―膜のむこう
自由を失ってから、わたしにとって世界は眩し過ぎた。光の下がとても怖くて。出来るときにはいつも、影を探して身を隠した。
だけど完全に隠れてしまうことなど出来はしない。足と手に絡みつく鎖が音を立てる。誰かがわたしを蹴りつける。怒鳴っている誰かが何を言っているのかわからなくて、俯き続ける。
ふと、音がよく聞き取れなくなったのはいつからだろうと思った。頭がぼんやりして思い出せなかった。
時々それでひどく罵られている気がしたが、もう動じることもない。
何を言われているのかわからない。
それなら傷つかなくて済む。
それだけがいいことなのだと思っていたわたしの前に……あの人は現れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
閉じ込められているか、物を運ばされるか、最下級の下働きをするか。現在の身分に落ちてからは、そんなことの繰り返しだった。
数年前に村が襲われて、家畜のように売られた。衝撃を呑み込む暇すらなく、流されてそのままどうなることもなく。
わたしのような人は何人もいて、増えたり減ったりしてただ生きた。周囲の環境の何もかもが力を奪っていく中、屈辱すら忘れたふりをして命令に従いながら。
わたしはその中で一番小さかった。今まで生きていられたのはひとえに奇跡としかいいようがない。
「――――!」
ここ何日狭い場所で目を閉じていただろう。扉から光が漏れ、誰かが何かを言う気配がして、顔を上げた。
不潔で暗く、湿気が酷い部屋だった。ざらついた堅い木材の床が身体を軋ませる。周りの人々が立ち上がるのに乗じて、のろのろと腰を上げる。
船に乗っていたのだと、そこを出て思い出した。歩いた先に海が見え、独特の臭気を嗅ぎながら目を細めれば、青い景色は波も無いほど穏やかで、空は晴れ渡っていた。陸が近くにあり、もう港に着くところなのだろう。
「――――」
命令者が何かを言い、周りの者が動き出す。船の内部に積まれた荷を運ぶのだ。言葉が判断できなくなってからは、他の人の真似をしていれば大抵のことは許された。食材の詰め込まれた袋とたくさんの木箱の前に並ぶ。
だがその日に限って、港に着いたところで大きな男に腕をつかまれ、何か言われた。
「――――」
わからない。
聞こえるのに理解ができない。
なぜだろう、そのときの気持ちを言い表すこともできない。本能的な恐怖が胸の内に沸き上がり、体が硬くなる。命令者はそんなわたしを見て顔を顰め、わたしが何とか運べるほどの荷を押し付けると鎖を乱暴に引いた。ついてこい、と唇の形が言ったように思え、必死で従った。
町には光が溢れ、物があり家があり人がたくさん居た。時間帯のせいか、あまり影もない。
行商人が独特の掛け声を出して行過ぎる。猫が屋根の上で前足を舐め、海鳥がその上空を通り過ぎる。
老婦人が膝をついて子どもの服を直してやっている。
開いた家の窓から焼き菓子の香りが流れてくる。
どこを向いていも辺りは平和な活気でざわめいている。
木箱の荷はずしりと重かった。何が入っているのだろう。思考を鈍らせ、下を向いてただ足を動かしていた。
そうしなければ全部がとてもまぶしくて、妙に白々しく、光に侵されてどこかが破れてしまいそうだった。かつての自分がそこにいたことを記憶は知っている。薄らいで擦り切れた思い出が蘇えるほどに、重い。鎖が熱を吸って皮膚を焼く。
本当に知っていたのだろうか?
呼吸をした薄い胸の奥が鈍く痛んだ。
負担がかかる肩も。腰も。足も。
割れそうに痛い。
「っ……」
容赦ない日差しの眩しさに、わたしは眩暈を起こして道の端につまずいた。
まずい、という思いと、蓄積された疲れが一瞬交差し、後者の諦めが踏みとどまることを阻害した。
心臓が大きく跳ね、荷だけは胸に抱え込み、守る。側を歩いていた通行人にぶつかる。内容を把握できない命令者の怒声が響く。背中を蹴られる。わたしは地面に這い蹲りながら、唇を噛んで目を閉じた。痛い。暗闇が恋しい。影が欲しかった。遠い昔の家族の笑顔と死に顔が、浮かんで消えた。
疲れた。
疲れた。
疲れた……。
でも、だけど、こんなところで――――
「頑張ったんだね」
そうして拳を握り締めた時に。
長年理解できなかった人の声が、はっきりと聞こえた。
「それでも、終わりたくはないんでしょう?」
思わず耳を押さえ、顔を上げた先に見えた深い茶色の瞳が、まるで求めた暗闇そのものだった。
言葉。聞こえる。目の前の靄が晴れる。わたしがぶつかってしまった人。
白い髪が被ったフードから僅かに零れていた。底の無い静かな沼のような、揺らがぬ意志を秘めた眼差しがわたしを覗き込み……。
今まで見たどんな人とも違った。
穏やかで暗く、冷たい、柔らかい孤独。
寒気がして、白い手がわたしを立たせてくれたことにも反応できなかった。身体が麻痺したように動かなかった。
「ねえ、縁なのかな? それとも……」
「カロンさん」
「おう、すいませんねえ! 使えねえやつがぶつかりやがって、今後厳しく躾けときますから、勘弁してくれますかねぇ」
突然乱暴に腕を掴まれて、鋭い痛みが走った。鎖から赤いものが垂れて、大きな男の声が戻ったばかりの耳に容赦なく響いた。
やめて。
何か大切なものを汚されてしまいそうで、喉元まで気持ち悪さがこみ上げた。久々に湧き上がった激しい感情が胸を焼く。この人を傷つけたりしたらわたしは――
けれど威嚇するような大声を浴びせられて、連れらしい少年に手を掴まれた白い髪の女性は――きょとんとした後、ひどく酷薄な笑みを浮かべたのだった。
「無理。勘弁できないなぁ」
「あぁ?」
「まあでも特別に、その子を渡してくれるなら許さなくもない」
「何言ってんだ、この」
「どうだろう。もう一度別の場所で、生きるというのは」
男の言うことを無視してわたしに笑顔を向けた人を、信じられない思いで見つめた。
そのとき自分が求めたものは、ひとかけらの希望であり、己の全てであり、そういうもの達を全部混ぜ込んだ形にすらならない光だった。
終わりたくない。絶対に終わりたくはない。
思いをこめて伸ばした手が彼女の手に重なる。その瞬間錆びた鎖が切れて枷が外れる。汚れた身体を躊躇なく抱きしめられた。闇の中で仄かないい香りがして、羞恥と安堵で全身の力が抜けそうになった。
「おいおい、その綺麗な顔滅茶苦茶にされたくなきゃそいつを」
「あと十秒なら見逃す」
それから起こったことは、緊張のせいであまり覚えていない。
ハヤテ君、ちょっとお願いね。そう言ってその人は連れの少年の手にわたしを押し付けた後、一人で大きな男達を相手にした。思い返しても全くの無傷だった。怖がっていたようすも疲れた様子も思い出せない。それどころか、恐ろしい気配であの場を支配していたのではないだろうか。
「これ使っていいから、身体を洗っておいで」
それから……朦朧としたまま手を引かれて辿り着いたのは、住宅街の小さな家だった。
入浴道具を渡され、言われるがままに浴場で汚れを落とすうちに、混乱は徐々に抜けていった。だが温かいきれいな水がわたしのために用意される。枷も無い。こびり付いていた垢と汗が身体から抜ける。柔らかいタオルが目の前にある。シンプルだが清潔な服も。
身体を動かしていても夢の中にいるようで、何も言葉が出てこなかった。これからどうなるのかなんてわからないのに、もう怖いことは起こらないと、本能が理解していた。
「次はこっち」
服を身に着けると、すぐにあの人が呼びに来て、木のテーブルに案内された。
こじんまりした静かな家には彼女の気配しか無い。俯いて気持ちを落ち着けようとしているうちに、水とスープが用意される。空腹を思い出したらたまらなくなって、許可が出ると夢中で飲み込んだ。
嬉しかった。生き物としての欲求が満たされた。野菜と肉を薄くどろどろに溶かしたようなものでも、食べられるだけで……
「あんまりおいしくないでしょ。ごめんね。胃が受け付けるようになったら、美味しいもの食べさせてもらうといいよ」
食べさせて?
何をするでもなく正面に座り、薄ぼんやりした日差しの中で言った彼女の声。
それは不意にわたしの胸を突いた。スープの器をテーブルに置き、ゆっくりと視線を上げた。
優しげな白皙の美貌が微笑んだ。その目は確かにこちらを見ているのに、何も見てはいなかった。
「おい、しい、です」
「え? そう?」
「おいしい、です……」
空腹を別にしておいしいかおいしくないかと言われれば、答えは瞭然。病人食にしても味がそっけ無くて、どこかバランスが悪くて。
それでも、そんなこと以外に、何を言えたというのだろう。人形のように見える曖昧な恩人に、なんと言えばよかったのだろう?
欲しかった。助けてくれたとかそんなことよりも、ただ目の前の人に、純粋に優しくできるだけの何かが、心の底から欲しかった。
「そーかあ。嬉しいな。基本的に味付けできないんだよね。今日はいい日だよ。あ、何で泣くの? そんなにおいしかったとは思えないけど」
彼女――メルさんが、明るい声で笑ってわたしの頬を拭ったときにはもう、願っていたのだと思う。
「それにしても……許せない。こんなにかわいいのに、なんだって本当に……よし、明日までにやれるだけきれいにしてやろうじゃないか!」
マッサージ、洗髪、薬物治療と、その日はまるで自分が宝物になったみたいに世話してくれた。あざも鎖の後も消えはしないのに、メルさんは何度もわたしのことを「かわいい」と言って嬉しそうに笑った。決して傷つけないように触れる手が優しくて、冷たくて。
切なかった。
「こんにちは、クリバラさん」
「おや、カロン先生。昼間に来るのは珍しいねえ! その子は?」
だってわかっている。
泥のように眠った翌日、「千鳥」と書かれた看板のある店先にわたしは連れられた。クリバラさんという女性に会いに来たらしい。
出てきたのは元気で優しそうな女主人だった。
「実は孤児らしいんです。昨日診療所に預けられたというか……色々あって、とりあえず預かったわけですが、面倒見てもらえる所などご存じないでしょうか」
わかっていた。
この人はわたしなど必要としていない。
薄い作り笑いですらすらと嘘を重ねるその人は、もうわたしのことなど見てはいなかった。
「あらあ、大変。十四、五歳かしら? かわいそうに……」
「少ししたら立派に働けると思いますよ。真面目なのは保障します。クリバラさんのところ、人手が足りてないんじゃありませんか?」
「そうだね。ちょうど三番目の娘が嫁に行ったからね。うちに来てもらえたらいいね」
クリバラさんの大きくて温かい手がわたしの手を握る。木箱の積まれた裏口は、影と光を明確に分けている。
この人と暮らす?
目線を合わせて笑ってくれた女主人を見れば、不意に暖かな未来が目の前を過ぎった。
この人は絶対に差別なんてしないし、甘やかすだけでもない、本当の家族みたいに扱ってくれるだろう。生活に不自由することもなくて、その深い情に包まれて、いずれ恥じることなく自立できるだろう……
「ありがとうございます。助かります。では、私も出来る限り援助させて頂きますので、今日のところはこれで」
あの人の声がそう言ったとき、わたしはクリバラさんの手を解いていた。なぜなんて決まっていた。振り向いて、必死に灰色のローブを掴んだ。身体も、呼吸も震えた。あの人はブーツに包まれた足を止めた。
「何?」
顔が上げられない。不信そうな声は上辺だけ優しくて、本当はとても冷たい。その深い瞳はちっともわたしを映さない。身が竦んだ。だけど、わたしは――
「お礼……まだ、何も、」
「いらないよ。助けたいから助けただけ。気まぐれだし、恩に着る必要もないよ」
「で、も」
「じゃあクリバラさんのところでしっかり働いてくれればいい」
宥めるように、おざなりに頭を撫でる感触がしたとき、お腹の底が熱くなって、ばっと顔を上げた。目元も熱かった。僅かに見開いたチョコレート色の目を睨むようにして、力を込めて言った。
「いやです……!」
「え?」
「行きたくない、です。あなたのところがいいです。なんでもします、から、どうか、」
「ええ?」
「どうか……使ってください。雇って、ください。わたしは……わたしは、あなたの側が、いいです……」
迷惑と分かっているのに、訴えた。必死に手に力を込め続けた。
だってもう見てしまった。触れてしまった。寂しそうとも呼べぬ、孤独の中に身を置く子どものような、心を彷徨わすような、全てから遠ざかるような危うい表情を。
こんな身にさえ、側にいて何かをしてあげなければ一生後悔すると思わせるなんて――
「なんで、まあ……」
――卑怯だ。
涙でぼやけた視界の中で、ふっと目の前の顔から冷たいものが抜け落ちる。呆れたように、堪えきれないように笑みを零す。
「同じようなこと、言うかなぁ……。何がどうして? クリバラさんの方がどう考えても優しいよ。わかってるの? ああ、そうだね。そういえば助手が欲しくなくもないかな。部屋も、どうにかしようと思えば……シリウスはいいとして」
ぼやいた後、君の名前は? とあの人は初めて聞いた。こちらを見つめる楽しげな目に、わたしは涙を拭って声を張った。
「ソラネです」
ちゃんとこの存在が届くようにと、心を込めながら。
☆.。.それである日のジョーク*・°☆
聞いていた以上に綺麗な人だった。
いや、男の人に綺麗だなんて失礼かもしれないけれど。「ただいま」とドアを開けた端正な人を見て、わたしは咄嗟に理解して、緊張したまま素早く頭を下げた。
「こんにちは。えーっと……」
困惑気味の青年――シリウスさんは、笑顔で私の肩に手を置いたメルさんを見て、頬を掻いている。困らせるわけにはいかない。急いで自己紹介をする。
「はじめまして。あの、ソラネと申します……」
「実は前の夫との子どもなの! 先日偶然再会してね? 引き取っちゃった!」
「え゛……?」