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泡影

作者: 面映唯
掲載日:2021/04/21

 若くして難病を(わずら)った娘に、「こんなことなら恋愛くらいさせてあげればよかった」、と嘆く厳格な母親の親身さは、プロ野球選手が不調のときに叩かれるような(てのひら)返しの様だった。病床の上。()いていない蛍光灯。カーテンレールの四角い枠。うんざりしてしまう見慣れた天井から、無意識に目を逸らしたくなった。上半身を起こした。左側に身体を捻ると、窓の外には河川と河川敷。天井よりはいくらかましだが、これもまた、うんざりするほど見慣れた景色だった。

 飛鳥(あすか)は保健室のベッドの上にいた。(あわ)い青の検診(けんしん)()は着ておらず、白のワイシャツの襟からは赤いリボンが覗き、下は紺のスカート姿だった。窓の外に映るのは河川や河川敷ではなく、中庭だった。中庭の向こう側には北校舎が建っている。廊下の連なる窓の一つひとつから、教員や生徒たちの姿が筒抜けだった。

 唯一、飛鳥の妄想と現実を照らし合わせて重なるのは、うんざりするほど見慣れた景色、ということだけだった。

 実際、飛鳥が保健室を訪れるのは、月曜と木曜、週に二、三度だった。普段はホームルームが終わればそのまま帰宅してしまうのだが、月曜と木曜だけは勝手が違った。飛鳥の家は1Kであり、部屋と呼べる部屋が一つしかなかった。ワンルームの部屋の真ん中にこたつの机が置いてあり、寝る際はその机をどかし、クローゼットの前に三つ折りにされている敷布団を並べて寝る、といった具合だった。

要するに、自分の部屋というものがなかった。


 飛鳥は母親と二人暮らしだった。

 母親とは、仲が悪いわけではない。かといって女二人、休日に一緒にランチに出かけるというほど仲がいいとも言えない。自我を殺し、取り(つくろ)えば、傍から見れば仲のいい親子に見えるだろうが、それは一般に言うコミュニケーションの範疇(はんちゅう)だった。できれば母親と一緒に暮らしたくないし、母親と会話せずに済むのなら会話せずにいたい。別に嫌いではないが、飛鳥にとって母親は苦手な対象だった。クラスに一人か二人はいる、「何かよくわかんないけど苦手なんだよな、この人」といった枠組みの中に分類されていた。

 普段から夜の仕事をしている母親は、飛鳥が朝起きても寝ている。川の字に並べられた敷布団の隣で、すやすやと眠っている。起こすのも悪いので、忍び足でキッチンへと向かう。ゆっくりと部屋の扉を閉め、一人だけの空間にする。シンクの横にはいつも朝食が用意されていた。お盆の上に茶碗、お椀、サラダの乗った皿、箸。かけられているラップの内側には、大きな水滴がついている。

「別に二度寝してまでしなくてもいいのに」

 母親を起こさぬように布団を片づけ、ひっそりと高校へ登校する。学校が終わり、帰宅しても家には誰もいない。夜になれば敷布団を二枚敷き、そして寝る。こうして母親と話すことなく一日が終わる。


 月曜と木曜は、母親の休日だった。月曜と木曜の夜、翌日の朝は母親と対峙(たいじ)し、話すことを余儀なくされる。話す内容は他愛(たわい)もないこと。「学校はどう?」

うんざりするほど聞き慣れたセリフだった。

 そのセリフに対して飛鳥がする返答もまた、うんざりするほど母親にとって聞き慣れたセリフだったことだろう。


 月曜と木曜は、ホームルームが終わると保健室へと行くことが常だった。養護教員は優しく、放課後ということもありベッドは空いているためか、快く飛鳥のことを受け入れてくれる。(たま)に部活動で怪我をした生徒が訪れるくらいで、保健室を利用する生徒はほとんどいなかった。偶に訪れる怪我をした生徒の手当てを、飛鳥が手伝うこともあった。

 その手伝いのひとつが出会いだった。

 その日、うんざりするほど見慣れた景色が変わったような気がした。



   ***



 彼が自殺したと知った日、生憎(あいにく)、飛鳥は高校をさぼって街に出ていた。その日の学校は(かつ)てないほど騒然としていた。

 しかし、その騒然としていたのも束の間。怠惰な生徒が偶々(たまたま)ドアの外を眺めており、渡り廊下から中庭に人が落ちた瞬間を目撃して「やばい、やばい」、と立ち上がりながら連呼する。生徒は慌ただしくなり始めるが、教員は「うるっさい。静かにしろ」と相変わらず授業を続ける。それでも鳴り止まない生徒の私語に、仕方ない、と教員は様子を見に行き、二時限目の後半三十分の授業は中断。やがて救急車のサイレンが響き始める。数分して再び鳴り、遠のいていく。

 騒然としていたのは、救急車のサイレンが遠のくまでだった。

 放課後になれば、生徒たちはいつも通り部活動へと出かける。

 うんざりするほど見慣れた景色に舞い戻る。

 夜、飛鳥の元に友人からメールがあった。

(ゆう)()くん、自殺したらしいけど……」

 らしいってなんだよ……らしいって。けどってなんだよ、けどって……。

 夕食を共にしていた母親は、食事中に携帯電話に触れる娘を怒ろうと思ったようだったが、すんでで息を呑みこんだようだ。

「真面目ない人ほど、生き急いじゃうんだよね……」

 飛鳥が視線を上げたとき、母親の頬に涙の粒が伝っていた。

 音が消えてしまったかのように、自分の聴覚がなくなってしまったかのように、母親は、う゛う゛ーあ゛ーと、泣くというよりかは(うな)っていた。その奇妙な(うめ)き声に、飛鳥は身体を震わせた。目の前で泣き崩れ、大声で唸る母親。呆然自失の自分。俯瞰(ふかん)した部屋の間取り。落差。対比。

うんざりするほど見慣れた景色――は再びどこか遠くへ吹っ飛んだ。

 顔がゆっくりと(しお)れた。視界が潤み揺れている。

 白い(もや)が視界を覆う。

 熱いものが(はら)の底から噴き出した。

 赤い靄が視界を覆う。

 数十分間――。



   ***



 祐希が飛鳥の母親、()江子(えこ)の元を訪れたのは、月曜日の放課後だった。突然現れた男子生徒に、左江子は当然びっくりした。「大事な話があります」と言うので家の中に上げた。

「狭い家でごめんなさいね」左江子はワンルームの部屋に案内しようとしたが、祐希はそれを制した。軽く俯きがちに、軽く口角を横に引っ張る。玄関で立ち尽くし、動く様子が見られなかった。キッチンの前を歩きかけていた左江子はその様子に気づき、「どうしたの?」と玄関まで歩みを戻した。

「左江子さんは知ってますか? 俺のこと」

「ええ」

 自分のことを知らないかもしれないという一縷(いちる)の想いは、そこで(はかな)く消えた。真っ正面から向き合わなくてはいけないという現実味が、祐希の身体全身に襲ってきた。左江子の風貌から伝わる貧相と弱弱しい身体つき。そして、その細々しい身体を使う態度が、祐希の胸を熱くした。「どうしたの?」その声が目頭を熱くした。

 いたたまれなくなった。

 学校では表情一つ変えないクールな生徒。

 彼の表情が萎れた。心は枯れているのに、表情だけは潤いを保ち続けた。

 夕方の扉の閉まった玄関は暗い。三和土(たたき)に膝をつき、手を突き、後頭部を見せるほど首を丸めた。顔が上げられなかった。

 涙が一つ、目と鼻の先の床に落ちた。

 この人はすべてを知った上で、自分に優しく接している。左江子と対峙し、それを肌で実感した祐希は、腹の底から溢れ出て止まない数年分の想いに蓋をすることができず、吐き出すように叫んだ。

「すみませんでした」、と。

 左江子はしゃがんだ。手をぽんっと祐希の頭の上に置いた。

「今まで辛かったでしょう。優しい子なのね」

「どうして……」祐希は頭を上げられずにいた。「どうしてそんな態度でいられるんですか……」

「もっと泣き叫んで、顔でも殴られる想像してた?」

「い、え……」

「私にそんなことできないわよ。いくらあなたに過失があったとしても、当時四歳だったあなたのことを殴る気にはなれなかったし、それは今でも同じだから」

「でも!」そこで祐希は勢いよく顔を上げた。

 視線の先。

 そこに見えたものが眩しくて。

 よれよれのトレーナーに細々しい腕。頬のこけた表情が、どうにも似つかわしくなかった。

 告別式――自分がなぜここに居るのか訳も分からなかった日。遠足気分で訪れた場所では、木魚(もくぎょ)の音とお(きょう)の声が断続的に響き渡っていた。焼香の列に並んだ際に見えた左江子の顔。黒い服に包まれ、ハンカチをポケットから取り出そうとしたのをこの目で見ていた。だが、左江子がハンカチを取り出して目頭に当てることはなかった。取りかけたハンカチをスッとポケットに戻し、凛とした態度で焼香に来た人々に頭を下げていた。

 背の低い当時の祐希には見えていた。

 頭を下げたときだけ見せる、一瞬の憂いを。

「でも、俺は左江子さんの旦那さんを殺したも同然で……」

「幼い子にライターの使い方なんてわからないわよ」

「そうじゃなくて……俺の親父が……旦那さんと仲が悪くて、それで……」

「それで? それで幼い息子にライターを渡して、好奇心旺盛なあなたが過って私たちの家に火を点けたって? 推理小説の読みすぎなんじゃないの?」

「でも、家の周りには不自然なガソリンが()かれてたって……。それにちゃんと旦那さんだけが家にいる時間をつきとめて放火したって……」

「そうねえ。犯人の思惑が旦那だけを殺して、嫁と娘だけを残すっていうことだったんだとしたら、相当手()()れよねえ。見ての通り、お金はないし、貧乏だし、働き漬けよ」

 その言葉が祐希にずっしりと伸し掛かった。開いた口がふさがらなくなり、再び頭を下げなければ、という思考にたどり着く。

 おでこを床につけようとした祐希を、左江子は制した。

「そんなことあなたは考えなくていいの。あなたにはあなたの人生がある。ずっと私たちのことを考えてくれてたんだったら嬉しいけど、それはあなたのためにはならないわ。

人に気を遣うのって疲れるでしょ? 普段の生活とか、社会人になればよくわかると思うけど、私たちの生活にありふれてるじゃない? 学校の先生とか先輩、目上の人には特に礼儀正しくいなきゃならない……その気遣いの何十倍もの気遣いをあなたは何年も続けてきたってことよ。それはすごいことだし素晴らしいと思うけど、あなた、自分自身のこと、考えたことある?」

 祐希は答えられなかった。

「罪悪感を理由に生きちゃ駄目よ。あなたが負い目を感じる必要はないわ」

 顔を両手で覆う祐希の背中を、左江子はさすった。

「そんなことよりさ、うちの娘、学校でどう? 訊いても同じような言葉が帰ってくるだ帰ってくるだけで全然わからないのよ」

「いい子ですよ。俺なんかより何十倍も」



   ***



 東京の夜空が綺麗だ、と思うのはおかしいことだろうか。そりゃ、田舎のリアルプラネタリウムには劣る夜空が綺麗だ、と思うのはおかしいことだろうか。そりゃ、田舎のリアルプラネタリウムには劣るのかもしれないが、それでも飛鳥は東京の夜空や夜景が好きだった。

 仕事帰り、一緒に帰りませんかと後輩に誘われ新宿まで来たが、隣に人が一人増えようと、一人で夜空を見上げ、夜景を眺めることに蛇足はない。人がいくらいようが、綺麗なものは綺麗だった。ただちょっとだけ、一人で見る方が多くの景色を視界に収められるというだけ。

 学生時代、罪人の息子と何度も眺めた景色は今も健在。河川の向こうに観覧車が見える、と夢想する。一つひとつの明かりがネオンのように光る。歌舞伎町の街は光で満ち満ちている。

 歩きながら「綺麗だなあ……」と思わず零す。

「ええ? そうですか? 環境に悪いし煩いですよ」

 飛鳥にとって綺麗なものは、後輩にとっては環境に悪く、煩いものの様だった。

 耳をすませば聴こえてくる喧噪。

 耳をすまさないと聴こえてこない喧噪。

 スポンジのように柔らかい心。

 砥石のように固い心。

 響く音と響かない音。

 届く声と届かない声。

 届いて途方に暮れた青年と、届いて歓喜した青年。

 柔和な青年は自殺した。

 辛辣な青年は生き生きしている。

 荊棘に物おじしない酷烈な人間。

 喧噪にうずくまる気弱な人間。

 好きな人とは結婚しない。

 千変万化。

 うんざりする景色からの脱却。

 人で溢れ返る街で「誰かここへきて」と叫ぶ少女。

 無関心の雨にずぶぬれになった少女は、そっと手を引いた。

「ねえ、付き合おうよ」

 たったそれだけのこと。


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