あの頃に戻れたら 1
「ブラッド~、ご令嬢が呼んでるっぽいっス~」
「なんだと? 連絡があったのか」
「ブラッドの読みは、大外れってことっスね~」
へらへら笑っているピッピの後ろ頭をはたいてから、ブラッドは考え込む。
ベッドに腰かけ、腕組みをした。
隣に、ピッピが座っている。
勤めている屋敷で、ブラッドがあてがわれている部屋だ。
主となる建物とは別になっているが、中は廊下で繋がっていた。
こちらの建物も、勤め人の住居としては、かなり広い。
勤め人は、たいてい屋敷に住み込みで働く。
衣食住は、雇い主持ちなのが、常識でもあった。
だが、わずかな給金に、複数での相部屋となるのが、一般的なのだ。
1人1部屋あてがわれているのは、貴族でもめずらしい部類に入る。
というのは、勤め始めて、しばらく経ってから知った。
なにしろ、ブラッドは、ほかの屋敷に勤めた経験がないので。
ピッピの部屋は隣なのだが、さっき、ふらりとやってきた。
基本的に、勤め人の部屋に鍵はついていない。
自由に取り付けることを許されてはいたが、ブラッドもピッピもつけずにいる。
取られて困る物はなかったし、ほかの者が盗みを働くとも考えていないからだ。
「うまくいかんとは、妙だな」
「ベルゼンドの奴、もう決めてたんじゃないスか?」
「いや……あれの話からすれば、迷っていたと考えるのが自然だ」
「へえ~、そーなんスかー」
ぴくっと、ブラッドの眉が、ピッピの言葉に反応する。
やけに棒読みな言いかただった。
なにか思うところがある、というか、含みのある物言いだ。
「なんだ?」
「別に、なんでもないっスよ~」
「では、なぜそのような物の言いかたをする?」
「いやぁ、めずらしいなーと思って」
「しかたなかろう。俺とて関わりたくて関わっているのではない」
ピッピが大きな目を、精一杯、細めている。
疑わしいという目つきを、わざと作っているのだ。
ブラッドは視線を外し、眉を寄せる。
「見ておれんだろ」
「そっスね」
「あの調子では、いずれ大きな穴に落ちる」
「そっスね」
ピッピは、同じ返答しかしない。
それを、ブラッドも聞き流している。
ピッピに話しているというより、自分に言い聞かせているだけだった。
心の声を口に出している、といったふう。
「しかし、気になる」
「読みが外れたことスか?」
「そうだ。あれが、本音を伝えれば、奴の心は動くと思ったのだがな」
ブラッドの頭の良さは、自他ともに認めるほどだ。
滅多に「外す」ことはない。
多くの情報を持ち、そこから物事を先読みし、不測の事態すらも計算に入れる。
ほとんどのことは、ブラッドの予測の範囲を越えなかった。
「てことは~、情報が足りなかった? DDが、なんか隠してたとか?」
「それは、あるかもしれん。隠す気はなくとも、話しておらんことがあったとは、考えられる」
言って、ブラッドは、すくっと立ち上がる。
どうにも気になってしかたがない。
わからないことを放っておくのは気持ちが悪かった。
ピッピは座ったままでいる。
「これから行く気じゃないスよね?」
「なぜだ? 行くに決まっておろう」
「今から行ったら、かなり遅くなっちゃうじゃんスか~」
「それがどうした」
気になることは、すぐにでも解消したくなる性格なのだ。
明日まで待つ、ということができない。
どうせ気になって眠れはしないだろうし。
「泊まってくるんでしょ?」
「泊まる?」
「その気なら、そう言ってくんないと困るんスよね。シャーリーに言い訳すんの、オレなんスから」
シャーリーというのは、この屋敷の執事のことだ。
役割全般を取りまとめているため、ブラッドがいないことにも、すぐ気づく。
当然、問い質されるのがピッピになるのは予想できた。
が、ブラッドは、きょとんとした顔で、ピッピを見つめる。
「なぜ、泊まる必要がある? なにか、あれの身に危険があると言うか?」
ものすごく呆れた顔をされた。
それにも、思い当たる節がない。
ピッピが、なにを呆れているのか、さっぱりだ。
ブラッドは、おかしなことを言ったとは思っていなかった。
「男が、夜分に女の部屋を訪ねるって言えば……ねえ? なにかあったりしちゃったりなんかしてもおかしくな……あいてっ……」
ピッピの頭を、真上からゴツンと殴る。
民言葉では「ゲンコツ」と表現されていた。
いつもは、頭をはたくくらいのものだが、度が過ぎると、ゲンコツを食らわせることにしている。
「俺は婚約者のいる女と、そのような不逞なことをする男ではない」
「けど、向こうは、そう思わないかもしれないじゃないスか」
「それもなかろうな」
「言い切れる理由がわからないスよ」
ピッピは、少し不貞腐れたように、ぷいっとそっぽを向いた。
ゲンコツが気に食わなかったらしい。
「俺が、そういう男であれば、宿屋で事に及んでいただろう、と、あれは考える。ゆえに、夜分に俺が訪ねようとも疑ったりはせぬはずだ」
そうでなくとも、ドリエルダは、およそ「無」しかつかない女なのだ。
ブラッドを疑うくらいなら、そもそも呼びもしなかったに違いない。
だいたい、そんな女だからこそ「見てはいられない」のだし。
「朝までには戻る。シャーリーへの言い訳は不要だ。お前は、大人しく寝ろ」
「冗談でしょ?」
「本気であっても、無視するのだろうが」
「そっスね」
ふ…と息をつき、ブラッドは部屋を後にする。
屋敷の表からではなく、裏から外に出た。
星は出ているが、月はない。
薄暗がりの中を駆け出す。
ピッピの姿は見えないが、ついてきているはずだ。
宿屋でも、そうだった。
室内には2人だけだったが、どこかに潜んでいたに違いない。
ピッピは、会話の内容も、すべて把握している。
(そのほうが、俺も楽ができてよい。いちいち説明するのは面倒だ)
どうせ聞いたところで、ピッピが誰かに話すとは考えられない。
ブラッドが、4つの耳で聞いているのと同じことだ。
ピッピは、ブラッド以外の者の指図など受けやしないのだから。
執事に対してすら、本音で話す姿を見たことはなかった。
ブラッドの勤めている屋敷から、シャートレーの屋敷までは、それなりに距離がある。
とはいえ、馬車を使うことはできないので、走り通した。
夜がさらに深まった頃、ようやく屋敷に到着する。
もちろん警備の者はいたが、その目をかいくぐって忍び込むなど造作もない。
ドリエルダから聞いていた部屋の下に立った。
バルコニーの柱に、布が巻いてある。
ドリエルダと決めておいた合図だ。
ブラッドは、柱に手をかけ、軽く飛び上がる。
外装の装飾や出っ張りに手足をかけ、2階まで軽々と登って行った。
そして、すとんっと、バルコニーに降り立つ。
目の前にある大きなガラス窓に近づき、把手に手をかけた。
はあ…と、また息をつく。
これだから、と思った。
(俺が来ると思ったのだろうが、鍵をかけておらんとは不用心に過ぎる)
早目に来たのは正しかった、と思う。
この様子では、ブラッドが来るまで、何日も鍵を開け放していたはずだ。
万が一、そのせいで賊に入られたなどということになれば、寝覚めが悪いこと、この上もない。
ドリエルダは街に来た際、髪と目の色を変えていたので、魔術師を雇っているのは、わかっていた。
だとしても、魔術師は、魔力を持たない者の侵入には気づきにくいのだ。
警備の者もいるが、毎日のことでは、緊張も緩む。
始終、警戒することはできない。
事実、ブラッドは簡単に入り込んでいた。
(王宮の護衛を任されているシャートレーが、このような様ではいかんだろ)
呆れつつ、窓をゆっくりと開く。
わずかな擦過音も立てず、中に入った。
「……ブラッド?」
明かりは灯されておらず、中は暗い。
が、予測通りだ。
ドリエルダは眠っていない、と思っていた。
「うまくいかなかったようだな、DD」
声をかけたとたん、夜目の利くブラッドの目にドリエルダが駆け寄ってくるのが見える。
あの路地裏と同じく、彼女がブラッドに抱き着いてきた。
あの時とは違い、ぎょっとはしない。
よほどまずい事態になったらしいことが、その体から伝わってくる。
男2人に襲われた時よりもずっと、ドリエルダは震えていた。