表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/88

―雨の中


 ―雨の中―



 目の端に在り続けたのは、いつ降り出してもおかしくはない空の色だった。

 濁っている。空気は重く風が生温い。肌にまとわりつくように停滞している。

 そのせいで、足まで重くなってしまったわけではないだろうに。

 心臓が鈍い鼓動を刻む音を耳の奥で聞く。

 荒れた路面の先で、ぼろぼろの衣服を纏った魔女が顔を歪めて笑った。無駄だ。もうなにをしても無駄だと。

 無駄じゃない。

 そんなことは言えなかった。麻痺した焦燥は極限まで高まり、あっけなく破れた。


「やめろ……!」


 間に合わなかった。自分の声が遠く。どこにも届かない。虚弱な魔術を振り払い、駆けながら手を伸ばした先で、血飛沫が上がる。ナイフで自ら喉を掻き切った女が苦悶の表情でくず折れ、痙攣する。

 たった数秒。ほんの数メートル。

 届かなかった。

 血が涙のように、頬を伝った。目の前で魔女は世を憂いながら、呪いながら、息絶えた。骨ばった肩を掴みながら、まだ体温が残る死体に呆然とした。


『もはやこの世界で、魔術師など生きる価値はない』


 唯一聞いたのは悲しき嘲笑。目の前にあるほつれて絡まった髪。黒く汚れた爪。垢の浮いた顔。説得するつもりだった己が、ひどく愚かで無力で、何の価値もない存在に成り果てる。

 手に触れた遺体は急速に冷えていった。その姿に誰よりも愛しい人の姿が重なった。


 追い詰めた。殺した。魔女を。人を……


 雨が落ちる。水が辺りに血の海をつくる。

 殺した。そう悟った途端視界が揺らぎ、現実が遠のいて、心が歪な音を立てて砕けた。



....::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:..




 まだ昼間なのに薄暗くて、強い雨脚は弱まる気配もない。断続的な音は家全体を包むように響き、透明な雫が瞬く間に滴っては地に落ちて流れ、消えてゆく。

 メル・カロンはいつの間にか窓の外に向けていた目線を卓上に戻した。この天候では今日はもう患者は来ないだろうと見当をつけ、診療所に行く予定を取りやめていた。

 午前中の診察記録をまとめるのに集中して頭痛がする。がらんとした部屋の中、首をほぐしながらお茶でも飲もうと椅子から立ち上がる。

 炊事場でカップを手に取った時、裏口の辺りから物音がした。誰だろうと、カップを持ったまま何気なく歩み寄った。

 やがて扉が開き、ザアザアと絶え間ない音を連れてその人は入ってくる。雫が床に染みを付けた。


「――シリウス? おかえり。予定より随分早かった? 今日帰ってくるなら」


 何も言わなかった。

 何の言葉もなく、ただ、急に強く引き寄せられて、唇を唇で塞がれた。雨に濡れた人の匂いと、冷たい体温が全身を締め付けて、呼吸が出来なかった。


「っ……、しり、どうし――」


 必死に息を吸う間に、雨に侵されたような見たこともない表情を目にして、思考が凍りつく。

 知っている。見たことがある。……懐かしい。

 それは鏡の中で見た表情だった。


「――――」


 押し付けられた寝台の上。言葉を殺すように肌を暴かれるうちに、余計な思考は崩れていった。どうしてこんな目にあうのかなど、考えることもなく。言葉にならない声を、痛みの中で何度も感じる。それだけが全てになる。世界から切り離すような、雨の音が全てを覆う。そのうちに、思った。

 君は、知らない。

 君だって知らない。平等な愛しか知らない。家族からの特別な感情はきっと、私よりも知りえない。

 そう思っているから、今こんな風にしか出来ないのだったら、それは違うと思った。伝えたかった。ちがう。絶対に違う。だって、わたしがここにいる。


 愛してる。


 行き場のない熱の中から溢れた言葉が、唯一つの真実だった。

 今更信じてもらえないかもしれないが。

 彼の苦しみと悲しみなら欲しくて。壊されても殺されても構わないから。

 濡れた金髪に右手を差し込んで、力の入らない指で緩やかに梳いた。とたんに、相手の呼吸から力が抜けて、拘束が緩んだ。誰にも聞こえないような声で謝る。


「……メル、……ごめん、……」


 だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 頭を抱きしめて、息を整えながら繰り返し呟いた。

 これから先、何をされても私は彼を許すだろう。どれだけ傷つけられても、きっと彼のせいだとは思わない。

 体温が沁みる。音が全てを掻き消して、一つに溶ける。

 ぼんやりと考えた。いつまで降り続けるだろう。いっそ二人で沈んでしまえれば――


 胸の中で泣く人を宥めながら、メル・カロンは窓の外の止まない雨を見ていた。







 ―ランドボード―



 ランドボードというゲームがある。

 それは大陸南部から伝わった代物で、一枚の盤と十三の駒を二組使い、二人で対戦する形式をしている。駒はおのおの異なった動きをし、相手の「城主」と名づけられた駒を取れば勝ちとなる。ゲームといえど、突き詰めればどこまでも複雑な世界が垣間見える、そんな魅力を持っていた。


「獣を、二つ右へ」

「ん? うう……? むー?」


 そしてシリウスの恋人であるところのメル・カロンは、現在そのランドボードにはまっていた。

 春の町の酒場「千鳥」で、偶々居合わせた客からその存在を教えてもらってから、僅か一月。今や町で彼女に勝てるものはいないのではと思うほど、強くなった。普通そんな期間で上達できるものではなく、素朴な町人はひたすら感心して首を捻るが、シリウスは無理もないと思う。

 いくら魔力の大半を失おうと、この人は魔女だ。その追求癖は伊達ではない。メルがランドボードを知ってから、暇さえあれば飽きもせず盤を眺めていたのは、もう誰よりもよく知っていた。


「負けだ! 先生強えよ。結構自信あったんだがなぁ。くそー今度また相手してくれよ」


 千鳥の一角で今夜の対戦を終え、メル・カロンはにこりと微笑む。無駄口を叩く必要はないし、このときばかりはメルも大人と打ち解けられるようだった。常連客が戦略について議論を始めたのをきっかけに、シリウスは手招きしてメルを呼び、店を後にする。


「連勝ですね。今日も」

「そうだよ。勝つよ。負けると悔しいだろ」

「まだ飽きませんか?」

「そんなことじゃないんだよね。見たいんだ。あの中に広がっている世界を全部。そう思わないのかな」


 酒のせいで少し饒舌な彼女に、軽いため息を吐く。これは当分飽きる様子もない。医者を再開した上シリウス自身町を離れることが多いのに、ランドボードのせいで最近富に取り合ってくれない気がするのだが。


「対戦してる人の頭の中、わかったりするんじゃないですか?」

「じゃあ君もする?」


 揶揄しても微笑を崩さないメルと、家に帰ってから向かい合う。使用するのは魔女時代に培った手先の器用さを生かし、木や石を使い彼女自身が作った精巧で美しい駒と盤だ。それは見たものならゲームを嗜まない者でも欲しがるくらいの代物である。本当に凝り性というか。

 薄い酒を飲みながら、仄かなろうそくの明かりが揺れる中。時折手を動かすのはひどく代えがたい時間。


「うーん……」

「認めてもいいよ?」


 負けだって。

 追い詰められて長い間考え込んでいると、メルは上機嫌でシリウスの首に腕を回す。間違いなく強い。追求癖の頭のいい魔女に勝てるとはシリウスも思っていなかった。

 だが。


「また明日、挑戦していいですか?」

「ん……」


 好きにさせていた彼女の手を引き寄せ、一度唇を合わせてから囁く。メルはシリウスの髪や頬に唇を寄せ、目を細めて笑った。


「いいよ。でも、勝たせてはあげないけど」


 この人は意地悪だ。

 宣言どおりこれからもこのゲームで勝たせてくれたりはしないだろう。だが、そのプライドを満たしてやれば寛容になることを知っているから――シリウスは誘う。


「そのうち一回くらいは勝つよ」


 駒達が佇む盤から目を離す。

 穏やかな夜の部屋で、楽しげに微笑む彼女を抱きしめた。









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長編小説検索Wandering Network 
ネット小説の人気投票HPです。投票していただけると励みになります。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ