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ズボン下ろし

作者: JohnD




私が高校に入学して1か月ほど経った頃、「ズボン下ろし」という男子生徒のズボンを引きずり下ろす遊びが流行りました。

誰が何の為に始めたのかは知りません。それに今となってはあんな遊びの何が面白かったのかも分かりません。しかし、当時は箸が転げても可笑しい年頃というものだったのでしょう、男子生徒の下半身をパンツ一丁にするという、単純な遊びがおかしくてたまらず、みんながやっているからという理由もあったのでしょう、暇があればしょっちゅうやっていたのです。

私は、厳密に言えば、その遊びに初めの頃は参加していませんでした。「ズボン下ろし」には口では語られないルールがありましたから。いや、ルールといってもそう大層なものではありません。“女子は参加出来ない”という、ただそれだけです。

当たり前といえば当たり前かもしれません。たとえば女子が男子のズボンを下せば、男子は仕返しをしようと思いますね。仕返しはこの遊びの大きな醍醐味でした。スボンを下された子が「よくもやったな」と隙を見て、やった子に仕返しをする。仕返しされた子は「してやられた」と、また仕返しの機会を伺うんです。想像して頂けるでしょう。しかし、女子と男子では下半身を丸出しにすることの重みが全く違いますから、男子はやられても仕返しが出来なくなるわけです。それを避けるために、女子はこの遊びに初めから参加しなかったのです。

私たち女子は、「子供っぽい男子たちの、下劣な遊びには付き合っていられない」と馬鹿にした風を装っていましたが(もちろん本気でそう思っていた子もいたとは思いますが)、内心羨ましく思っていたのです。だってそうでしょう。男子たちはそこかしこで大笑いしながらやっていたのですから。この遊びの楽しさは、下半身を露わにさせられるという辱めを通して、何とも説明しがたい連帯感を育むことが出来る点にありました。

誰かのスボンを下すという行為自体が、その人への親しみを表す手段でした。それを(怒りながら)笑って許すというのもまた、親愛の行為なのです。

この遊びはウイルスのように爆発的に流行し、私たち女子は嫉妬しながら、思春期の女子なら多かれ少なかれ経験するどうしようも出来ない男女の差を嘆くエピソードのひとつとして、飲み込んでいくはずでした。

私は先ほど、親しみを表す遊びとしての「ズボン下ろし」と言いましたが、私の所属していた1年C組では事情が全く違いました。親しみどころか、人を蔑む道具として「ズボン下ろし」が使われていたのです。

1年C組にいた不良、武田という男がその流れを作りました。武田はキレやすく暴力的な男で、怒らせたら何をするか分からないと、生徒たちは怯えていました。武田自身がそのことは熟知しており、恐怖政治的にクラスの人間関係を仕切っていたのです。私は入学1年目から酷いクラスに当たったと嘆いていたのを憶えています。

武田は「ズボン下ろし」の流行を受けて、気に入らないものを辱める道具として利用しました。武田に逆らった生徒は、クラス全員の見ている中で、ズボンを下げられる。しかしこの遊びの本来のあり方とは違い、武田に仕返しすることは出来ません。

「やめろよ」と苦笑いするか、羞恥で俯くかのどちらかでした。

そうしてズボンおろしをされた子たちは心に誓うのです。武田には決して逆らうまいと。

武田と対等な立場にいる生徒はいませんでしたが、それにかなり近い子がいました。武田の妹分、古谷さんという女の子です。古谷さんは垢抜けた雰囲気の子でした。田舎に埋もれている美人だがおぼこい女の子を「ダイヤの原石」と呼ぶなら、古谷さんは「限界まで磨き上げられた川原の石」といった感じでした。特別はっと目をひくような美貌ではないけれど、恐らく意図的に焼いていただろう小麦色の肌、見え方を計算しつくしたスカートの長さ、見事なスタイル、香水の匂いのする髪の毛、笑った時に見える白い歯……それらが見事に調和して、他の女子にはない存在感を生み出していました。

武田と古谷さんは、入学して三日後にはもう互いに意気投合していました。「もう俺たちは、兄妹みてえなもんだから」――いつか武田がそんな風に言っていたのを思い出します。それも、入学してひと月も経たない内のことだったとおもいます、それほど二人の相性が良かったということでしょう、二人が仲良くなる理由は、何となく理解できるような気がしました。二人に共通点が多かったからです。学校側が掲げる「正しい制服の着方」にことごとく逆らうような着こなし、下から数えた方が早い成績順位…共感を感じる要素はいくらでもあったでしょう。

しかし、私は、どれほど仲良くしようとも、古谷さんは武田ほどの悪ではないだろうと、密かに考えていました。

私は一度だけ、古谷さんと一緒に登校したことがあります。

「あ、同じクラスの……」駅でばったり出くわした時、思わずという感じで彼女は呟きました。言った直後に、「しまった」というような苦い表情が彼女の顔に浮かびました……特に親しくもないのに、話し掛けてしまった、面倒くさいなあ……といった顔です。あまりに分かりやすくて、私は思わず笑ってしまいました。とても正直な子だったのです。

向かう先は同じだったので、仕方なくといった感じで私と古谷さんは一緒に歩き始めました。同じクラスとはいえ、まともに話したのは初めてだったので、お見合いのようなぎこちない自己紹介から会話が始まりました。

古谷さんが私よりはるかに垢抜けており、別世界の人のように思えたからか、私は会話中始終緊張していて、何を話したのかよく覚えていません。しかし一つだけ覚えていることがあります。恐らく趣味の話から始まって、彼女が音楽好きだと知り、何のアーティストが好きかと聞いた時です。

彼女の瞳が突然星のように輝き、中堅インディーズバンドの名前を答えました。はっとするほど澄んだ笑顔でした。子供が好きな料理を聞かれてカレーと即答する時のような明快な答えと、答えることへの誇らしさがそこにはありました。

彼女はそのバンドの音楽がいかに素晴らしいかを私に語りました。そのバンドについて話す時、湧き出る泉のように、語ることは尽きないようでした。

私が、武田と古谷さんに違いがあると思ったのは、古谷さんの中にそのような純粋な光があったからでした。

しかし、残念ながら、武田とつるんでいる以上、彼女も全く潔癖というわけではありませんでした。武田が気に入らないクラスメイトにズボン下ろしをしている間、いじめに加わりはしないものの、笑ってそれを見ていましたし、たまに「かっこ悪い」「気持ち悪い」と侮蔑の言葉を投げつけることもありました。

私はバンドのことを夢中で話していた時の彼女の笑顔が忘れられず、それ以来、武田の隣にいる彼女の姿を見る度、何か釈然としないものを感じていました。

彼女には、ある種の暗い影がありました。それは武田も同じく持っているもので、それこそが二人を結びつけているのだろうと思いました。

しかし、武田がその中にどっぷり全身浸かっているなら、古谷さんは、少なくとも一部は、そうではない部分があるように思えたのです。しかし、脱け出すには、あまりに多くの割合をそれに浸されており、その枠組みの他へはどうしても出ていけないのだろうと。

私は少し、悲しい気持ちで彼女を見ていました。武田の暴力は基本的にどれも理不尽なものでしたが、松山くんという子に対するいじめはほとんど不可解といってもいいものがありました。

松山くんは、大人しい、いたって平凡な生徒でした。強いて特徴を上げるなら、自信なさげで、おどおどしたところがあるぐらいでしょうか。それでも人を不快にさせるようなものではありません。そんな彼の何が武田の気に障ったのでしょう。武田は、松山くんをこれ以上ない程敵視していました。

顔が気持ち悪い、喋り方がムカつく、歩き方が女みたいだ、松山くんの一挙一動を攻撃の対象にしました。

そして、「ズボン下ろし」です。武田は気の毒な松山くんのズボンを、ほとんど毎回、休み時間の度に下ろして恥をかかせました。

松山くんの太ももの白さ、パンツの種類、その中のものの小ささ、武田は松山くんを罵ることが使命であるかのように、彼を見下して、嘲笑いました。

松山くんは、言い返すこともなく、下を向いていじめに耐えていました。私も他の生徒も、みんな松山くんに同情していましたが、何もしてあげることが出来ませんでした。古谷さんも、武田が松山くんをいじめるのを黙って見ていたと思います。

武田が松山くんに腹が立っていた理由の一つは、松山くんと古谷さんが前後の席だったことでした。それは出席番号順で席順が決められるからで、決して松山くんのせいではないのですが、武田は松山くんが古谷さんの近くにいることをまるでストーカー犯罪であるかのように口汚く罵りました。

松山くんにとって、そして古谷さん、私たちにとって転機が訪れたのは、夏休みに差し掛かる一学期の終わりでした。

武田が交通事故で足に怪我を負ったというのです。命に別状はなかったものの入院を余儀なくされました。夏休み明けまで出てこられないということでした。私や他のクラスメイトたちはみんなひそかに喜びました。武田の普段の暴政を考えれば自然なことです。

古谷さんは、クラスで一番の仲良しがいなくなったことで、孤立しました。彼女自身が選んだことだったと思いますが、昼休みに一人でいる古谷さんは少し寂しそうに見えました。

松山くんもまた、友達がいませんでした。武田の一番の標的となっている彼に近づこうというクラスメイトはいなかったのです。武田が学校を休んでいる間は、ぽつりぽつりと誰かと話しているのを見かけることもありましたが、依然として一人でいることの方が多いようでした。

そこで、奇妙な化学反応が起こったのです。そう、まさに化学反応と呼ぶに相応しいものでした。古谷さんと松山くんが仲良くなったのです。

武田が学校を休み始めた頃は、まだ武田の幽霊が教室で古谷さんを見張っているかのように、古谷さんは松山くんに冷たい態度をとっていたように思います。例えば、前後の席ですから授業のプリントなど手渡しするのですが、古谷さんは意図的に乱暴な仕草で松山さんに渡していました。

それがそういうわけなのか、少し時間が経つと、二人がぽつぽつと言葉を交わすようになりました。その後、一週間と経たないうちに、休み時間に楽しげに笑いあう二人を見かけるようになったのです。これには私以外のクラスメイトも、驚いたと思います。世の中には不思議なこともあるものです。

黙っていても派手さのある古谷さんと、無口で大人しい松山くんが話しているのを見て、共通点を見つけられる人はなかなかいないでしょう。少なくとも傍観者の立場からすると、二人は正反対に見えました。

私は二人を遠くから見ていただけなので、どのような経緯で親しくなったのかは分かりません。しかし二人の会話の断片から察するに、古谷さんが目を輝かせて語ったあのバンドを、松山くんも好きだったらしいということが分かりました。ほぼ間違いなく、それが会話のきっかけだったのでしょう。

古谷さんはバンドについて話せる友達が出来たからか、もしくは松山くんと単純に気が合ったからか、武田のそばにいる時よりもずっと楽しそうに見えました。松山くんも、口数は少ないながら、笑っていることが多くなりました。

そんな状態で、学校は武田不在のまま夏休みに入りました。私は高校一年目の夏休みにすっかり浮かれ、松山くんや古谷さんのことはほとんど忘れていま した。

そして二学期初日、私は目を丸くしました。夏休みの間に、松山くんと古谷さんが恋人同士になっていたのです。

松山くんの外見は、夏休み前とはすっかり変わっていました。表情を覆い隠していた量の多い前髪を整え、メガネをはずしていました。何よりも、表情は変わっていました。前のおどおどした様子が消え、背筋もすっと伸びていたのです。控えめに言っても、大変身でした。

武田はまだ学校に出てきていませんでした。武田が学校を休み始めた頃は、まだ武田の存在を意識している生徒もいましたが、長い夏休みを挟んだこともあって。みんなだましだまし、武田のことを忘れて大胆に振る舞うようになりました。

松山くんや、古谷さんに話し掛けるようになったのです。

松山くんの素顔は、気さくな人でした。古谷さんも、恋をしている幸福感からか、一学期の時の影のある様子が消えていました。二人はお互いに良い影響を与え合っていました。そしてその影響は、クラス全体にも広がっていきました。

ある日、松山くんと親しくなった男子生徒の一人が、松山くんに「ズボン下ろし」をしたのです。

「おい、やめろよ」松山くんは、親しみのこもった笑顔で言うと、その生徒を追いかけ、「ズボン下ろし」の仕返しをしました。パンツを丸出しにした様子がおかしくて、クラス中にくすくす笑いが起きました。むろん、馬鹿にするような性質の笑いでは決してありませんでした。近くにいた古谷さんは顔をしかめながら、「いやだあ」と言いました。これも同じく、本気で思っているのではなく、可笑しさを隠して言った言葉でした。

このクラスにもようやく、本物の「ズボン下ろし」の流行が訪れたのです。残酷な遊びから、親しみのある遊びに変わったのです。しかも、私たちのクラスの「ズボン下ろし」は、さらに一歩進みました。女子も参加できるようになったのです。

きっかけはやはり、古谷さんでした。古谷さんがある日の昼休み、気まぐれでいきなり後ろから松山くんのズボンを下ろしたのです。

松山くんは、そのころにはすっかり増えていた男友達の一人がやったことだろうと思ったに違いありません。振り向き、古谷さんの姿を認めた時、松山くんは目を丸くしました。古谷さんはいたずらっぽく笑いました。

松山くんは仕返しに古谷さんのスカートをめくっても良かったはずですが、かわりに仕返しとして彼女をくすぐったのです。

私は遠くからそれを見ながら、松山くんの行動に感動しました。もし古谷さんがズボンを下したのが武田だったらどうでしょう。武田なら面白半分に古谷さんのスカートをめくったかもしれません。

古谷さんが松山くんのズボンを下ろした理由は、たとえズボンを下されても、松山くんなら、全く同じ方法で仕返しをしないでいてくれるという信頼があったからでしょう。

紛れもない信頼があってのことだったのです。私はまだ若く、そんな信頼がこの世に存在すること自体に感動しました。特に武田のような独裁者の恐怖政治の下で長いこと、人々が侮辱されてきたのを見た後では、まるで奇跡のように映りました。

私たちは奇跡のおこぼれにあずかりました。古谷さんが松山くんのズボンを下すようになったので、女子も仲のいい男子のズボンを下ろすようになったのです。男子は、松山くんに倣って、くすぐるなり、おいかけるなりの方法で女子に仕返ししました。「ズボン下ろし」は男子にしかできないという常識が、私のクラスではいともあっさり覆されたのです。私ですら、仲の良い男子のズボンを下ろして遊びました。

その時のクラスの空気を一言で表すなら、“穏やか”でした。クラス全体が、緩やかに繋がっていきました。共通点のない生徒同士が仲良くするようになりました。私も、話したこともなかった隣の席の子と話すようになりました。

休み時間はズボン下ろしがどこかで起こって、男子も女子も笑い転げていました。私もたくさん笑いました。お腹が痛くなるほど。楽しかったです。誰かが何かを間違えても、責める人はいませんでした。高校生活を振り返っても、あれほど穏やかで幸せな時期はありませんでした。

しかし、その時間は続きませんでした。武田が帰ってくることになったのです。誰だって、武田の存在を忘れていたわけではありませんでした。しかし、武田のいないクラスがあまりに心地よくて、みんな考えまいとしていたのです。

武田が帰ってくる前の日、古谷さんも松山くんも、やはり浮かない顔をしていました。放課後、うつむく古谷さんと松山くんの周りに、仲の良い友達が集まっていました。深刻そうに見える彼らは、武田のことを話していたに違いありません。慰めるように古谷さんの背中に手を置いている女の子もいました。

私は古谷さんに何か声をかけたいと強く思いました。松山くんと付き合いだしてから、古谷さんは明るくなりました。私は古谷さんに、バンドのことを話した時のような目をいつもしていてほしいと思っていました。松山くんといることでそうなるならば、武田がなんと言おうと、松山くんといることを貫いてほしいと思いました。

私は古谷さんと松山くんに感謝していたのです。

穏やかな時間、優しい空気、私にも参加できるズボン下ろし、全て二人のおかげでした。

しかし、そんな気持ちを古谷さんにどう伝えればいいというのでしょう。私は古谷さんとも松山さんとも仲良くありませんでした。「武田に負けないで」「二人を応援してるよ」こんな感じでしょうか。

そんな言葉では、なかったのです。そんなぐらいなら、言わない方がマシでした。かといって、こんな気持ちを長々と説明するほど、私は二人と仲良くもありませんでした。私は彼らを遠くで見つめながら、口を開かないことに決めました。

次の日、武田が登校してきました。午後からの登校です。クラスに、久しぶりにピリピリした空気が漂いました。武田の方も、何か違和感を感じていたよ うです。

話し掛けても生返事しか返さない古谷さん、見ないうちに垢抜けた松山くん。武田は、休み時間に松山くんをからかいに行きましたが、松山くんは何か言われる前に武田を睨みました。武田は一瞬怯みましたが、すぐに松山くんの胸ぐらを掴んで凄みました。「何だ、その目は?」その時は教師が入って来たので、喧嘩にはなりませんでしたが…。

放課後。恐れていた瞬間がついにやって来ました。まだ教室に多くの生徒がいる中、古谷さんの女友達が、武田に告げたのです。

古谷さんは今、松山くんと付き合っているので口出ししないであげてよ、と。

それを聞いた瞬間、武田は呆れたような顔をしました。冗談か何かだと思ったようです。しかし、古谷さんと松山くんが何も否定せず、お互いを慰め合うように見やっているのを見ると、武田もなにかただならぬものを感じたらしく、顔を歪めたかと思うと、いきなり松山くんを殴りました。倒れる松山くんの傍による古谷さんを見て、武田は確信したようでした。自分の妹分だと思っていた古谷さんが、最も馬鹿にしていた松山くんと付き合いはじめたことを。

武田にとってはまさに悪夢だったに違いありません。

武田は庇おうとする古谷さんを突き飛ばし、尚も松山くんを殴ろうとしました。古谷さんが、武田の腕を必死で掴んで止めます。

「お願いだから、やめて!」

「何の冗談だよ、これは」

「松山と、付き合ってるんだよ!お願いだからこんなことやめてよ!」

古谷さんがついに認めました。武田はその瞬間、静止しました。教室が一瞬、薄気味悪い程の沈黙に包まれました。

「付き合ってるっていうのはどういう意味だ」

「そのままの意味だよ」古谷さんは泣きそうな声で言いました。

「そのまま、じゃねえだろ。どういう意味かってんだよ。言え!」

「だから…松山は、私の彼氏なんだよ」

武田は、むしろ薄笑いを浮かべていました。しかし、彼の震える声がほとばしりそうな怒りを湛えていました。

「彼氏? こいつが? 冗談はやめろよ。こんなダサくて気持ちわりい奴が?」

「私だって、最初はそう思ってたよ。でも信じて。松山は本当にいい人なんだよ。松山といると、自分が全然マシな人間になったように気がするんだよ。幸せになれるような気がするんだよ…」

古谷さんは涙ながらに訴えました。不器用で、たどたどしく、本心から出た言葉でした。

「いつからお前、そんな腑抜けたこと言うようになった。俺たちにはそんなもん必要ねえんじゃなかったのかよ」

武田の言葉もまた、本心のようでした。どういうわけか、私にもそれが伝わってきました。武田からは強烈な孤独が伝わってきました。

「変えられねえこともあるんだ。いくらこいつら腑抜け野郎どもに馴染んだって、結局俺たちは俺たちにしかなれねえんだよ」

武田は古谷さんの胸ぐらをつかみ揺すりました。古谷さんは武田の目をまともに見られず、目を逸らしていました。武田と古谷さんの間にも、他の者には分からない結びつきがあったのでしょう。

「ふざけんな。何、勝手なこと、してんだよっ!」

松山くんと何人かの生徒が慌てて止めに入ろうとすると、武田は怒鳴りました。

「野次馬は外出てろ。松山もだ。これは俺とこいつの話だ」

私や他の死とは慌ただしく準備をして、外に出ざるを得ませんでした。

松山くんはもちろん、古谷さんの為に残ろうとしましたが、古谷さんが大丈夫だからと言い、仕方なく外に出ることになりました。

私は閉じた教室の扉を呆然と見ていました。二人の激しい言い争いの声が外まで響いてきます。私は当時、仲の良かった友達と目を合わせて、「武田、怖いね」とか「古谷さん大丈夫かな」とか、そんなことを言いあっていたような気がしました。

松山くんは近くの階段に腰掛け、教室の方を心配そうに見ていました。変えるためには、その階段を通らなくてはならないので、私と友達は、自然な流れで松山くんに話し掛けました。

「松山くん、大丈夫?」

おそるおそる、私は聞きました。松山くんは頬を腫らしながら、笑ってくれました。

「うん。…大丈夫」

「保健室に行った方がいいんじゃないの?」

「平気。彼女が気になるから、ここにいるよ」

松山くんは険しい顔で教室の扉を睨みました。古谷さんが心配で仕方ない、そんな様子でした。

「……大変だね」

ぽろりと、言葉が口をついて出ました。そんなこと言うつもりはなかったのですが。

私は続ける言葉を探しました。しかし、どんな言葉も結局は陳腐に聞こえてしまうだろうと残念に思いながら、自分の本心に近い言葉を探して、さんざん迷った後、「きっと、上手くいくよ。今は大変だけど、きっと最後には全部、上手くいくから…」―――と、結局一番陳腐な言葉を言いました。しかし、他には何も思い浮かばなかったのです。

今私があの場所に戻ったとしても、これ以上のことが言えるとは思いません。こんな言葉でさえ、友達が隣にいたから言えたのです。今私はこの物語を語っていますが、それほどこのお話の主人公たちとは距離がありました…。

松山くんは私の目を見つめました。

「ありがとう」

その目には温もりがありました。古谷さんが好きになったのも頷ける、優しい目でした。古谷さんと付き合い始めたことで松山くんは垢抜けましたが、古谷さんが好きになったのは外見とは全く関係のないところだったのでしょう。

物語は、この三日後に、事実上の結末を迎えます。

武田と古谷さんは、次の日からそろって学校を休み始めました。松山くんは登校していましたが、終始浮かない顔をしていました。

そして三日後、松山くんは下校中に、通学路で待ち伏せをしていた武田に背中を刺されて怪我を負いました。命に別状はありませんでしたが、精神的なダメージがひどかったらしく、休みがちになり、留年した挙句、高校を中退しました。

武田はすぐに矯正施設に送られました。古谷さんは、学校を辞めました。新宿のカラオケ屋で働いているとか、キャバクラでナンバー1になったとか、いろいろな噂が飛び交いましたが、真偽は分かりません。ただ、松山くんと古谷さんが別れたのだけは間違いないようでした。

どんな劇的な展開があったのか、私には知る由もありませんでした。クラスのみんなはあることないこと噂しました。…古谷は武田に従って松山くんと別れ、武田と共に松山くんを刺したのだ。いや、古谷さんは松山くんへの愛を貫き、怒った武田が松山くんを刺したのだ。

当事者たちは、誰も何があったのか語ろうとはしませんでした。真実は謎のままです。傍観者の私には知りえません。

古谷さんには今でも幸せでいてほしいと思っています。松山くんにも。古谷さんと松山くんはお似合いの二人でした。二人が続いてくれたら一番だったのに。しかしそれも、私の立場から見た一つの考えにすぎません。

私は古谷さんのことも松山くんのことも…それから武田のことも、何一つ知らないのですから。

私の目には、古谷さんと松山くんは素晴らしいカップルで、二人を理解しない武田は薄汚いいじめっ子に見えました。でも事実がそんなに単純なら、もっと話も単純になっていたはずです。恐らく古谷さんと武田の間にも、それが何であれ、他の人には分からない何らかの絆があったのでしょう。

本当は、物語の結末をこうして語りたくなどなかったのです。私は「ズボン下ろし」についてお話しようと思っていました。クラスに穏やかな雰囲気が流れていた時があったのです。ズボン下ろしという遊びが流行っていて、女子である私ですら参加出来た平和な時代があったのです。古谷さんと松山くんの築いた平和でした。私は、あの時間が好きだったのです。

私は悲しい物語を語るつもりはありませんでした。あの穏やかな時間、優しい時間、あの理想郷のことを話したかったのです。

古谷さんと松山くんが付き合い始めて、全く違う風がクラスに訪れた時、私は、大げさかもしれませんが、奇跡を見たと思いました。しかし悲しいことに、奇跡は嘘のように呆気なく消え去ってしまったのです。





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