、彼に本心を語ることを拒ませていたのだ。
幼いタガートの心には、多くの弱音や愚痴があふれていたから。
そして、強過ぎる自尊心は、卑屈さの裏返しでもあると気づいている。
ブレインバーグ公爵の言葉に過剰に反応したのは、そのせいだ。
気づいてしまえば、霧が晴れたように、すっきりしていた。
「きみが、私を贈り物に選んでくれたと、喜ぶべきだった」
冗談のつもりで、タガートは軽く肩をすくめる。
少なくとも、ドリエルダが、ほかの誰でもなく自分を選んだことを、重要視していればよかった。
今となっては「贈り物」のほうに引っ掛かっていたのが、馬鹿馬鹿しく思える。
理由が何であったにしろ、婚約者に選ばれたのだ。
ドリエルダに、自由に会える権利を手に入れていたのに、行使せずにいた。
つくづくともったいない真似をしていたと、タガートは自嘲する。




