最悪の果てに 1
「それは……どういう意味でしょう?」
「言った通りの意味しかない」
つっけんどんな口調で言い捨てられ、ドリエルダは体中に痛みを感じる。
ちくちくと、全身に棘を刺されているようだ。
ひどく不快で、嫌な気分になる。
言われたことの意味はわかっていても、理解したくなかった。
彼女は、シャートレー公爵家の1人娘だ。
そして、目の前にいるのは、婚約者。
「ゲイリー、私は……」
「愛称呼びはやめるように言ったはずだ、シャートレー公爵令嬢」
ずきりと胸が痛む。
その痛みを押し隠し、冷静さを装った。
冷ややかな態度やぞんざいな物言いをされても、ドリエルダは、彼を信じていたからだ。
愛称呼びをやめるのにも、きっと理由がある、と。
(立場が変わったから、だよね。私たちは婚姻前だし……あまり親しげに振る舞い過ぎるのは良くないから……)
彼に愛称呼びをやめるように言われたのは、婚約後だった。
自分たちの親密さを、婚姻前に周囲に見せつけるのが躊躇われただけだと、言い聞かせる。
彼女自身、あまり信憑性を感じられずにいるが、理由として成立しなくもない。
「2人きりの時も気にする必要があると思っていなかったのよ、タガート」
「今後は気をつけてくれ」
彼の濃い青色の瞳が、いつになく冷たく見えた。
尖った槍の先のような形をしているが、笑うと、ひどく優しい目になる。
ドリエルダは、それを知っていた。
が、いつ頃からか、整った口元が緩められることはなくなっている。
笑顔を見たのが、いつだったのかも定かではなくなりかけていた。
今も、彼はドリエルダを見ていない。
横を向き、煩わしげに薄い金色の髪をかきあげている。
短めの髪が指を通り抜けていくのを、彼女は、じっと見つめた。
背が高く、体格もかっちりしていて貴族服が、とてもよく似合う男性。
ベルゼンド侯爵家子息タガート・ベルゼンドは、ドリエルダの婚約者だ。
彼女が14歳の時に婚約し、すでに2年が経っている。
ここ、ロズウェルド王国では、14歳で大人とされていた。
ただし、16歳になるまで、基本的に、どういうことにも親の承諾がいる。
自分の意思のみで物事を決められるようになるのは、16歳からなのだ。
ドリエルダは、今年、その歳になった。
婚約期間が長かったのは、タガートが待っていてくれたからだと思っている。
婚約に関して、ドリエルダに異論はまったくなかった。
とはいえ、親が決めたものであるのも事実だ。
タガートが、ドリエルダに求婚したわけではない。
当時、ドリエルダは、社交界デビューをしたばかりだった。
7つ年上で、21歳のタガートが、そんな少女に求婚などするはずがない。
お互いに面識があり、親しくしていた頃もあった。
だが、タガートに恋愛感情をいだかれていると感じたことはない。
ドリエルダのほうは、淡い恋心をいだいていたが、それはともかく。
「今日の夜会が、どういうものか、わかっているの?」
「わかっている。だからこそだ」
タガートが、ようやくドリエルダに視線を向ける。
その視線を受け、彼女の背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
ここから、すぐに立ち去らなければ、酷い事になる。
そんな予感がした。
けれど、立ち去ることはできない。
ここは、ベルゼンド侯爵家の、タガートの私室だ。
出て行けば、自分の屋敷に帰るしかない。
それは、つまり、タガートの言葉にうなずいたも同然となる。
「私は、あなたの婚約者よ? なぜ夜会に一緒に行けないのか、わからないわ」
夜会において、婚約者を伴うのは当然だ。
そのため、今夜もエスコート役をしてくれると、思っていた。
婚約者がいない、もしくは病などで出席できないという場合、代役を立てるのもわかる。
けれど、ドリエルダは病ではないし、2人は婚約しているのだ。
同伴しない理由がない。
「きみは、私の言ったことを聞いていなかったようだ」
タガートが、苛々した様子で、小さく頭を横に振る。
それから、ドリエルダに、手を差し出した。
己の意図を明確にする、といったふうに。
「一緒に行かない、ではない。きみには、夜会に来ないでくれと言ったのだよ」
突き放す言いかたに、ドリエルダは動揺する。
彼の本気を、ひしひしと感じていた。
同じ馬車に乗らないだとか、エスコート役をしないだとかではない。
彼は、本気で、ドリエルダに「夜会に来るな」と言っているのだ。
「今夜は……特別な……」
「同じことを」
ドリエルダの言葉を断ち切り、タガートが、呆れたように溜め息をつく。
さっきも「特別な夜会だからこそだ」と言われたのを思い出した。
今夜は普通の夜会とは違う。
特別な夜会だ。
ドリエルダも、そこはかとない期待のようなものを持っていた。
今夜、タガートから正式な求婚をされるのではないかと。
王族主催で開かれる王宮での夜会。
今日は、現国王ルイシヴァ・ガルベリーの息子スペンシアスの16歳の誕生日。
大人とされるのは14だが、16歳は自立の歳であり、王族も祝宴をすることが少なくない。
常には王宮に入れない下位の貴族も呼ばれ、大掛かりで、華やかな夜会となる。
王族は、無駄遣いを嫌いがちだ。
こうしたことでもなければ、夜会を主催すること自体がめずらしい。
年に何回もあるような行事ではないと言える。
それほど特別な夜会に、ドリエルダは、婚約者から「来るな」と宣告されているのだ。
「理由を訊かせて」
声が震えそうになるのを、なんとか抑えつけるため、短い言葉を返す。
本当には、声どころか体中が震えているように感じていた。
今にも冷静さの糸が切れ、タガートに詰め寄ってしまいそうだ。
なぜ? と。
が、ドリエルダは、こうした難局に慣れている。
慣れたくもなかったが、過ごしてきた日々が、彼女に冷静さを押しつけていた。
動揺してはいけない、焦ってはいけない、と理性が強く働きかけてくる。
「わからない、とでも?」
「わからないわ」
「今夜は、大勢の貴族が集まる」
「それが? たいていの夜会には、貴族が大勢いると思うけれど?」
「その大勢の貴族のうち、きみに好意的な者はいるか?」
ぐっと言葉に詰まった。
ドリエルダの「悪評」は、貴族の間に広まっている。
自分が嫌われ者である自覚はあった。
公爵との爵位がなければ、どの夜会にも出入りを禁じられていただろう。
婚姻前の子息を誘惑し、破局に追い込んだとか。
平民の子を奴隷のように買い取り、こき使っているとか。
深夜に街で酒を飲み、大騒ぎをしたとか。
サロンの特別室を、半月も借り上げていたとか。
とにかく「醜聞」には事欠かない。
だから、ドリエルダは「大勢」の貴族から嫌われている。
彼らが、表だっては何も言わずにいるのは、彼女の爵位の高さゆえだ。
裏で、どれほど嘲られているかくらい、ドリエルダだって知っていた。
彼女が夜会に姿を現すと、令嬢らは、ひそひそ話を始める。
大人たちは眉をひそめ、顔をしかめる。
笑顔を向けてくるのは、ドリエルダの両親の前でだけだ。
それだって、愛想笑いに過ぎないと、わかっていた。
(でも、それには意味があると、彼も知っているはずなのに……)
彼女とて、好きで外聞の悪い真似をしているのではない。
しなくてすむのなら、そのほうがいいに決まっている。
ただ、どうしても見過ごしにはできないことがあった。
その気持ちを、両親とタガートは知っている。
それを支えに、誰からどう言われようと、嫌われようと、ドリエルダの中にある正しさを貫いてきたつもりだった。
その支えが崩れようとしている。
彼女の婚約者である限り、否応なく、タガートは「醜聞」に巻き込まれるのだ。
両親は、いつも「気にするな」と言ってくれるけれど。
「つきあいきれない、ということ?」
ドリエルダの正しさは、彼女だけのものだった。
彼につきあう義務はない。
わかってはいたが、ドリエルダは、タガートもまた正しくあろうとする人だと、ずっと信じていたのだ。