あの頃に戻れたら 3
自分の気持ちが、タガートにはわからなくなっている。
ドリエルダに諦めにも似た思いを持っていたはずなのに、感情が波立った。
彼女が「男を買っていた」と聞いたからだ。
本当に、ドリエルダを見放していたのなら、あれほど大きな衝撃は受けなかっただろう。
自分の中にある嫉妬心に、彼は気づいている。
だからこそ、困惑していた。
ドリエルダは、もう昔の彼女ではない。
変わってしまったと、自分も納得していたはずだ。
にもかかわらず、昨日のことを思い返すにつけ、嫌な気分になる。
ドリエルダが買ったという男のことが、気になってしかたがない。
そのせいで、ちっとも執務がはかどらずにいた。
「彼女は、どうして男を買ったりした?」
あまりに衝動的になり過ぎて、昨日は、話も聞かずに、ドリエルダを追い返してしまっている。
少し落ち着いて考えてみると、どうにも腑に落ちない。
彼女は、大勢の貴族の子息たちに、いつも取り囲まれていた。
遊び相手に事欠くようなことはないのだ。
わざわざ男を買う、どんな理由があったのかが、わからない。
見慣れた貴族の子息連中に飽きたのか。
新たな遊びを試してみたかったのか。
よほど気に入った男が、その手のことを生業としていたのか。
どれも釈然としなかった。
ドリエルダの悪評は様々あるが、特定の男と深い関係になっている、というものはなかったのだ。
そのせいで、より悪評が立ったとも言える。
男を弄ぶ放蕩な令嬢という意味で。
けれど、タガートは、そのことに安心していたと、気づいた。
ほかの男たちと遊び呆けていても、ドリエルダの心には自分がいる。
1度きりの関係に過ぎないのであれば、たいした相手ではない。
無意識に、自分は婚約者であり、彼女にとっては特別なのだと、思っていた。
そのドリエルダが、男を買ったという。
ならば、その男は、非常に特異な対象ということになる。
そうまでして手に入れたかった相手だったのではなかろうか。
「いったい……どのような男だ……彼女は、そいつに夢中なのか?」
また嫉妬に胸が疼く。
婚姻を迷ってはいたものの、婚約を解消しようと思ったことはない。
ジゼルの言葉に触発された形で、ドリエルダを試そうとはしている。
1度でもいいから、自分の言葉を受け入れてくれれば、彼女を許せるからだ。
そして、婚姻への迷いも吹っ切れると考えていた。
だが、最早、それどころではない。
ドリエルダの気持ちが、完全に自分から離れてしまったのではないかと、逆に、不安になっている。
もとより、ドリエルダを守るためにも、近々、開かれるであろう王族主催の夜会には来るなと言うつもりではいた。
だが、もっと慎重に言葉を尽くす気持ちもあったのだ。
あんなふうに突き放した言いかたをする気はなかった。
嫉妬と不安。
それが、タガートを衝動的にさせている。
常には冷静でいられるのに、彼女のこととなると感情が揺らいだ。
追い返す直前の、ドリエルダの瞳を思い出す。
傷ついた瞳だった。
「ずっと、きみを傷つける者から守りたいと思ってきたのに……私自身が、きみを傷つけてしまった……」
今さらに悔やんでも、放った言葉は取り消せない。
こんなはずではなかったのだ。
ひどく憂鬱な気分で、溜め息をつく。
それから、タガートは、書き物机の引き出しを開けた。
そこには、1通の封書がしまわれている。
封蝋の上の印璽は、うまく押されていない。
押し慣れていないのが、すぐにわかる。
その封蝋を崩したくなくて、丁寧にペーパーナイフで封書の端を切った日のことを思い出した。
中には、やはり慣れていないのがわかる、たどたどしさを感じさせる文字の並ぶ手紙が入っている。
取り出して開いてみた。
『ゲイリーさま。私は、シャートレーさまの娘になりました。これからは、このおやしきで暮らします。着るものや、食べるものが変わりました。人が、いっぱいいます。でも、ゲイリーさまがいないので、さみしいです。このおやしきにいても会いにきてくれますか? DD』
拙い文字だが、一生懸命に書いたのが伝わってくる。
本当は、この手紙をもらったあと、すぐにでも会いに行きたかった。
けれど、行けなかったのだ。
ベルゼンド侯爵家の上位貴族はブレインバーグであり、シャートレーには繋ぎを取るためのツテがない。
大派閥の公爵家に、推薦もなく立ち寄ることはできなかった。
返事を書きはしたが、それきりだ。
読まれたのかどうかすら、タガートは、確認せずにいる。
彼が再びドリエルダと会ったのは、彼女が14歳の社交界デビューの時だった。
ドリエルダの「ご指名」で、エスコート役をしている。
「あの時、きみはすでにDDではなく、ドリエルダ・シャートレーになっていた」
その日の前日、彼は、ドリエルダの婚約者となったのだ。
タガートが望もうと望むまいと、話は進められていく。
たとえ領地を持つ領主であっても、下位貴族は上位貴族に逆らえない。
傷ついたのは、自尊心か、侯爵家次期当主としての誇りか。
(夜会を無事にやり過ごせたら、改めて求婚しよう。彼女を、ほかの誰にも奪われたくはない。結局、それが、私の本音だ)
ドリエルダに対する嫉妬心を認めて、ようやく心がはっきりした。
ただ守りたいと思っていただけの幼い少女への想いは、慈しみから愛情へと変化している。
どんな悪評を耳にしても、この1通の手紙を、どうしても捨てられずにいた。
それは、これが彼女の本質だと、信じていたかったからだ。
昔のドリエルダはもういない、としながらも。
2年前、ブレインバーグから婚約の話が持ち込まれた際の屈辱感。
厳しく当たり過ぎていたのは、そのせいかもしれない。
彼女を正すとしながら、婚約後、ただの1度も優しくしたことすらないくせに。
「タガート様?」
ハッとして、顔を上げる。
扉の前に、ジゼルが立っていた。
「申し訳ございません。何度も扉を叩いたのですが、お答えがないものですから、中でなにかあったのかと……」
「ああ、いや、かまわないよ、ジゼル」
彼は、引き出しを閉め、立ち上がる。
少し不快な気分はあったが、冷静さを保った。
(ムーアは、ジゼルに甘いから、しかたがない)
執事のムーアの妻は、ハーフォーク伯爵家でメイド長をしており、ジゼルの乳母をしていたこともある。
だからだろう、ムーアは、ジゼルに甘いところがあった。
昨日にしても、ドリエルダが来ていると知りながら、簡単にジゼルを私室に通している。
とはいえ、安易に咎めることはできない。
タガートも、ジゼルを必要としていた。
ある意味では、利用していると言えなくもないのだ。
そのことに罪の意識がある。
(彼女のことは、ジゼルから訊くしかないものな)
情けないとの思いはあれど、タガートには、ジゼルしか情報源がなかった。
直接、ドリエルダには訊けないし、噂話を嗅ぎ回るのも、みっともない。
すでに、貴族の周辺からは、自分の婚約者を御することもできない男だと言われている。
下手に動いて恥を重ねれば、領民からの信頼も失いかねないのだ。
「それで、今日は、どうしたのかね?」
「昨日のことなのですけれど……不用意な発言をしたと悔やんでおりますの」
「実際、噂になっているのだろう?」
「ええ……私、とても心配で、つい……あの子に自らの行動を見直してほしかっただけなのです。ですけれど、2人を仲違いさせてしまうことになって……」
ジゼルは心細げに、両手を胸の前で組んでいる。
ドリエルダが姿を消した時も、真っ先にタガートのところに来たのはジゼルだ。
妹がいなくなったのだと、泣いていた姿を覚えている。
「気に病むことはないよ。あの程度は、仲違いというほどのことではないからね」
「そうですか……それから、あの……タガート様、夜会に私を、お連れ頂けませんでしょうか? 元は姉であった私が、ドリーの釈明をすれば、今より少しは周りの風当たりも弱まると思うのです。夜会には、主だった貴族のご令嬢の方々もいらっしゃるでしょうから」
ドリエルダに「来るな」と言った手前、タガートも欠席するつもりだった。
けれど、ジゼルの言うことにも一理ある。
ドリエルダの悪評が少しでも減ればと、タガートはジゼルの申し出を了承した。