月の王子様、港区へ行く
俺は絵呂門万治郎。月島にあるもんじゃ焼き屋の三代目だ。銀座は敷居が高いからほとんど行ったことがない。興味本位で未到の地、港区へタクシーで遠征する。
「お客さん、どこまで行きますか?」
「取り敢えず、港区へ」
「かしこまりました」
ゆっくり走り出すタクシー。次第にきらびやかな街へと入っていく。
「おおー、ここが港区か。夢のようにキラキラしてんなー。今どの辺?」
「麻布ですよ。お兄さんはオノボリさんかな」
「無礼者! 東京都民だよ」
「失礼しました。では奥多摩の方ですか?」
「無礼者! 23区だよ」
「失礼しました。足立区ですか?」
「無礼者! 中央区だよ」
「失礼しました。月島ですか?」
「うっ…………」
月島は下町。言うのが恥ずかしい。
「お客さん、月島から乗ったでしょ? もしかしてと思って。何、恥ずかしがることないですよ」
「くう」
このタクシーの運ちゃんは心を読めるのか? これが…………港区…………!?
「どこで降ります?」
「そ、そうだな。そろそろ停めてくれ」
麻布十番のバーの前にタクシーは停まった。
「2500円になります」
俺はクレジットカードで運賃を支払い、タクシーを降りる。
「ありがとね」
「仕事ですから。お気を着けて」
俺は取り敢えず、バーに入る。モダンで落ち着いた店内。もんじゃ焼き屋とはえらい違いだ。
「いらっしゃいませ」
バーの老マスターが1人でこじんまりとやってるようだ。客は数人居た。俺はカウンター席に座る。
「お客様、何にいたしますか?」
「そうだな~。ウイスキーをロックで」
「かしこまりました」
カランとグラスに入れられた球体の氷。そして、トクトクトクと注がれるウイスキー。スッと俺の前にウイスキーのグラスが差し出された。俺は一口飲む。
「かー。美味い」
「ありがとうございます。お客様は見ない顔ですね。どちらから?」
「中央区だよ」
「銀座ですか?」
「ま、まあ、そんなとこ」
こんなお洒落なバーで月島出身だと言ったら袋叩きに遭ってしまう。多分。
カランカラン。新たな客が入ってきたようだ。
「いらっしゃいませ」
「マスター。いつものお願いね」
「かしこまりました」
いつものだと!? 慣れた女だ。常連か? 歳は20代後半だな。俺と同年代か。…………って、俺の隣に座った!?
「貴方、見ない顔ね。もしかして、幻の港区おじさん?」
港区おじさん…………? 可愛い顔して無礼者だな。
「無礼者! 20代後半だよ」
「港区おじさんは褒め言葉よ? もしかして、オノボリさん?」
おじさん呼ばわりが褒め言葉? これが…………港区…………!?
マスターがスッと女の前にマティーニを差し出してこう言った。
「このお客様は銀座の方ですよ」
「へえ、銀座ねえ。今日は遠征で来たのかな?」
「あ、ああ。そんなところだ」
「な~んだ。港区おじさんじゃないのか。今日こそはと思ったんだけどな」
「君はどこ出身なの?」
「え? 私? 私は…………栄」
「さかえ? 東京にそんなとこあったっけ」
「…………名古屋よ」
「オノボリさん。クスクス」
「別にいいでしょ」
女性の顔が赤くなったような? 正直な人だな。
「あなた、仕事は何をやってるの?」
「え、あ、飲食店経営」
「へえ、銀座で。すごい人なのね」
言えない。言えない。月島のもんじゃ焼き屋だとは口が裂けても言えない。
「大したことないよ」
「今から、あなたの店に行きたいな」
「はへ?」
どうしよう!? もんじゃ焼き屋だと白状するか? いやダメだ!
老マスターは俺の顔色を見て察してくれたのか、フォローする。
「銀座にも色々ありますからね。ランチ営業だったらやってないでしょう」
「そうそう。ランチ営業専門なのよ、うちの店」
「えー、つまんない。なんだか、もんじゃ焼きが食べたい。お兄さん、良い店知ってる?」
俺がもんじゃ焼き屋だと見抜いた? これが…………港区…………!?
「もんじゃ焼き屋なら月島ですよね。ねえ、お兄さん」
老マスターまで俺の心を読めるのか? これが…………港区…………!?
「じゃあ、月島のもんじゃ焼き屋へGO。お兄さんの名前は?」
「絵呂門万治郎。君は?」
「私は練乳。練乳アン子」
「甘そうな名前だね」
「勿論、偽名よ」
「なぜ、偽名を使う」
「あなたが先に偽名を使ったからよ」
「偽名じゃないよ」
「嘘」
どうしよう。偽名じゃないと証明したいが。そうだ! 運転免許証で解決だ!
俺は財布から運転免許証を出して、練乳アン子に見せる。
「どうだ、参ったか」
「住所月島?」
しまったーーー! 運転免許証には名前以外に住所も記載されてる。最初からそれが狙いか!? 練乳女!?
「「「クスクスクスクス」」」
「笑うんじゃねえ。そうさ、俺は月島のもんじゃ焼き屋の三代目だ」
「クスクス。ごめんごめん。万治郎君、銀座ってのは嘘だったのね」
「同じ中央区だ」
「開き直ってる開き直ってる、クスクス」
唯一冷静だった老マスターがメリケンサックを右拳に装着する。殴る気だ!
「お釣は要りません! 帰ります!」
俺は財布から1万円札をカウンターに置き、逃げるようにバーを飛び出す。
港区は怖い! 早く逃げなきゃ!
俺はタクシーをつかまえるために手を挙げる。タクシーがハザードを出して停まってくれた。俺はタクシーに乗り込む。
「月島まで! 急いで!」
「お客さん、また会いましたね」
「行きに乗せてくれたタクシーの運ちゃん? 急いでくれ」
「月島には向かいませんよ」
「何でだよ!?」
「起きてください」
「起きる? どういう意味だ?」
「こちら救出班。今、没入者を回収した。強制終了を」
『了解した』
ーー万治郎は目を覚ます。そこはチェアに座り、ヘッドマウントディスプレイを被り仮想現実に没頭する者で溢れていた。
「密です密です密です。間隔を開けてお並びください」
今はコビッド19が流行する2023年。万治郎はただのゲームプレーヤーだった。皆、コビッド19が流行る前の世界を渇望し、バーチャルリアリティーゲームをプレーする。万治郎は廃人一歩手前までのめり込んでいた。先の見えないパンデミック終息。ワクチンも意味をなさなかった。