―雨の中
―雨の中―
目の端に在り続けたのは、いつ降り出してもおかしくはない空の色だった。
濁っている。空気は重く風が生温い。肌にまとわりつくように停滞している。
そのせいで、足まで重くなってしまったわけではないだろうに。
心臓が鈍い鼓動を刻む音を耳の奥で聞く。
荒れた路面の先で、ぼろぼろの衣服を纏った魔女が顔を歪めて笑った。無駄だ。もうなにをしても無駄だと。
無駄じゃない。
そんなことは言えなかった。麻痺した焦燥は極限まで高まり、あっけなく破れた。
「やめろ……!」
間に合わなかった。自分の声が遠く。どこにも届かない。虚弱な魔術を振り払い、駆けながら手を伸ばした先で、血飛沫が上がる。ナイフで自ら喉を掻き切った女が苦悶の表情でくず折れ、痙攣する。
たった数秒。ほんの数メートル。
届かなかった。
血が涙のように、頬を伝った。目の前で魔女は世を憂いながら、呪いながら、息絶えた。骨ばった肩を掴みながら、まだ体温が残る死体に呆然とした。
『もはやこの世界で、魔術師など生きる価値はない』
唯一聞いたのは悲しき嘲笑。目の前にあるほつれて絡まった髪。黒く汚れた爪。垢の浮いた顔。説得するつもりだった己が、ひどく愚かで無力で、何の価値もない存在に成り果てる。
手に触れた遺体は急速に冷えていった。その姿に誰よりも愛しい人の姿が重なった。
追い詰めた。殺した。魔女を。人を……
雨が落ちる。水が辺りに血の海をつくる。
殺した。そう悟った途端視界が揺らぎ、現実が遠のいて、心が歪な音を立てて砕けた。
....::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:.......::;.:. :::;..::;.:..
まだ昼間なのに薄暗くて、強い雨脚は弱まる気配もない。断続的な音は家全体を包むように響き、透明な雫が瞬く間に滴っては地に落ちて流れ、消えてゆく。
メル・カロンはいつの間にか窓の外に向けていた目線を卓上に戻した。この天候では今日はもう患者は来ないだろうと見当をつけ、診療所に行く予定を取りやめていた。
午前中の診察記録をまとめるのに集中して頭痛がする。がらんとした部屋の中、首をほぐしながらお茶でも飲もうと椅子から立ち上がる。
炊事場でカップを手に取った時、裏口の辺りから物音がした。誰だろうと、カップを持ったまま何気なく歩み寄った。
やがて扉が開き、ザアザアと絶え間ない音を連れてその人は入ってくる。雫が床に染みを付けた。
「――シリウス? おかえり。予定より随分早かった? 今日帰ってくるなら」
何も言わなかった。
何の言葉もなく、ただ、急に強く引き寄せられて、唇を唇で塞がれた。雨に濡れた人の匂いと、冷たい体温が全身を締め付けて、呼吸が出来なかった。
「っ……、しり、どうし――」
必死に息を吸う間に、雨に侵されたような見たこともない表情を目にして、思考が凍りつく。
知っている。見たことがある。……懐かしい。
それは鏡の中で見た表情だった。
「――――」
押し付けられた寝台の上。言葉を殺すように肌を暴かれるうちに、余計な思考は崩れていった。どうしてこんな目にあうのかなど、考えることもなく。言葉にならない声を、痛みの中で何度も感じる。それだけが全てになる。世界から切り離すような、雨の音が全てを覆う。そのうちに、思った。
君は、知らない。
君だって知らない。平等な愛しか知らない。家族からの特別な感情はきっと、私よりも知りえない。
そう思っているから、今こんな風にしか出来ないのだったら、それは違うと思った。伝えたかった。ちがう。絶対に違う。だって、わたしがここにいる。
愛してる。
行き場のない熱の中から溢れた言葉が、唯一つの真実だった。
今更信じてもらえないかもしれないが。
彼の苦しみと悲しみなら欲しくて。壊されても殺されても構わないから。
濡れた金髪に右手を差し込んで、力の入らない指で緩やかに梳いた。とたんに、相手の呼吸から力が抜けて、拘束が緩んだ。誰にも聞こえないような声で謝る。
「……メル、……ごめん、……」
だいじょうぶ。だいじょうぶ。
頭を抱きしめて、息を整えながら繰り返し呟いた。
これから先、何をされても私は彼を許すだろう。どれだけ傷つけられても、きっと彼のせいだとは思わない。
体温が沁みる。音が全てを掻き消して、一つに溶ける。
ぼんやりと考えた。いつまで降り続けるだろう。いっそ二人で沈んでしまえれば――
胸の中で泣く人を宥めながら、メル・カロンは窓の外の止まない雨を見ていた。
―ランドボード―
ランドボードというゲームがある。
それは大陸南部から伝わった代物で、一枚の盤と十三の駒を二組使い、二人で対戦する形式をしている。駒はおのおの異なった動きをし、相手の「城主」と名づけられた駒を取れば勝ちとなる。ゲームといえど、突き詰めればどこまでも複雑な世界が垣間見える、そんな魅力を持っていた。
「獣を、二つ右へ」
「ん? うう……? むー?」
そしてシリウスの恋人であるところのメル・カロンは、現在そのランドボードにはまっていた。
春の町の酒場「千鳥」で、偶々居合わせた客からその存在を教えてもらってから、僅か一月。今や町で彼女に勝てるものはいないのではと思うほど、強くなった。普通そんな期間で上達できるものではなく、素朴な町人はひたすら感心して首を捻るが、シリウスは無理もないと思う。
いくら魔力の大半を失おうと、この人は魔女だ。その追求癖は伊達ではない。メルがランドボードを知ってから、暇さえあれば飽きもせず盤を眺めていたのは、もう誰よりもよく知っていた。
「負けだ! 先生強えよ。結構自信あったんだがなぁ。くそー今度また相手してくれよ」
千鳥の一角で今夜の対戦を終え、メル・カロンはにこりと微笑む。無駄口を叩く必要はないし、このときばかりはメルも大人と打ち解けられるようだった。常連客が戦略について議論を始めたのをきっかけに、シリウスは手招きしてメルを呼び、店を後にする。
「連勝ですね。今日も」
「そうだよ。勝つよ。負けると悔しいだろ」
「まだ飽きませんか?」
「そんなことじゃないんだよね。見たいんだ。あの中に広がっている世界を全部。そう思わないのかな」
酒のせいで少し饒舌な彼女に、軽いため息を吐く。これは当分飽きる様子もない。医者を再開した上シリウス自身町を離れることが多いのに、ランドボードのせいで最近富に取り合ってくれない気がするのだが。
「対戦してる人の頭の中、わかったりするんじゃないですか?」
「じゃあ君もする?」
揶揄しても微笑を崩さないメルと、家に帰ってから向かい合う。使用するのは魔女時代に培った手先の器用さを生かし、木や石を使い彼女自身が作った精巧で美しい駒と盤だ。それは見たものならゲームを嗜まない者でも欲しがるくらいの代物である。本当に凝り性というか。
薄い酒を飲みながら、仄かなろうそくの明かりが揺れる中。時折手を動かすのはひどく代えがたい時間。
「うーん……」
「認めてもいいよ?」
負けだって。
追い詰められて長い間考え込んでいると、メルは上機嫌でシリウスの首に腕を回す。間違いなく強い。追求癖の頭のいい魔女に勝てるとはシリウスも思っていなかった。
だが。
「また明日、挑戦していいですか?」
「ん……」
好きにさせていた彼女の手を引き寄せ、一度唇を合わせてから囁く。メルはシリウスの髪や頬に唇を寄せ、目を細めて笑った。
「いいよ。でも、勝たせてはあげないけど」
この人は意地悪だ。
宣言どおりこれからもこのゲームで勝たせてくれたりはしないだろう。だが、そのプライドを満たしてやれば寛容になることを知っているから――シリウスは誘う。
「そのうち一回くらいは勝つよ」
駒達が佇む盤から目を離す。
穏やかな夜の部屋で、楽しげに微笑む彼女を抱きしめた。