1.曇天を呼ぶ
少し休憩がしたいと思った。
土曜日の昼、十二時。
適度に不快な人混みの中を、俺は歩いていた。
約束通りであれば今頃、友人達と合流してカラオケにでも行っていたのだろう。場合によっては昼から酒を飲み、つまらない話で大騒ぎをしていたのかもしれない。きっと、満足出来るほどに楽しかったはずだ。
だが今の俺は、携帯電話の電源を切り、約束の時間をとうに過ぎて人混みの中を歩いている。待ち合わせ場所とは全く違う、大きなショッピングモールを徘徊していた。
何故待ち合わせ場所に行かなかったのだろう。自分でも分からない。
けれど、少し休憩がしたいと思ったんだ。特別嫌なことがあったわけではない。悲しいことも苦しいことも人並みで、幸福なことだって人並みだ。
ちっとも不足しておらず、なんなら満ち足りてさえいる幸福な毎日だ。金もそこそこ持ってるし、彼女こそいないが良き友人に囲まれて過不足なく生きている。
なんなのだろう。けれど、なんなのだろう。何が不満だったのだろう。順風満帆の幸せな日々。凹凸のあるそこそこ刺激のある日々。
けれど、何かが嫌だ。この感情の正体が分からないまま、歳は徐々に増えていく。
休憩をしよう。別に何に対しても不満なんてないのに、なんだか嫌になってしまったんだ。そう思ったんだ。
モールはかなり規模が大きく、今日は休日という事もあり一際混み合っている。俺はフラフラとしていた足取りをようやく定かにして、四階へ向けて歩き出した。
四階の奥まった部分、そこには歯科医院や献血室と言ったテナントが多い、特定の人間しか来ないエリアがある。当然休日とは言え用向きの人間は少なく、階下に比べると格段に歩きやすい。
そしてそのエリアの更にその奥、古い自販機が排気音を鳴らすその場所には、ひっそりとしたガラスの、テラスへの扉。
このモールは大規模な商業施設という事で四階でも結構な高さがあり、このテラスからはその四階から街の景色を一望できる。加えて人もおらず、空気を独り占めできる俺のお気に入りの場所だ。
現実的な事を言えば屋根がないので雨の日は雨ざらしだし、事故や飛び降り防止の金網フェンスが張り巡らされているために景観を台無しにしている部分は大いにある。
だが、それでも気分よく一人の時間を得るには申し分ない空間なのだ。それに、今日の天気予報は文句なしの晴れだ。
俺はそろそろ取り替えられそうな古い自販機で飲み物を買い、ゆったりしようかとテラスへと出た。外の空気に身体が触れると、心が落ち着く様に感じる。風が少し強い。モール内の人工の光に慣れていた瞳を日光が強く刺激し、青空から届いた心地よい風が俺を歓迎した。
だが、先客がいた。
後ろ姿なので顔は見えないが、薄く装飾の施された白いワンピースに、スラリと黒いタイツが自身の影と繋がっている。黒く長い髪はその服の色と裏腹に、彼女の雰囲気をただただ黒く染めている。
ドキリとした。ともすれば死者にも見えるその姿に。彼女の両手は飛び降り防止の金網を掴んでいて、軽くキシキシと鳴らしていて、死神でも招いているような気さえした。
同じ空間に立ち入った俺に気付かないまま、一心に金網を縫うようにして景色を見下ろしている。ゆらゆらと身体を揺らしてご機嫌に鼻歌を歌うその姿は、誰かと会話しているかのようだ。
だが、彼女は一人だった。一人で、気分よく金網を揺らしている。
そして、俺が少し怖いなと思いながら彼女に気付かれないようにベンチに腰かけようとしたその時だ。
右足。
左足。
順序よく、迷いなく、リズミカルに。なんと彼女は、遊園地にでも行くかのような足取りで交互に足を掛けて、金網を登り始めたのだ。 時折スカートが金網に引っ掛かっても意に介せず、見向きもしないまま片手で直しては上に登る。
俺はその行動の意味する所を理解するまで呆けていたが、ハッとして遂に声を荒らげてしまった。
「おい、何をしてる!」
彼女はビクッと肩を上げてこちらを見て、俺は一瞬硬直した。ご機嫌な鼻歌は瞬時に掻き消え、その瞳からはぽろぽろと涙が流れている。先程の鼻歌に反して、楽しそうな顔なんて、どこにもない。辛そうで、苦しそうで、今にも破裂して爆発してしまいそうな顔じゃないか。消え入りそうな程に、何もかもを内に溜め込んでしまっている人間の顔じゃないか。
彼女は俺の声から逃げるかのように急いで金網を登ろうとしたが、俺が駆け付けるまでに間に合う事もなく、俺の腕は彼女の腰を抱いて引きずり下ろす。
少々乱暴に下ろしたおかげで彼女は押し潰すような形で俺の上に落下し、俺はその細い腰を抱いたまま床のコンクリートに軽く頭を打ち付けた。
小柄な女性だが、それでも自身の腹に彼女の重さを強く受けて、息が止まる。
「はなせ」
そうしてひとしきり苦しんで唸ったあと、彼女は俺の上に乗ってもがいたまま不機嫌そうに呟いた。
俺は、彼女が逃げ出してまた金網を登らぬように、自身の呼吸が回復するまで彼女の腰を強く抱いたままだった。傍から見たら通報されてもおかしくない光景である。まだ少し低い声を漏らしながら、俺は腕を自由にした。
そうして彼女が俺の身体から降りる事で幾許か楽になり、俺も起き上がる。
彼女の顔を直視した時には、顔には涙は見えず、拭った後だけが残っていた。
「……何をしているんだ。お前今、飛び降りようとしていただろ」
彼女は色の薄い表情でこちらを睨むと、ギクリと俺の胸に何かが突き刺さる。
非常に陳腐な表現を用いるとすれば、正しく人形のような顔立ちだった。
日本人離れした不健康そうな白い肌。
漆のように黒い瞳と髪。
そして小柄な体型に似合わず大きな胸、細い四肢。
子供のようにも見えるが大人のような落ち着きも感じる。
多角的な美しさを持っていた。
誰がどう見たって、美しいと言うに違いない。
だが俺を強ばらせたのは、意志を強く感じる、纏ったその空気である。
その、瞳である。
全てを見透かしているような、品定めしているような、威嚇しているような、見下しているような、その目。
だが、彼女は死のうとしていた。
金網を登り、身体を投げ出そうとしていた。
彼女の足に絡みつく影から、逃げ出そうとしていたんだ。
数秒睨み合い、けれど、彼女の口が開いて出た言葉は素っ頓狂なものだった。
「死のうとなんて、してないよ」
すぅ、と、彼女の身体から力が抜けるように、表情が柔らかくなる。
無表情のままだから決してそんな事はないのに、微笑んでいるようだ。
「なんだって?そんな訳ないだろう。金網の向こうは落ちたら死ぬ高さだぞ。じゃあ何のために登ったんだよ」
「高いところが好きなんだよ。ちょっとでも高いところから、景色を見たかった。下にね、雀の群れがいたの。でもここからじゃよく見えなくてさ」
「そんな苦し紛れな……」
あはは。
彼女が笑う。
堰を切ったように、彼女の身に纏う空気が弛緩した。
その喋り方も、丸みを帯びた愛らしい声も、その子供のような見た目も、その色に反して先程までは大人びた印象だった。
だが、今は正真正銘子供のように見える。
ふと出た小さな笑い、そのたった一つで、先程までの印象は違う性格を見せた。
「ごめんね。紛らわしい事をしたかもしれない」
「……信じられる訳ないだろ。現に君は、さっき泣いて―――」
「分かってないなぁ」
遮るように言った。
少し悲しそうに。
「おにーさん。貴方は今、私に何をしたの?」
「なにって……どういう質問だよそれ」
「飛び降りようとしている人を助けた?」
「そりゃ、実際そうだろ」
「ほら、分かってない」
肩を竦めるようにして、彼女はため息をひとつこぼした。
何が言いたいのか全く分からず困惑するばかりだったが、彼女も特に冗長な説明をするつもりはないようだった。
長く間を置くわけでもなく、彼女は言葉を続けた。
「あのね。まぁ、仮に。本当に仮に、私が飛び降り自殺をしようとしていたとするよ。それは何故?」
「何故って……分かるわけないだろ」
「分かるんだよ。簡単に分かる。だって、生きるのが嫌になったから死ぬんだ。生きている事が辛すぎて、死んだ方が楽だから、死ぬんだ。もう苦しみたくない、もう逃げたいから死のうとしたんだよ。そんな人間に対して、おにーさんは何をした?」
「……」
「助けたって、言える?死んだ方が楽なほどの辛い現実に引きずり下ろしてさ。死ねばそれ以上苦しまずに済む。全てが解決するのに、おにーさんは私に“まだ苦しめ”と。“解決方法なんて何もないが、死ぬよりも辛い責め苦を受けろ”と言うんだね?」
少しばかりの沈黙。
テラスは特別日当たりが良いわけではないが、更に雲が被さり暗がりを見せた。
言葉の意味を飲み込めと言わんばかりに、黒い風が身体に纏わりつく。
彼女の言わんとしていることが、ズブズブと脳に染み込んでいく。
まるでそれが、元々自分が考えていた事かのように。
同時に、この問の先は袋小路だと言うことが薄目に見えてしまった。
そう。
彼女の飛び降りを止めたところで―――。
「私の飛び降りを止めたところで、後日また別の場所で飛び降りるだけ。この死にたいほど苦痛な現実の問題を解決しない限り、これは繰り返される」
「何を言ってるんだ。目の前で人が死のうとしたら誰だって助ける。当たり前だろ。力になれる事なら当然力になるに決まってる」
そう。
人が死のうとしている。
その場には自分しかいない。
そうであれば、大抵の人間は助けるに決まってる。
それに、よっぽど自分が切羽詰まってでもない限りは力になるはずだ。
俺だって、一般的な道徳は持ち合わせている。
当然のことなんだ。
「力になる?おにーさんが、私の?それもさ、言ってる意味分かってるの?」
金網から下ろした直後のような、射すくめられるような瞳。
しかし先程と違って、少し悲しそうだった。
「死にたがりを助けてしまうって言うことはね、事故みたいなもんだ。おにーさんのようなまともな道徳観念を持つ人にとっては、天災と言い換えた方がニュアンスは近いかもしれない。そりゃ、そうだ。言う通りだ。目の前で人が死のうとしていたら、誰だって助ける。きっと私だってそうする。だから、天災と一緒。そう言う人間にとっては、天災」
「……何が言いたいかが分からないよ」
「天災は、避けられない。そして、運が悪かったと諦めるしかない。それと一緒なんだよ、死にたがりってのはさ。分かりやすく説明してあげるね」
そう言うと彼女は立ち上がって、ゆらゆらと揺れた。
座り込んだままの俺とは対照的に、白いスカートの裾を摘み上げてから膝に手を当て、ゆらりと屈みこんで俺を覗き込む。
直視出来ない。
彼女の黒い瞳は、それこそ吸い込まれそうなほどだった。
俺の偽善的な道徳に則った心を薄くひっぺがして、浅ましい中身を引きずり出して呑み込んでしまいそうだった。
「私をいじめる人間とか苦しめる家族がいたとして、そいつを殺してくれなきゃ死ぬって言ったらどうする?」
「いや、そりゃあ」
「でも殺してくれないと私は自殺するんだよ。私の望みを叶えてくれないと死ぬの。望みを叶えてくれなかったら苦しくて生きてられないの。そんな毎日に、おにーさんは引きずり戻したの。助けたって言える?」
まぁ嘘だけど。
付け加えるようにそう呟いてこちらを覗き込む彼女の顔は、無表情ではなかった。
確かに怒るようでも蔑むようでもなかったが、これはなんだろう。
小さく開いた綺麗な薄い唇。
微かに見開いた目と上がった眉。
その瞳はやはり暗く、黒く、ぐるぐると闇を掻き混ぜたような色で、俺を呑み込もうとしている。
順序よく考えて、道徳的に考えて、理論的に考えて、確かにそうなんだ。
ようやく逃げ出そうとした彼女の腕を掴み、地獄へ引きずり戻しただけなのだ。
そこまでしたんだ。
そんなことをしてしまったんだ。
無責任にこのままさようならなんて言えない。
要するに……普通の人間ならば、人が死のうとしていたら助けてしまう。
それは正義感などに寄るものではなく、咄嗟の判断として、そうしてしまうのだ。
深層心理としてそうしないといけないと思っているから、抗えない。
でも、助けたら望みを叶えるまで逃げられない。
いや、仮に助けなかったとしても、“見殺しにした”と言う事実が呪縛のように一生を憑いて回るだろう。
助けようが助けまいが、同じ場所に居合わせてしまった時点で逃げることはできないのだ。
……なるほど、天災みたいなものだ。
要するに、彼女が言いたいのはこういうことだろう。
自殺を止めたのだから、助けてくれなければ死んでやる、と。
だが俺の思惑に反して、彼女はぱっ、と居直って、笑った。
そして雲間から射し込む薄っぺらな日光を逆光に、白飛びしたような笑顔で言った。
「でも、だから、これもさっきも言ったでしょ、おにーさん。私は別に死のうとなんてしてないよ。ただ高いところから、景色を見たかっただけ。下に集まってた雀の群れをね、見たかっただけ。ただね、それだけなんだよ」
あはは。
喉を絞るようにして出た笑い声。
子供のように愛らしく、弱々しい声。
風が吹いた。
ああ、きっと俺は現金な人間だ。
自分で自分を許すために、彼女を助けた。
例え誰も見てなかったとしても、人を見殺しにしたって言う罪悪感を背負いたくなかった。
一生かけて引きずるような後ろめたさから、逃げたかったんだ。
でも、現金な人間だから、別にいいかなとも思った。
彼女は美しい。
あまりにもかわいい。
あわよくば付き合えないかな、とか。
あわよくば隣を歩けないかな、とか。
あわよくば、あわよくば、彼女の容姿を見ただけで下心ありきで力になろうとしている。
段々と混乱していた頭が鮮明になっていくのを感じる。
彼女の言葉が、その表情が、俺を洗脳するように、あるいは曇っていた感情のベールを剥がすように、染み込んでいく。
その言葉の一つ一つは、彼女の想いの一つ一つが、元から俺の中にあったように染み渡っていく。
俺は彼女の言葉を聞いて、何故そんな風に思ったのだろう。
何となく、彼女に自分と似たような何かを感じ取ったのだろうか。
一時的に雲が切れて、射し込む太陽は彼女を明るく照らした。
伸びる影は俺に重なる。
逆光で顔はほとんど見えなくなってしまったが、悲しく微笑んでいるのが分かった。
彼女は優しい人間だ。
別に死のうとしてないなどと見え透いた嘘をついて、俺を逃がそうとしてくれている。
彼女が本当に金網をただ登っただけならば、俺は「次から気を付けろよ」と言うだけでこの場を去れる。
仮にその後彼女が死んだとして、彼女に嘘をつかれたと自分に言い訳をして生きていくことが出来る。
でも見え透いている。
見え透いているから。
「俺、今日、友達と約束があったんだよね」
イタタと唸りながら立ち上がった。
自身の後頭部をさすりながら、彼女の隣を奪い、その顔を見た。
やはり悲しそうな顔をしたまま、困惑したようにこちらを見ていた。
「なんかさ、なんでかわかんないけど、なんか嫌になっちゃってさ。なんだろうね。行けばきっと楽しかっただろうに」
仕事も上手くいってるし、お金もある。
友人関係は良好で、順風満帆な暮らしをしている。
「困っていることなんて何一つねえのに、なんで放り出しちゃったんだろうって、我ながら困惑しながらここに来た。ほら、そこに飲み物が転がってるだろ。ここのベンチで、土曜の真昼間から、ボケっと過ごすつもりだったんだ。飲み物でも飲みながらさ」
今日、突然嫌になった訳では無い。
ぐずぐずと、少しずつ、侵食するように嫌になっていった。
不幸なことなんて何一つないから、こんな気持ち、誰にも言えなかった。
相談なんてできなかった。
馬鹿にされるだけだから。
「そんで、ここに来たら君がいて、死のうとしてて、それを止めて、まぁ説教を受けて。そんで、そんで、あー。何となく分かったんだ。昔からずっと、俺が抱いてたちっちゃな感情がなんだったのか」
彼女の顔は変わらない。
でもその瞳には俺が映っている。
空気も読まず雲は再び太陽を隠し、湿った光は曇天の下に俺達を照らした。
晴れを予報されていたはずの空は、途端に暗がりに染まっていく。
けれど、ちょうど良かったかもしれない。
だって―――。
「理由はないけど俺もずっと……死にたかったんだ」
こんな言葉は、明るい日の下で言うようなものではないから。




