あの頃に戻れたら 4
手紙を書け、とブラッドに言われた。
内容は、なんでもいいそうだ。
要は、タガートが手紙を読んでいるのかどうか確かめられればいいということ。
そんなことを確認する意味は、正直、よくわからずにいる。
『結果次第で、俺の対処が変わる』
と言われたが、ドリエルダは、ブラッドがどう対処する気なのか、知らない。
ブラッドのことなので、なにかしらうまくやるのだろう。
出会って5日、たった3回、会っただけ。
だが、四角いものを丸だと言ったりしない人だと、わかっている。
「無表情で、なに考えているのかわからないけど、頭はいいのよね」
ドリエルダが、すべてを説明しなくても、ブラッドは正しく先読みをしてきた。
いつも、心を見透かされている。
それが不思議と心地いい。
彼女のすることは、周囲にまるで理解されずにきたので。
「なんでもいいって言われても……あんなこと言われたあとじゃ書きにくいわ」
タガートの険しい表情を思い出すと、羽ペンが動かなくなる。
自室の書き物机の前で、ドリエルダは、長く唸っていた。
頭をかかえては羽ペンを握り、それを机に転がしては、また握る、ということを繰り返している。
「彼は私室に……ジゼルを平気で通しているのね……」
あの時、ジゼルさえ来なければ、自分の気持ちを伝えられたはずだ。
タガートが、私室という私的な場所にジゼルを招き入れていることに、不快感を覚える。
もっとも、自らの悪評を思えば、文句を言える立場ではない。
「私が、もっと会いに行くべきだったのよ。彼が来てくれるのを、ただ待っているだけじゃダメだったんだわ」
ドリエルダは、シャートレーで読み書きを覚えてから、最初にタガートへ手紙を出している。
その後も頻繁に出していたが、返事が来たのは、最初の1度きり。
だから、怯んでしまったのだ。
タガートは、ベルゼンドの次期領主として忙しくしている。
手紙の返事がないのは、そのせいだと、彼女は自分に言い聞かせていた。
そんな忙しい中、訪ねて行くのは迷惑ではないだろうか。
もし冷たくあしらわれたらと考えると、彼を待つほうがいいと思えた。
ハーフォーク伯爵家にいた頃には、彼の優しさはドリエルダに向けられていた。
その優しさを、婚約後は、いっさい見せてくれなくなっている。
いくら幼くても、タガートの変化に気づかないはずはない。
薄々ではあるが、14歳のドリエルダにも、わかっていたのだ。
タガートは、自分との婚約を望んでいない。
会いに行って迷惑をかけ、ますます嫌われたらと思うと怖かった。
タガートに望まれていない婚約だとしても、そのわずかな繋がりに、彼女は縋りついている。
ドリエルダは、首にかけたネックレスにふれてみた。
金色の細い鎖に、水色の滴型をした宝石がついている。
婚約の際、タガートにもらったものだ。
どこに行くにもつけている。
宝石は、彼女の髪色に合わせてくれたに違いない。
『きみの髪の色は、とても素敵だよ。けして、汚らわしくなどないさ』
5歳のドリエルダに、タガートは、そう言ってくれた。
わざわざしゃがみこみ、彼女の髪を撫でてくれたのだ。
とても優しい微笑みが、ドリエルダの記憶に、しっかりと刻まれている。
それから、7年の間、なにかにつけ、彼は、ドリエルダを気にかけてくれた。
「そのあと、必ず、ジゼルに嫌がらせされたけどね」
1つ年上の、姉とされていたジゼル。
実際には、姉であったことなどない。
ジゼルはドリエルダに対し、使用人以下の扱いしかしなかった。
そもそも、ドリエルダは、ハーフォーク伯爵家の「家族」ではなかったし。
タガートが来ている時以外、同じ食卓での食事はなく、部屋は屋根裏。
日々の食事は、使用人の食べ残しが出た時にだけありつける。
それさえない日は、水と生野菜を、ばれない程度に口にしていた。
葉野菜や果物は見つかり易いので、ほとんどはジャガイモやニンジン。
どちらも火が通っていなくて硬かったが、それをドリエルダは、屋根裏で1人、ガリガリと齧っていたのだ。
幼いながらも、彼女は生きる努力をしてきている。
使用人ならば仕事があるが、ドリエルダは、それすら与えられずにいた。
それなら無視してくれればよかったのだが、ジゼルは、ことあるごとに、彼女を虐め、苛んだ。
時には言葉で、時には暴力で。
罵詈雑言を浴びせられるのは日常。
タガートが帰ったあとは、決まって頬をぶたれた。
蹴られたり、突き飛ばされたりしたこともある。
それで、ドリエルダが痣を作ろうが、血を流そうが、誰も気にしなかった。
手当すら、ドリエルダは、自分でしなければならなかったのだ。
「でも、あの屋敷にいないとゲイリーに会えなくなるって思って……必死で伯爵家にしがみついて……馬鹿だったわ」
当時の彼女は読み書きもできず、なんの知恵も持たずにいた。
ひたすら耐えることしかできなかった。
それでも、耐えていれば、タガートに会える。
ドリエルダの希望は、それだけだったのだ。
「そういえば、あのパン屋さんは、どうなっているかしら」
12歳の誕生日。
タガートから贈り物が届いた。
高級なドレスと靴のセットだ。
嬉しくて夢見心地になったのは、束の間。
1つ年上のジゼルでも着られるサイズだったため、横取りされている。
ドリエルダは、初めてジゼルに反撃をした。
返してくれと頼んだが無駄だと知り、ジゼルを突き飛ばしている。
タガートからの贈り物を取り戻したかっただけだった。
突き飛ばされたジゼルは、大袈裟に喚き散らし、大騒ぎ。
現れたのは、ジゼルの父であるハーフォーク伯爵だ。
伯爵は、躊躇いもせず、ドリエルダを拳で殴った。
そして、血を流し、意識が朦朧としている彼女を、屋根裏に放り込んだのだ。
「あの時、もう駄目だと思ったのよね……このままだと、いずれ殺されてしまうんじゃないかって怖かったし……死んでしまったらゲイリーに会えなくなるなんて、まだそんなことも思ってた」
その日の深夜、彼女はハーフォーク伯爵家を抜け出した。
タガートのところに行くことも考えたけれど、すぐに見つかって連れ戻される。
そんな気がして、街のほうへと向かった。
思い浮かんだのは、あの「パン屋さん」だ。
タガート以外で、ドリエルダを助けてくれた人。
しかも、見ず知らずの相手だったのに、親切にしてくれた。
ジゼルに台無しにされしまった思い出ではあったが、ほかには行くアテも、思いつく場所もなかったのだ。
「逆光だったからかもしれないけど、朝陽に、あの人の髪が光ってて、すごく眩しかった。ボロボロだった私に、パンを食べさせてくれたのよね」
ふらふらとした足取りで辿り着いた先のパン屋。
ドリエルダを覚えていたらしく、出来立てのパンを食べさせてくれた。
人に助けてもらえるのは、これほどに嬉しいものなのか。
無条件の善意に、ぽろぽろと涙がこぼれたのを覚えている。
パンを食べ終え、うつらうつらしているところに、偶然、シャートレーの両親がパンを買いに来たのだ。
2人は仲が良く、街にもよく来ていたのだという。
朝食前、評判のパンを食べてみようという話になり、朝1番で買いに来た。
そこで、ドリエルダと出会った。
なにか色々と聞かれた気はするが、はっきりとは覚えていない。
殴られたあとだったし、夜通し歩いていて、疲れていたからだ。
パンを食べ、腹が満ちていたため、眠くなってもいた。
そして、シャートレーの屋敷で目覚めている。
「あのパン屋さんに行ってなければ、今の私はいない。なのに、私は、お礼をしに行ってないわ。あの時に、言葉で伝えただけ。助けてもらったのは、いい思い出だけど……原因を思い出すのが嫌で……」
誕生日の贈り物を取られたこと、伯爵に殴られたこと、死の恐怖と孤独感。
シャートレーに引き取られてからも、たびたび恐慌に陥ることがあった。
起きたらハーフォークの屋根裏にいるのではと、混乱の渦にのまれそうになったのだ。
それらが、あの日の出来事を「嫌な思い出」として、記憶の奥に封じた。
彼女はまだ、12歳だったから。
けれど、今のドリエルダは16歳だ。
今度、街に行った際には、あのパン屋を探そうと思う。
記憶が曖昧になっていて、場所はうろ覚えだけれども。
「私のいい思い出を、何度も台無しにしておいて、よくも姉の振りができるわね。私を、妹だなんて思ってやしないくせに。だけど、私がそう言えば、涙ながらに、彼に縋るに決まってる。今の私じゃ、ゲイリーに信じてもらえないし」
彼は、ジゼルの言うことを信じるのだろう。
妹思いの姉の気持ちを理解しない薄情な妹。
悔しく思っても、それが現実なのだ。
12歳の彼女の言葉を、いつでもタガートは真摯に訊いてくれた。
その頃に、一瞬でもいいから戻りたかった。
これほど、2人の距離が開いてしまう前に。
タガートの気持ちは、自分からは離れている。
ドリエルダは、羽ペンを放り出した。
以前は、なんの苦もなく書けていた手紙が、考えるほどに書けなくなっている。
どうせ彼は読んでくれないかもしれないけれど。