ひそひそ話の裏側で 1
国王と王太子が現れるまでには、まだ間がある。
だが、王宮の大ホールは、貴族で溢れかえっていた。
通常、王宮には公爵家のみ出入りが許されている。
それは、王宮の主だった重臣が、公爵家の当主で構成されているからだ。
王宮内には執務室もあり、敷地には別宅も設けられている。
こうした行事でもなければ、公爵以下の貴族は、許可なく王宮に足を踏み入れることはできない。
侯爵であるタガートも、これまでに数回しか立ち入ったことはなかった。
さらに下位の貴族であれば、1度も出入りした経験のない者もいるはずだ。
そのせいか、浮かれている貴族たちも多い。
広いホールが、熱気につつまれている。
ジゼルに腕を貸しながら、ホールの中を進んだ。
主役の登場までには、まだ時間がある。
ほかの貴族たちと同じように、飲み物を手に挨拶回りをする必要があった。
少なくとも、上位貴族であるブレインバーグ公爵には声をかけなければならない。
とはいえ、人が多くて、目当ての人物が、なかなか見つけられずにいる。
すれ違う人たちに軽い挨拶をしながら、ホールを見回した。
(まだ着いていないのか。あの人は目立つはずなのだが)
ブレインバーグは中堅どころの公爵家だが、現当主は、とても見栄張りなのだ。
外見にも服装にも、必要以上に気を遣っている。
気取りが過ぎて、変な目立ちかたをする人物でもあった。
好んでつきあいをしたい相手ではないが、立場上、無視することはできない。
不意に、ホール内のざわめきが、小さくなる。
誰もが、会話をいったん止めていた。
すぐに、ざわりと、今度は、ざわめきが広がっていく。
その不可思議な現象の原因は、ホールの入り口付近にあるらしい。
みんなの顔が、一様に、そちらに向いていた。
タガートもつられるようにして、顔を入り口のほうに向ける。
「……あの子が……来てしまったようですわ……」
隣からのジゼルの声も遠くに聞こえた。
視線の先に、ドリエルダの姿があったのだ。
しかも、1人ではない。
タガートの知らない男が、彼女をエスコートしている。
ジゼルに貸していないほうの手を、無意識に握り締めた。
今夜のドリエルダは、ひと際、美しい。
けれど、その装いは、タガートのためのものではないのだ。
「あのかたは、どなたかしら……見たことのないかたですね……」
周囲の反応も似たようなものだった。
貴族界隈で悪評高い、嫌われ者のドリエルダ・シャートレー。
彼女が連れている男は誰か。
その男を、知っている者はいないらしい。
そして、婚約者であるタガートにも、ちらちらと視線が向けられている。
「まさか、あの子が買ったという……」
「ジゼル、滅多なことは口にしないでもらいたい」
「申し訳ございません、タガート様……ですが……」
ジゼルの言いたいことは、わかっていた。
ドリエルダが男を買った、という噂が出てすぐのことなのだ。
彼女が買った男だと思われるのも、無理はない。
後ろに向かって梳き上げられた髪は薄茶色。
少し離れてはいるが、瞳が赤褐色をしているとわかる。
独特な仕立ての夜会服に包まれていても、体格がいいのは見てとれた。
その腕に、細身で小柄なドリエルダが手をかけている。
すぐにでも駆け寄って、その腕を引き離したかった。
けれど、タガートもジゼルを伴っている。
ドリエルダを責めることはできない。
当然、ジゼルを放り出すことも。
男が、ドリエルダの耳元に口を寄せる。
なにかを囁いているようだ。
周りの貴族らは、興味津々といった様子だが、誰も声をかけようとはしない。
醜聞に巻き込まれるのはごめんだからだろう。
誰もが、遠巻きに見ているだけだった。
そんな中、一般王族の1人が妃を伴い、2人に歩み寄って行く。
ひそひそという声が、その王族の名を語っていた。
トレヴァジル・ガルベリー。
歴代国王の中でも、大きな功績を遺したとされるガルベリー17世の曾孫だ。
一般王族なので、新年の祝賀行事である「お手振り」でしか、その姿を見ることのない人物だった。
そのトレヴァジルが、少しの躊躇いもない様子で、男のほうへと声をかける。
周りが聞き耳を立てているからか、ホールが静かになっていた。
そのせいで、会話がタガートのところにまで聞こえてくる。
「久しぶりだね、ブラッド。まさか、きみと、夜会で出くわすとはなぁ」
「お前は、昔と変わらず、空気が読めぬ男のようだな、トレヴァ」
「きみに言われたくないけれど。ところで、こちらはシャートレーのご令嬢かな」
周囲は、じっと2人のやりとりを見守っていた。
男が何者であるか、好奇心を満たしたくてたまらないのだ。
タガートとて、知りたくないと言えば嘘になる。
「ドリエルダ・シャートレーにございます、殿下、妃殿下」
ドリエルダが、礼儀にかなった挨拶をした。
その仕草は美しく、噂からは想像もできない姿だったに違いない。
今まで、彼女にあしらわれてきたと思しき貴族子息らが、顔を突き合わせ、ひそひそと囁き合っている。
「きみのことは知っているよ。もしよければ、私の側室に……」
「よせ。これは、俺のだ。少しでもふれようものなら、手袋を投げる」
「マジで?」
「マジで」
王族を王族とも思わない不遜な態度だ。
だが、トレヴァジルは、声をあげて笑う。
笑っているトレヴァジルに、妃が言った。
ホール内の誰もが気になっていることを。
「殿下、このかたを、ご紹介してくださらないのですか?」
「ん? ああ、きみは知らないかな。彼は、王族ご用達の料理人でね。とても腕が良かったのに、突然、去ってしまったのさ」
「料理人、ですか?」
妃が首をかしげている。
それも、そのはずだ。
たかが料理人が、王族と対等以上の口を利くなど許されることではない。
「彼は、とても特別なのだよ。だが、偏屈で欲がなくてねえ」
やれやれというように、トレヴァジルが、大袈裟に肩をすくめてみせた。
タガートも含め、周囲は困惑につつまれている。
料理人というだけでは、貴族か平民か、判断できないのだ。
家督を継がなかった貴族子息は、様々な職につく。
騎士を選ぶ者は多いが、中には、貴族学校の教育係、街で店を開く者もいたし、庭師になる者さえいた。
どこかの貴族の三男あたりが、料理人になることは、十分に有り得る話だ。
「爵位なんてあってなきがごとし、なのさ。あれだけの料理の腕を持っていれば、王宮の管理にも向いていると思うのだけれどなぁ」
「いいかげん、口を閉じたらどうか」
「では、その代わりに、今度、私たちに料理を振る舞ってくれるかい?」
「…………失せろ、トレヴァ」
「承諾してもらえて、よかった。きみの料理が食べられなくて、本当に残念だったからね。なるべく早く頼むよ」
トレヴァジルは笑顔で、ひらひらと手を振り、離れて行く。
とたん、周囲のざわめきが増した。
「あのかた、どこかの貴族の出ということでしょうか」
「さぁ、どうだろうね」
「家督の代わりに、新しい家名を与えようとされたけれど、断られたというお話に聞こえましたわ」
ジゼルに言われるまでもなく、タガートも同じ結論に達している。
本人が優秀であれば、そうしたことも稀にあるのだ。
王族からの推薦と、重臣の承認があれば、新たな家を興すことができる。
とはいえ、王族に口利きされた時点で承認されたも同然なのだけれど。
その男を「貴族」だと認知したのだろう、少しずつ周囲の者たちが2人に近づき始めていた。
爵位は不明だが、王族と気軽に話せる立場の男だ。
まずは上位貴族が声をかけている。
「アドルーリット公爵家の方々ですわね」
アドルーリット公爵家は、女系だが王族の血が入っている。
最も大きな派閥のウィリュアートン公爵家が姿を現さないため、こうした場では幅を利かせているのだ。
何度か夜会で顔を合わせたことのある子息が、声をかけている。
タガートは、その子息を好ましく思っていない。
「ドリーが街で会っていたのは、あのかただったのでしょうか。買ったというのが偽りだったとしても、あのかたとドリーは……」
「ジゼル、それ以上、言う必要はないよ」
ドリエルダは、ホールに入って以来、タガートのほうを1度も見ていなかった。
ひたすらエスコート役の男を見つめている姿に、胸の奥がひどく痛んでいる。




