努力はしたけど 4
やり直したい。
そして、本物の婚約者となり、正しく婚姻がしたい。
ドリエルダが言いかけた言葉の続きだ。
けれど、続けることはできずにいる。
扉の向こうにいる人物の前で話せるようなことではなかった。
それに、さっきまであったタガートの手のぬくもりが遠ざかっている。
急に扉が開いて驚いたからなのか、見られたくなかったからなのか。
不安と寂しさに、ドリエルダの心は、しょげていた。
とても自分の心を伝えられる状況ではなくなっている。
「ごめんなさい、私……あなたが来ているとは知らなかったのよ、ドリー」
ぞわっと、背筋が総毛立った。
詫びている言葉とは相反して、ジゼルは、小ホールに入ってくる。
悪びれていない証拠だ。
しかも、ドリエルダがハーフォーク伯爵家にいた時の呼び名を使っている。
未だに、自らのほうが立場は上なのだと誇示しているに違いない。
ドリエルダは脇に追いやっていた理性を、すぐさま引き戻す。
ジゼル相手に動揺した姿など見せたくなかったからだ。
『こんなもの、私たちが食べると、本気で思っているの、ドリー』
声が、頭をよぎる。
ドリエルダが十歳の時の記憶だった。
その時に、彼女は「家族」を諦めたのだ。
自分が伯爵家に人たちに受け入れられることはない。
その厳然たる事実を受け入れた。
ドリエルダの好意や善意など、彼らには無価値。
それを知り、打ちのめされている。
(悪いことが起きるのは、きまって冬ね……)
寒い日だった。
ドリエルダは金を握りしめ、徒歩で、街で評判だというパン屋に行った。
貴族の注文も受けていて、店主は雇い入れの申し出を受けることも多いらしいと、メイドたちが噂をしているのを、耳にしていたのだ。
当時のドリエルダは、読み書きも計算もできなかった。
連れ子に過ぎない彼女に教育なんて受けさせる必要はない。
伯爵の判断だ。
そのため、パンがいくらなのか、買えるのかどうかもわからなかった。
だが、時々、タガートにもらっていた「小遣い」を溜めた金で3つ買えている。
なのに、帰ろうとした際、そのパンを貴族の子供に奪われかけた。
その日のパンは、ドリエルダが買ったものが最後だったからだ。
横取りされかけたのを助けてくれたのは、パン屋の店主。
ドリエルダは、見知らぬ人に助けられたのは初めてで、とてもいい気分で帰宅。
2人の姉と弟に、そのパンを差し出したのだけれど。
(ジゼルに踏み潰されて……あんなことなら、1人で食べれば良かったわ)
今なら、そう思える。
けれど、十歳のドリエルダにとっては、深い傷になった。
踏み潰されたパンに、人に助けてもらった時の、暖かい気持ちまで踏み潰された気がした。
ひどく悲しかったのを覚えている。
だから、諦めた。
彼らと自分は違うのだ。
一緒に暮らしていても「家族」ではないのだ、と。
以来、ドリエルダは、ジゼルを姉だと思っていない。
ジゼルに「ドリー」と呼ばれると虫唾が走る。
その愛称に、良い思い出なんか、ひとつもなかった。
本当に、ただのひとつも。
「ジゼル、なぜここに?」
タガートの低い声に、ドリエルダの胸が、ほんの少し高鳴る。
声音から、タガートが腹を立てていると気づいたのだ。
(私との時間を邪魔されて怒っているの……?)
確信は持てないが、希望には縋りついていた。
もしそうなら、彼は、ジゼルより自分を優先している。
このあと、話を聞いてくれる可能性もあるに違いない。
ドリエルダは、タガートが、ジゼルを追い返してくれることを期待した。
「どうしても不安になってしまって……でも……そうですね、この子がいたほうが良かったかもしれませんわ」
ジゼルは、わざとらしく伏し目がちに、そう言う。
いつだって、タガートの前では、こんな調子なのだ。
そんな「お淑やか」な性格ではないと知っているドリエルダが見ても、しらけるだけなのだが、それはともかく。
(なにを言うつもり? 私がいたほうがいいって、どういうこと?)
不意に、ブラッドの顔が思い浮かぶ。
ブラッドなら、ジゼルの言いそうなことを簡単に当てられそうだった。
癪ではあるが、ブラッドは頭がいい。
「あなたは、タガート様の婚約者という立場を、いいかげんわきまえるべきよ」
「意味がわからないわ」
「最近、頻繁に街に出ていたそうね」
瞬間、体がこわばる。
なぜジゼルが知っているのかはともかく「やられた」と思った。
否定しようかとも思ったが、やめておく。
下手に嘘をついても、すぐにばれるだろうし、ばれれば傷口が広がるだけだ。
「それがなにかしら? 街に出るなんて、めずらしいことではないわ」
「噂になっているのよ?」
「どうせ禄でもない噂でしょう? 教えてもらわなくても、私に関して、まともな噂はないと知っているわ」
ジゼルが、深刻そうな顔つきを「作って」いる。
その演技力と滑稽さに、王宮道化師にでもなればいい、と思った。
「今度は、どういう噂だ?」
タガートの言葉に、ドリエルダは怯む。
さっきまでは味方をしてくれると信じられたが、風向きが変わったのを感じた。
厳しい口調は、問われたジゼルではなく、ドリエルダに向けられている。
「それは……」
「かまわないから、教えてくれ」
ジゼルは、なにを言うつもりだろう。
街に出ていたのは事実だが、後ろめたいことはなにもしていない。
そう思っているのに、ひどく落ち着かない気分になる。
(どうか……ゲイリー、私を信じて……ジゼルの言うことなんて信じないで……)
願うドリエルダの前で、ジゼルは相変わらず「淑やか」ぶって口を開いた。
さも言いにくいという様子で。
「この子が……街で男のかたを買っている、という……」
「嘘よッ! そんなのでたらめだわ! よくも、そんな嘘っぱち……っ……」
「あなたが、男の人と宿屋のほうに行くのを見たという人がいるのよ、ドリー」
ブラッドのことだ。
ドリエルダは、反論できず、口を閉じる。
タガートの視線を感じた。
ひどく冷ややかなのが、わかる。
「それは本当か?」
「何日も街で物色をしていたと……」
「ジゼル、少し黙っていてくれ。私は彼女に聞いている」
ドリエルダは、力なくうつむいた。
やはり、ブラッドのことが頭をよぎる。
(あなたの言う通り……私って、頭が悪いのね……どう説明すればいいのかわからないわ……)
なにもなかったとはいえ、宿屋に行ったのは事実だ。
しかも、相当に怪しげな宿屋であったのも否めない。
雰囲気から察するに、男女の密会に使用される場だろう。
「ただの噂か?」
悪意のある噂に過ぎないと、突っぱねることはできる。
ジゼルは「宿屋のほうに行った」としか言っていない。
つまり、入るところまでは見られていないのだ。
決定的な証拠がないのだから、言い逃れられる。
けれど、ドリエルダに、その選択肢はなかった。
タガートに嘘はつきたくない。
今までも、できる限り、正直であろうとしてきたのだ。
ジゼルの言葉の半分は、認めるざるを得なかった。
彼が話を聞いてくれると信じて、口を開いたのだけれども。
「宿屋に行ったのは、本当よ。でも、男の人を買ったわけではないわ。雇い入れの話をし……」
「きみの話は信じられない。だいたい、その男を雇ってどうするつもりだった?」
ドリエルダは、返答に窮する。
まさかジゼルを誘惑させようとしていたとは言えない。
今後、起きる事態を回避するためだが、夢の内容は話せなかった。
彼が信じてくれるかどうかに関わらず、言えるはずがないのだ。
10日だか20日後くらいに、私、あなたから婚約を見直すって言われるの。
こんな話を、どうやってすればいいというのか。
しかも、ジゼルの前で。
「…………もういい」
一段と低くなった声に、びくっと、体が震える。
タガートは、きつく眉を寄せ、目を伏せていた。
なにか弁明したくても、なにも思いつかない。
そのドリエルダに、彼が冷たく突き放すように、言う。
「王族主催の夜会だが、きみは来ないでくれ。私のエスコートも期待はするな」