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―オレンジ

 


 ハレーを心臓の上に包むようにして、地面に座っていた。

 春ともいえない時節の中、日の射さない周囲は肌寒いがあまり気にならない。それよりも眠れそうなくらい意識は薄く、すでに自分が乾いた固い舗装の一部になってしまったのだとしても、不思議ではなかった。

 深く被ったローブから少しだけ覗いた地面を見る。風に含まれた雨の気配。

 それはとても弱いから、物足りないと感じる。

 意思を隠すもっと強いものを望んでいる。本当に、この身は失せたのだと思うくらい容赦の無いもの。そうして飽きるまで、濡れてしまおうとぼんやり考えたその次に、視界に鮮やかな色が飛び込んだ。

 茶色の皮手袋越しに質感が生まれた。転がってきた果実に思わず手が触れていた。無意識にでも、拾ってもいいと感じたのは、それがどこか不恰好な形をしていたからだろうか。

 思考が過ぎったのは一瞬の出来事だ。

 どうもすみません、と情けなさそうな早口に、無言で手を差し出す。明るい色彩が失せ意識が再び薄らいでゆく。繋がることはない。このまま。

 現実が去ると、空の彼方で雨が生まれる音が、聞こえたような気がした。



 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::



「よぅし……こんなもんか」


 雲の多い晴れた午後は、汗ばむほどの陽気だった。

 トウフウの診療所の一角を仕切って整え、メルは二度小さく頷く。明日からの診察のために運び込んだものはそう多くないのだが、窓を開けて生成りの薄いセーターに膝丈のパンツで作業していても、身体を動かすと暑さに体力を削がれる。入り口から見てすぐ右側、やっと即席で子ども用の診察室をつくり終えた。幕を引いた後の白壁の大部屋の一部は流石に手狭だが、机と椅子とベッドがあれば大抵のことはしのげる。器具や薬は一般と共用でいいのだからと、一年前もそんな風にして始めたのが影響していた。

 すぐに使う液や紙を机に置き、少し考えていると、トウフウの助手であるハヤテが様子を見に来た。無表情な顔から眉を顰め一言、


「……殺風景」

「えー?」


 そうかな? どこが? なにが? どういう風に? だめ? 論外? やりなおし?

 立て続けに質問すると、すっかり成長した少年もとい青年は、あからさまに顔を顰めて退散してしまう。助言してくれるくらいには仲良くなれたのかもしれない。が、シンプルとはいかないのだろうか。

 メルは狭い空間を眺め、考えても分からないので諦めて家主のところへ足を運んだ。

 同じ空間のすぐ横で、トウフウは燃え尽きていた。


「ねえちょっと。だめだし食らったよ。だから殺風景じゃないものだしてよ。ねえねえ」


 うめき声が答える。


「さっぷうけい……? 一体……殺風景の何がいけないんだ……時に気休めほど空しいものもないってことをな、みんなもちゃんと理解する機会が、必要であって……」

「それを理解するのがここじゃまずいと思うんだけど、ごめん粗悪な皮肉だったのかな? もしかして気休めに対する照れ隠し?」

「は……? 何が……?」

「あーもう、このやろう。なんなんだよ。せめて思考回路働かせてないと混乱すら出来ないって、それ一体何のために存在してるんだよ」


 完全に使い物にならない医者の髪を一房引っ張って言葉を浴びせた後、メルは深いため息を吐いて、トウフウの肩に手を掛けた。案の定筋が凝っていて非常に血行が悪い感触が伝わってくる。白衣すら皺になっている。昨夜も、その前も厄介な緊急の患者が運び込まれたのだ。眠れていようがいまいが日中の業務を休むわけにはいかないと、働き詰めればこうなることは目に見えているのに融通が利かない。

 だからこそ、なのだろうけれど。

 ぐったり机に突っ伏す青年に、少し優しめに言ってやる。


「寝るなら部屋に帰って寝なきゃ、無駄寝だって。こんなとこで半死しててもね。夜もバタバタしてたんなら尚更」

「だめだ……今から、往診行かないと……カワカゼのばあちゃんが……」

「人一人に出来ることなんて高が知れてるんだけどなぁ。認めればいいのに」

「んな、おーげさな話、してんじゃなくて……これは、俺にできることだから……」

「普段はできるってのと、今すぐできるってのはまた違うんだけどね……とにかくちょっとそこの寝台に寝て。気の流れが悪すぎる」

「……うぐぅぅ……」


 水を飲ませてから引きずるようにしてベッドに寝かせ、手の体温を調節して、背中から柔らかく丁寧に身体をほぐしていく。背骨、肩、腕、足、首筋、頭。手のひらと指先で慎重に体液の流れを促すうちに、抗えなかった寝息が聞こえてくる。感覚を消すようにそっと指を離し、メルは腰に手を当てた。


「できること、か……」


 目をやった机の上には乱れた紙の束がある。トウフウの身体に毛布をかけると、静かに鞄に手を伸ばした。



 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* -*-*-*-*-*-*-*-*-*-* -*-*-*-*-*-*-*-*-*



 大丈夫か?

 ふっと声が聞こえてきた気がして、目を開けた。胸元に隠し抱きしめていたハレーの声に似ている。そう思ったけれどそうではなく、誰かのほんの小さな呟きのように思われた。

 今は生き物の声は聞こえない。それなのに確かに聞こえた気がしたから、妙に胸が騒いで、顔を上げた。

 空が見えて、始まりの雨が顔に触れ、笑い方を思い出した。目の前に居た彼は、それくらい単純でわかりやすい、困った表情をしていた。

 知らないことは不幸だ。それ以上に幸運でもある。目の前のモノが一体何なのか、どれほどのものなのか、何を感じているのか、一片も知らないこの状況がまさしく。

 声が遠い。心底望んでいる。

 融けてしまいたい。どこでもいい。

 わかるはずもないだろう?

 もうすぐ空が割れる。そんなことすら、君は知らないのだから――


「何だいお前は本当に、私を石かなんかだとでも思ってるんだろうね」


 お前は誰だから始まり、説明すれば軽蔑と不信を並べ立てられ、その次はあの薬は嫌だそれもだめだこれくらいどうにかしろと文句を言われ、捨て台詞と共に追い払われる。

 以上の出来事に腹が煮えるほど若くはないが、脱力感を覚えたのは確かだった。

 春の町の北部、海が見える道を歩いていたメルは、立ち止まって水平線を眺める。日暮れの少し前、夏の日差しは眩しく、一つに結んだだけの髪の隙間からうなじを焼く。雲が風に流れ、船が波の間に浮かぶ広い世界を見ていると、一人だと思うことにも耐えられるのが、不思議だった。遠く、広く、現実感が無いほうがいい。普段は無理だった。無理矢理忘れ、演技をして思考を閉ざさないと、喋れないし、歩けないし、動くことが出来ない。

 他人を石だと思っているわけでもない。石のほうがいいと思うことはある。普通の人間はそれを無情というのだろうか。それがわからない。石は少なくとも人に脱力感を与えたりはしない。


「――おーいっ……!」


 そのうちに呼び声がして、坂道の途中に目を向けると、トウフウが駆け上ってくるのが見えた。また疲れることをしていると、呆れながら見ている前で、彼は大きく息を切らしながら止まった。


「あー、つ、疲れたっ……暑い!」

「そりゃ、それだけ走ればねぇ……。ていうか、もう起きたんだ。ハヤテ君には伝えておいたと思うんだけど」

「それは、聞いた、けどさ、」

「何? 不満? 役不足? 余計な世話?」

「じゃなくて! だって俺は、まさかお前が、代わりに往診行ってくれるなんて思わなかったから」

「うん、私も思わなかったよ」


 軽口を返せば、悔しがっているような声で、彼は言った。


「茶化すなバカ」


 詰られても腹は立たず、微かに喉の奥が熱くなった。バカと言われても許せる。心の狭い自分にそんな存在が何人もいるはずがないと気付いたから。

 君は君だが、少しだけ、重なっている。

 トウフウは眉尻を下げて、続けた。


「だって、お前は苦手じゃんか……初対面の大人なんて、一番。それって、昔なんか嫌なことがあったってことだろ? カワカゼのばあちゃん、かなり口が悪くて難しい人だから、お前嫌な思いしたんじゃないのか……?」

「やだな、そこまで柔じゃないよ。期待しなければ何も感じない」

「やっぱ、言われたんじゃないか」

「石ころ扱ってるみたいだとはね。だけどそれは勘違いだよ。私は石のほうがいい。それなら何があっても痛くない。ちがう? 痛いと思うために生きてるわけじゃないのに、生きるのは痛みと同じようだとも思う」


 切り離せないから諦めて、ただ耐える。現実を遠ざけて、痛みが和らぐのをひたすら待つ。いっそ融けてしまいたかった。モノになりたかった。ずっとそう思い続けてきた。


「そうかもしれねえけどさ……痛いだけじゃ、生きていけないだろ」


 トウフウは海に向かって伸びをしながら答えた。

 風が強い。思いがけず思考を攫われて、彼の横顔を見つめた。


「痛みだけじゃ生きていけない。だから、痛くても生きていけるような、救いがある。どこかに。誰かに。それは石じゃない。ちがうかな?」


 目が合う。楽しげな視線の中に、言葉が見える。救い。そこに映っているのは、自分自身で――


「そうだよ。痛いと思うために生きているわけじゃない。生きるのは、生きていけるからだ」


 あの日、現実を手のひらに載せた鮮やかな果実。拾ってしまったという矛盾。「そんなことより!」と、君は素っ頓狂な大声を出す。わざとらしく耳を塞いでみせた。そんなこと、か。そうかもしれない。

 私だって君を知らなかった。


「なんだようるさいな」

「まだ言ってなかった! ありがとう! ほんと疲れてて、正直きつかった。お前が往診行ってくれたから休めたし、身体も楽になった。だから」

「バーカ! あほ! まぬけ!」

「なんでっ!?」


 馬鹿だ。どうしようもない。単純で、お人好しで、滑稽。

 心外だと怒る姿が子どものようで、メルは潮風に乱れる髪を押さえながら、思いっきり笑った。そして少しだけ滲んだ何かをまばたきに隠して、波と風に負けない声を出した。


「私、君のこと好きだったよ」

「すっ……!?」


 もしもシリウスに再会しなかったら、永遠に友情に似た片想いを抱いて生きたかった。

 そう思うくらい。

 唐突な告白に何かを噴出し、焼けたみたいに顔を赤くしてしたトウフウは、やがて肩を落とし頭を抱える。


「おま……言うなよ……。俺、それだけは、言わねえって――うわ、てかマジ、で……あぁ~もう!」

「今はもちろんシリウスがいるけど。君だって、コノミちゃんと結婚するんでしょ」

「まだ、はっきりいつって決めてはないけど――そうだな」


 結局は互いに、あの距離以上を求めるほどの不満がなかったのだ。

 満たされていた。同時に、愚かなほど無防備だった。

 

「惜しかったねぇ。私は、言えなかったけど」

「惜しかったなぁ。俺も、憧れるだけで絶対言えなかったけど……う、これ、無しだからな。ほ、ほら、それより、買い物行くか? 殺風景じゃないもの買いに」

「ああ、そうだね。綺麗な色があるだけで、だいぶいいかもしれない」


 並んで帰る道筋に、海を見る。空の端に夕暮れが架かる。

 懐かしい――

 こみ上げた思いの意味が今鮮やかに身体を包み、それだけが消えることはないのだと、過ぎ行く時の面影を想った。




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